この恋だけは、想定外

青砥アヲ

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迷いから醒める2

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「離婚が成立した後は実家に戻りました。
 1年での離婚はお互いだけで決めてたことだったので、突然帰ってきて叔母は驚いていたしものすごく怒りました。早々に離婚してバツがついてこれからどうする気なんだと」

 相手は一度の結婚歴を勲章か免罪符のように扱われる一方で、自分はまるで烙印のように言われる理由が分からなかった。

 あの1年の暮らしが幸せだったかといわれたら違うし、周囲がいう結婚生活とは程遠い。
 それでも、清流なりに頑張った1年がすべて否定されたような気がした。

「復学も反対されましたけど、生活費も学費もバイトで稼ぐ条件で何とか認めてもらいました。結局バイト代だけでは足りなくて援助をお願いすることもありましたけど…
 ただ、卒業が見えてくると今度は就職のことをいろいろ言われるようになって…」

 叔母のいう良い条件での就職先はなかなか見つからない。
 その程度の会社にしか決まらないのなら、将来安心してあなたに会社を任せることなんてできないと言われて、またやり直し。そうしている間に卒業が近くなっていく。

『ねえ、就職活動がうまくいかないのなら、また縁談を受けてみる気はない?もしそれがまとまれば『会社を譲る』と一筆書いてあげてもいいわ』

 ―――もう二度と、結婚なんてしない。

 ずっとそう思っていたけれど、その気持ちが揺らいだのは会社のことがあったからだった。
 離婚して実家に戻ったとき、清流の父と母が建てた以前の家が取り壊されて真新しい知らない家に変わっていたのを見たときの衝撃を今でも覚えている。

『だってあの家、古かったでしょ?
 修繕するくらいならいっそ建て替えた方がいいかと思って』

 思い出がなくなっていく気がした。
 これでもし、父の作った会社までなくなってしまったら?

 結局それは体のいい撒き餌のようなもので、実際清流に継がせる気はなく佐和子の借金返済のための手段に過ぎなかったわけだけれど。

「その後のことは…加賀城さんも知っている通りです」

 すべてを話し終えた後、その影が突如として巨大な質量を伴って自分を覆っているのを感じて愕然とする。

 洸の顔は、怖くて見ることはできなかった。
 訪れた沈黙に息が詰まりそうになる。

(………息が、苦しい)

 そう思った瞬間、清流は柔らかな衝撃を感じた。

 視界が半分、洸のシャツで塞がれている。
 抱きすくめられているのだと分かって、驚いて押しのけようと力を込めたけれど、洸は力を緩めなかった。

 まったく予想外の展開に、清流は息を飲む。

「あ、あの、なんで…?」

 自分の声が振動となって、直接伝わっていく。
 それがお互いの距離の近さを意識させて、否応なく鼓動が早くなる。

「なんでって、必要だと思ったから」

 ひつよう、と清流は頭の中で言葉を転がした。

「……軽蔑、しないんですか?」
「俺が清流に?なんで?」

 今度は自分がなんでと返された上に、気づけば大きな手で頭を撫でられていて、ますます思考が追いつかない。

 両親が亡くなってから、誰かに身を預けるということから遠ざかってここまできた。
 そのせいか、清流はこういうシチュエーションにはまったくといっていいほど不慣れで、端的にいえば免疫がない。

「なんでって……その、前に旦那の地位と金を最大限利用するタイプは嫌だって言ってたじゃないですか?それに、」

 どんな理由であれ、相手の家柄と金銭が目的の政略結婚をしたという事実は変わらない。
 それどころかそのことを隠したまま同居して、そのせいで洸の立場まで危うくするところだった。

 洸の胸元に手をあてて距離を取ってから、上目で様子を窺う。

「だから、こんなふうに優しくしてもらう資格なんてなくてっ…て、痛っ」

 不意に伸びてきた両頬を持たれたかと思うと、ぐにっと力いっぱい潰された。
 唐突に走った鈍い痛みに、思わず変な声が出る。

「それ以上言うなら、怒るからな」

 正面から洸と目が合う。
 その言葉通り怒っているようでもあり、どこか寂しげに見える表情に胸がぎゅっとなった。

「清流を貶めるような言葉は、たとえ清流自身から出た言葉だとしても俺が許さない」

 言われた言葉の意味を理解しようとしている間に、頬をつまんでいた指が優しく滑っていく。
 清流は、整理のつかない感情を抱えたまま、ただ見つめ返すことしかできない。


「それに俺の方こそ、自分の利益のために地位を利用して結婚を迫ったやつだぞ。清流に結婚するように言った叔母さんやその相手とどう違う?

 利用しているのはお前も同じだろって言ったこと、後悔してる。あんな言い方で提案されて、前のこと思い出して嫌な思いさせたよな。だから、軽蔑されるならむしろ俺の方だ」

 複雑そうな表情を浮かべる洸の手から、力が失われる。
 自分に触れていた指が離れていき距離ができそうになって、清流は慌てて洸の手を掴んだ。

 確かにあのときはめちゃくちゃな話だと思った。
 でも、あのとき断る手段があったのにそうはしなかった。その理由はもう自分では分かっている。

「…あの、一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ、なに?」
「なんで、私だったんですか?」

 清流の問いかけに、少し虚をつかれたように目を見開いた。

「日本を離れた後も、気になってた。あの後も変なところへ一人でふらふらしてないかとか、無事日本に帰れたかとか…ちゃんと笑えてるかとか」
「…わ、笑えてる?」
「清流は自覚がなかっただろうけど、俺といる間ずっとどこか浮かないような、何か諦めてるような顔してた。それで、あの料亭の中庭で清流を見かけたときまったく同じ顔してたから…無性に腹が立った。

