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最終章
08
しおりを挟む宵闇の中を、照明の仄かな灯りを頼りにマティアスは廊下を進む。
半年ぶりに向かうリリアの寝室。
昼のうちに連絡を入れたので、待っていてくれているはず。ゆっくり話すのも久しぶりだし、リリアの寝室に至っては無理矢理組み敷いたあの時以来だ。
ノックをする手が少し緊張した。
「お待ちしていました、マティアス様」
暗い部屋の照明は抑え気味になっている。
リリアは細い体をマティアス好みの繊細なレースと刺繍の施された寝衣に包んでいた。
ふと、初めてこの部屋を訪れた初夜を思い出す。
あの時も可愛らしい少女だったが、リリアはこの二年で身長も伸び『可愛らしい』よりは『美しい』という言葉が似合うようになった。
最近はマティアスの隣に立っても以前ほどの違和感はない。
荷物を抱えたまま部屋に入ると、マティアスの鼻に甘い香りが届く。
「……懐かしい香りがするな」
ふふ、とリリアが面白そうに笑う。
「半年ぶりのお渡りだということで、メイドが気を利かせてくれました。そう言うことではないと言ったんですけど、殿方が、仕事の成果を上げるまで恋人に会いに来ないのはよくあることだと慰めてくれるので、断りづらくて」
それに、とリリアは寝衣を上品につまんでくるりと回ってみせる。
「これ、とても可愛いので。
せっかくマティアス様に会えるので、おめかしも良いかなって」
「俺の妻は、いつでも可愛いよ」
真面目な顔でそう言うマティアスにきょとんとして、リリアはくすくすと笑い出した。
「ありがとうございます。わたくしの旦那様も、いつでも素敵でいらっしゃいますよ」
「可愛いので、その、……香は消してもいいか」
「ああ、マティアス様はこれはお嫌いでしたね。うっかりして申し訳ありません」
この香が嫌いな訳ではないが、こんな香りの中でこんな姿のリリアとふたりきりでは理性を保つ自信がない。
リリアは香炉を窓際に置いて香りを外へ逃してくれた。
今日はリリアを喜ばせるために来たのだ。失敗したくない。
半年ぶりの茶卓でリリアが紅茶を淹れてくれる。
その手つきを見ながらマティアスは切り出した。
「アルムベルク領の権利移譲について、実行日はまだ先だが―――概ね目処がたった」
「おつかれさまでございました」
「結構頑張ったのに、早いって驚いてくれないのか」
「最近回ってくる書類を見ていると、急いで移しているのが分かりましたから」
ティーカップの乗ったソーサーを静かにマティアスに差し出す。
「……それで、来月末には貴女と離縁することに、父上の了解をとってきた」
「イリッカ様はご承知なんですか?」
「母上は、なんだかんだ父上が決めたことは尊重するから大丈夫だ。
―――長い間、ありがとう」
「―――はい」
リリアは姿勢を正してマティアスの差し出す離婚許可証を受け取った。
重なる二枚目は、アルムベルクの役所へ移動されたイドゥ・ハラルとの外交窓口へのリリアの赴任辞令であり、これもマティアスが交渉して勝ち取ったものだった。
リリアが流麗な文字で離婚許可証に署名するのを見届けてから、茶卓にアーネストに渡された桐箱を乗せる。
「これは?」
「慰謝料だ」
「慰謝料は、二年前に頂いておりますけども」
「二年前には渡せなかった残りだ」
リリアは桐箱を受け取って蓋を開ける。中にはアルムベルク統治官の公印の押された業務伝達の様式が入っていた。
内容をあらためると、学園の活動再開の決定通知。
リリアの瞳がきらきらと喜びに輝く。
マティアスは心の中でガッツポーズを作った。
「あと、その下はアーネストから貴女に」
封筒を開けると、ビュッセル伯爵家の一億の小切手が入っている。名宛人の欄には『学園』の文字。封筒の裏には『離婚祝い』と書かれていた。
「離婚祝い」
「学園への寄付なら慈善事業として計上できるからな。ビュッセル伯爵は領地経営は側近任せだから、あいつの要望がけっこう通るんだ。悪いが俺は両親が手強いのでそこまでは無理だ」
「そんな、もう十分です」
「この二年間、貴女と過ごせて良かった。
明日からも俺は暫く忙しいので今日はゆっくり話をしたいんだが、大丈夫だろうか」
「もちろんです。
ゆっくりお会いできるのは、今日が最後ですか?」
「そうなるかもしれない」
「そうですか。
最近お忙しくてなかなかお会いできなかったので、今日会えて嬉しいです」
「まぁ、最初は貴女に合わせる顔がなかったというのもある。肩身の狭い思いをさせていたなら申し訳ない。
その後、手首は問題ないか?」
「大丈夫ですよ。
ご覧になりますか?」
リリアがマティアスの隣に来て両腕を差し出す。
……これは、袖を捲っていいのか?
…………いいんだろうな。
たぶん、リリアはマティアスに何をされようが照れても恥じらってもくれないのだから。
寝衣の袖を捲って細い腕を撫でてみたが、痣は綺麗に消えており跡は確認できなかった。
場合によってはリリアに触れられるのはこれで最後なのかもしれない。そう思うと、大きく無骨な手が、意思に反して白い手首を放そうとしない。
「マティアス様」
「すまん」
見透かしたように声をかけるリリアに反射的に謝ってしまう。
「なにがですか?」
「あ、いや、なんでもない。
なんだ?」
「マティアス様に、個人的なお願いがあるのですが」
「貴女が俺に?」
そんなこと、この二年間で一度でもあっただろうか。
アルムベルクの統治官として学園の運営には気を配っていきたいとは思っているが、他に何かリリアの希望を叶えられることがあるなら嬉しい。
「図々しいお願いとは存じますが……」
「いい。なんでも言ってくれ」
マティアスが大きく請け負うと、リリアは掴まれている手首を滑らせてマティアスと手の平を合わせた。
青い瞳が、蝋燭の灯を反射しながらマティアスを見る。
「―――今夜、ひと夜のお情けをいただけませんか」
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