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第一章 円満に離縁の準備を致しましょう

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 藍音がアイネと出会ったのは、トラックに撥ねられてからすぐのことだった。

「……死んだか」

 まるで他人事のように己の終焉を悟った藍音は、ぼんやりと辺りを見渡した。

 真珠色の空に、どこまでも続く淡い光を放つ一本道。両端は花畑だと思ったけれど、それは手のひらに乗るくらいの小さな球体の集まりで、一つ一つが寝息のような速度でゆっくりと色彩を変えていく。パステル画のような風景だ。

「わぁーお」

 古風なリアクションを取ってみたものの、心が麻痺してしまったみたいで何も考えられない。頭の中を締めるのは、最後に聞いたトラックのクラクションと急ブレーキの音だけ。

 枯葉のように飛ばされてしまった感覚はおぼろげに覚えてはいるが、痛みは全く感じなかった。

「即死だったんだ。ま……せめてもの救いか」

 中途半端に苦しんで痛みにもがいた末の死よりは幾分かマシだが、あまり嬉しくはない。そりゃあそうだろう。だって死んだのだから。

 享年28。あまりにも若すぎる死でした。きっと葬儀の時に司会者が間違いなく口にするだろう。

 喪主は夫の智哉になるはずだが、あの人ちゃんとできるのだろうか。あと保険金とか、退職の手続きとか、スマホの解約とか、香典返しの手配とか。

 人一人が死んだ後、残された遺族は山のような手続きに四苦八苦する。説明書を読んでも眠くなる智哉が無事にそれらをこなせるか。

 そんなお節介なことをつい考えてしまった藍音はブンブンと音がなるほど大きく首を横に振る。もう自分には関係無いことだと。

 大好きだった祖母が幼い頃に亡くなってから、藍音は死がとても怖かった。

 でもいざ死んでみると、もっと取り乱すと思っていたのに”こんなもんか”とあっさり受け入れられる自分がいる。あとは迷うことなく、淡い光を放つ一本道を進むだけ。

 しかし藍音の足はなぜか脇道に逸れた。

「どうせだったら死後の世界を散策してからでも遅くないよね」

 結婚してから追い立てられるように働いてきた。逼迫する家計を何とかしたくて残業だって率先して引き受けてきた。そんな自分にちょっとくらい寄り道というご褒美をあげてもいいだろう。

 人生最後の我が儘を許した藍音は、あてもなく歩く。気温は暑くもなく、寒くもない。地味なブラウスとスカート姿は死んだ時の恰好のままだが幸い靴は履いている。

「どうせだったらもっとマシな服を着ておけばよかったなぁ……勿体なくって着れなかったワンピース着て、あそこでお花見したかった。……ってーーえ!?違う、人じゃん!あれ!!」

 最初はチョロチョロと水が流れる小川の横に桜が咲いていると思った。

 でもそれは、そよ風になびく人の髪。しかもその髪の持ち主は舞台衣装並みのインパクトがあるドレスを着た少女だったで、藍音は飛び上がらんばかりに驚いた。気付けば全速力で、少女の元に向かっていた。
 
 それがアイネ・レブロンだった。

「おーい、こんにちは!」

 遠目からでも年下だとわかっていた藍音は、ヒラヒラドレスの少女に気安く声を掛けながら手を振った。

 しかし返事は無く、少女は振り向くこともしてくれない。振り上げた手が行き場を無くす。

 それでも藍音はへこたれず、少女の顔を覗き込んだ。すぐに、ぎょっとした。少女は茜色の瞳から大粒の涙を流していたのだ。

「……ごめん、ハンカチ無いからコレで拭く?」 

 しばらく言葉を失っていた藍音だが、ブラウスに付属してある太めのリボンをするする解いて少女に差し出した。

「ありがとうございます。どなたかわかりませんが……感謝いたしますわ」
「あーいえいえ」

 育ちの良さを感じさせる言葉遣いに、少女が劇団員という可能性は消えた。なら桜色の髪はウィッグではなく地毛なのか。

「えっと……どうしたの?何かあった?」

 どうしたもこうしたも、ここに居るってことは、自分と同じように少女も死んでいる。見たところ10代後半のようだし、やりたいことも沢山あっただろう。そりゃあ、泣きたくもなるか。

 野暮なことを聞いたなと自分に呆れる藍音に、涙を拭いた少女は薄く笑った。少女の桜色の髪と黄昏のような瞳の色が、いつかの夕日に照らされた満開の桜を思い出させる。

「わたくし、つい今しがた息を引き取ったのです。そして気付いてしまったのです。空っぽの人生だったなって……ふふっ」

 同意を求めるように首をちょっと横に倒す仕草はお人形のように可愛らしいけれど、笑えないし頷けない。

 何より10代の若さで、そんな悲しい台詞を口にしちゃいけない。

「詳しく聞かせてくれる?ほら……えっとさ、最後に女子会やろうよ、女子会!」
「女子……会?」
「そうそう。良いじゃん、奇麗な場所で思いっきり愚痴ろうよ。二人っきりだけど、いや、二人っきりなんだし、邪魔する人も居ないんだからワイワイしようよ」
「……ワイワイ?」
「そっ!ま、とりあえず座って座って!」

 言うが早いか藍音はその場に腰を下ろして、地面を叩く。硬いと思っていた球体は意外に柔らかくて座り心地は悪くない。

「失礼いたします」
「ん、どうぞどうぞ」

 まるで我が家に招いたような口調になってしまった自分を心の中で笑いつつ、藍音は話題を考える。

 とはいえアラサー女子と10代の女の子。共通する話題なんてすぐには見つからなかった。
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