 それで、一緒にいた叔母さんに声かけて話して……この人と環境のせいなんだろうなと思った。だから、多少強引な手でも無理な条件ででも引き離さないと駄目だって」

 初めて明かされる洸の話に、清流は信じられない気持ちで聞いていた。
 それではまるで自分のためだと言われているようで、勘違いしないよう必死にブレーキをかけていた気持ちが動き出してしまう。

「清流がいなくなる少し前、清流の様子が変で、どうすれば喜ぶかと思って思いついたのが買い物に誘うことで…それで、欲しそうにしてた服をプレゼントしたの覚えてるか?受け取るのを断られて、あのときの泣きそうな顔が忘れられなくて…それでやっと分かった。

 俺は喜ぶ顔が見たいと思うのも、清流が好きだからだって」

 ―――え?

 どういうことなのか混乱して、思わずうそ…と呟いてしまっていた。
 清流が洸の顔を見上げると、洸はただ何かを噛みしめるように微笑んでいる。

「あの日清流に初めて会って、お見合いで再会して、それから一緒に暮らすようになってからいつも思っていた。危なっかしくて、何でも一人で抱え込もうとする清流が、何をしたら喜ぶのか。どうやったら心を開いてくれるのか。
 落ち込んでたら笑わせてやりたいし、辛いことから守ってやりたい。これが好きじゃないなら一体なに?」

 じわじわと、洸の表情や言葉の意味が、自分の心の中で溶け始める。
 清流は無意識のうちに、ぼろぼろと涙がこぼれた。

「……で、でも、私、」

 本当に、自分なんかでいいのだろうか。
 ぼろぼろとこぼれている涙が嬉しさからなのか申し訳なさからなのか分からず、そんな自分が嫌でたまらない。

「何が不安?何が恐い?
 自分が求められるのが?俺とのことを誰かに反対されるのが?
 もし誰かに反対されようが蹴散らすし、万が一家族が反対するなら俺は縁を切ってでも清流を選ぶ。

 だから、清流は俺といろ」


 洸がこちらを見据える目に見覚えがあった。
 自分の見たくないものを見透かされているような鋭い目。

 でもやっぱり綺麗で、至近距離でその瞳を覗いてみるとしっかり自分が映っている。

「私、ここにいてもいいんですか?…本当に?」

 まだほんの少し迷いを残した声に、洸は小さく笑う。

 いつしか隣りにいることが当然で、触れることにも、初めはあれだけ動揺していた彼女の香りにも、次第に感慨を持たなくなっていたこと。もっと心を開いてほしい頼ってほしいと焦れながら、わずかな変化や機微を見過ごしていたこと。
 この部屋で一人で過ごした1週間、その当たり前のような事実に打ちのめされて、自分の浅はかさを嫌というほど思い知った。

「あのな、もしまた出て行ったりしたらさすがの俺も病むぞ」

 冗談めかして言ってはみたが、どうしたってその重さは拭えない。
 洸は内心自重しながら、清流の前髪をさらさらと払う。

「で、返事は?」
「……手紙、読んだんじゃないんですか?」
「読んだ。でも、清流から直接聞きたい」

 清流の目が伏せられて、睫毛が影を作る。

 その下で少し潤んだ目が行ったり来たりするのが彼女の中の最後の迷いを表しているようで、顎を掴んでこちらを向かせたい気持ちを抑えて、洸は待つ。

 やがて清流が顔を上げて、洸を正面から見つめた。


「わ、私、加賀城さんと、」
「名前」
「え?」
「名前で呼んで」

 そう言うと一瞬動きが止まったあと、少し困ったように眉を下げた顔が、次の瞬間はちみつを蕩かすような甘さを見せた。


「私、洸さんと一緒にいます」


(…あぁ、やっと見れた)


 コインを投げて屈託なく笑った、花のような笑顔。
 照れて困ったように笑ったり揶揄われて怒ったり、ころころ変わる表情を追うのも好きだけれど。

 自分はずっと、この笑顔が見たかったのだ。


 ――とうとう言ってしまった。

 もう後戻りできないという気持ちと、心に込み上げるものを出し切った反動で、清流の頭の中はぼうっとしていた。

「清流」

 どこかふわふわと現実感のない中で不意に名前を呼ばれて、呼吸ができなくなりそうなほどに部屋の空気が変わるのが分かった。

 それと同時に、つ、と再び清流の頬をなぞる洸の指先と意識せざるを得なくて、顔中に熱が集まってくる。
 ゆっくりと洸の顔が近づくのをまるでコマ送りのように見つめていると、重なる寸前でもう一度清流、と名前を呼ばれた。

「は…はい?」
「いい?」

 ぎゅっと目蓋を閉じて小さく頷くと、唇が押し当てられるように触れた。
 直後に何かが弾けるみたいに、甘くしびれるような感覚が走る。

 離れたと思ったら唇の感触を確かめるように何度も食まれて、まるで水底へ溺れていくように呼吸の仕方を忘れてしまった。

「…息止めすぎ」

 微かに笑う気配がして目蓋を開けると、瞳と目が合った。
 息が止まりそうだと思ったのは、本当に息を止めていたからだったらしい。

 途端に恥ずかしさに襲われて俯きかける顎を、洸は今度こそ捉えて上を向かせる。
 洸のゆるく蕩けた瞳に見惚れているうちにまた気配が濃くなったのが分かって、清流は震えそうになる唇をきゅっと結んだ。

 そうして目をつむる直前――カウンター上のミントの葉が優しく揺れているのが、微かに見えた気がした。


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