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第三章

第12夜

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「どこにいたの!探したのよ!?」
 リビングへ入ると、母がシャーサへ駆け寄ってきた。
 こんなふうに自分のことを迎えられたことが無く、少し驚きながら「ごめんなさい」と謝る。
 母はシャーサの手を取ると、目を爛々と輝かせてこう言った。
「聞いて、シャーサ!すごいわ、王子様が奥さんを探しに町に降りてこられるんですって!」
 シャーサは母の勢いに気圧されながら「そうなの」と頷く。
 なんでまたわざわざ、と疑問を口に出す前に、母はシャーサの手を引いて玄関の方へ歩いていく。
「なんでもあの夜の舞踏会で出会った人を探しているんですって。その方は靴を片方落としていかれて、それを履けたら王宮に招かれるそうなの」
「…うん」
「ねえ、シャーサ、これはチャンスだと思わない?」
「チャンス?」
「その靴を履けたら、あなたは王子様と結婚できるかもしれないってこと!」
「え、いや…」
 でも自分は婚約をしていただろう、とか、いやその前に自分は他に一緒にいたい人がいるのだ、とか、言いたいことが多すぎてシャーサは口を開けたまま固まってしまう。
「来たわ!」
 玄関を出ると、大変な騒ぎになっていた。
 まるでお祭りのように城から連なった王宮勤めの人間たちが道に列をなし、その中央に恭しく掲げられた靴が丁重に運ばれている。
 そして、道の脇には着飾った女性たちが、それぞれの家の前で靴を履く順番を待っていた。
 白馬に乗ったこの国の王子は、一軒一軒の家の前で、女性たちが靴を履く様子を眺めているようだった。
 その光景に、現状が母の妄言ではないことを理解し、シャーサは慌てる。
「お、お母さん。私、舞踏会にも出ていないし、王子様と結婚するなんて無理よ」
「尻込みしちゃダメよ、シャーサ。舞踏会に出席していた女性はもちろんだけれど、未婚の女性は、全員履かないといけないそうだし…」
「お母さん、落ち着いて。ほ、ほら、あんな小さい靴、私には絶対に履けない。それに、私、一緒にいたい人が…」
「それ、それよ、名案があるの!」
 頬を上気させて母が懐から取り出したものは、ナイフだった。
「これで少し、いいんじゃないかしら」
「…は?」
 シャーサは母の言葉に耳を疑った。
「これで、足の指の先を削っておくのよ。そうしたら、きっと入るわ。大丈夫よ、だってお姫様になれば歩く必要なんてないもの」
 町の喧騒に酔ったように、うっとりとした表情の母に、シャーサはぞっとした。
「じょ、冗談はやめてよ」
「冗談なんかじゃないわ!…さ、足を出して、」
「い、いや!」
 シャーサは母の手から逃れて、家に入る。
「どうして?王子様との結婚よ?」
「そ、そんな誤魔化し、すぐに嘘だって知られてしまう。第一、本当の靴の持ち主がいるはずなのに、うまくいくはずがない」
 部屋へ戻ろうと階段を上るシャーサに、母は追いすがる。
「待ってよ、シャーサ。大丈夫、あの婚約のことが心配なら、私が断っておくから。上手くいくかどうか、一度試してみるべきよ」
 シャーサは振り返って母と対峙する。
「お母さん、おねがい。聞いて。私は、好きな人が…愛したい人が、できたの。それはお母さんが決めた人でも、あの王子様でもない。だから、私はお母さんの決めた婚約もしないし、靴も履かないわ」
 思い出す限り、シャーサにとってこれは初めての、母への反抗だった。
「シャーサ、まだそんなことを言っているの?」
「お、お母さんは、もう旦那さんもできた、し…。私は、私が、誰に愛されるか、決める」
 震えそうになる手を、胸の前で握る。
 母は初めてのシャーサの主張に、苛ついている様子だった。
「なら、連れてきて紹介してみせて。あなた、「いる」って言うばかりでその人のことを私に何も教えないじゃない。ただ結婚しないための方便としか思えないのよ」
「…」
 確かに、今の自分は本当に存在しているか分からない人間との関係を主張するだけの人間である。
 しかし、果たして魔法使いは頼めば母の前に姿を現してくれるのだろうか。
 おとぎ話の妖精や魔法使いと同じような存在だとしたら、難しいのではないだろうか。
 不安になってシャーサは押し黙る。しかしその時、その沈黙を破るかのように、玄関から来客を知らせるノックが響いた。
 まさか靴を履かせにきたのだろうかとシャーサは身構えるが、その扉を潜り抜けてきたのは、王子様ご一行ではなかった。
「こんにちは」
 入ってきたのは、見知らぬ男性だ。
 いや、その一度見たら忘れられない顔を、シャーサは知っている。
「お初にお目にかかります。この家のご息女をわたくしの家に招き入れたく、伺いました」
 帽子を脱いで、腰を折るのは、あの魔法使いその人だった。


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