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九 鬼の洞穴

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 椿の花が一つ、落ちた。

 それを手に取って泉の方を見やる。

 涅色くりいろの泉の底から気泡が湧いて、やがて一体の老父が姿を現した。

 静かに波紋を広げる泉の方へ歩み寄りその椿の花を泉に落とす。波紋は重なって水面に立った老父の足元で止まった。
「いい人生でした‥‥孫にも恵まれて、長生きできた――」
 老父はそう言って顔に刻まれた皺をさらに深くして穏やかに笑んでいた。

「そうか――。この泉をひたすらに歩いて行け。振り返らず、先を歩いていくのみ」
 呂色の目は泉の果ての果てを見据えた。

 気が遠くなるだろう。果てがなく己を失うかもしれない。
それを超えた時、安らぎの地に辿り着くだろう。

 沙羅双樹の香りを含んだ風が天鵞絨色の髪を靡かせた。



 出払っていて誰もいないと思っていた。

 汚してしまったシーツを何とか洗い終えて干してきた。風があるから日が暮れるまでには乾くだろうと、一段落ついて風の丘ここに散歩にきていた。
 風の中に微かに漂う匂いに鼻を上げる。
(サドゥラ兄さんの匂い‥‥?)
 ほんの僅かだがその匂いが鼻に届く。
まさか、とは思ったが泉の方へ足を運んだ。


 泉を見守る大きな椿の樹は今日も風に揺れている。それが目印にもなって歩きやすかった。

 (やっぱり…そうだ)

 匂いは確信となって、泉の岸に立っているサドゥラの元へ駆け寄っていた。

 気配を感じてサドゥラが振り返る。
「――――?」
 何しにきたのだというような目つきでミツキを見下ろした。
「‥‥あ‥‥」
 また言葉に詰まったが、
「サドゥラ兄さんは…行かなかったの?」
 控えた声音で訊ねる。
「どこで何をしようが私の勝手だ」
 冷静沈着な返事に気持ちが萎えてしまいそうだ。
(サドゥラ兄さんはこんな人)
 と、割り切って話をするしかない。

 今度は自分から思い切って、
「サドゥラ兄さんも人間を食べるの?」
 ミツキの口からそんなことを聞くとは思ってもみなかった表情になって、サドゥラは泉の方へ視線を返して言った。
「喰うか喰わないかはその時次第だ。それも自分が決めること」
 サドゥラの目はまた冷静さを取り戻していた。

 順界と逆界が繋がっているという泉の水中なかはどうなっているのか気になっていた。涅色の水の色はもちろん水中が見える状態ではないことは一目瞭然だったが、触れてみたいと思った。

 岸辺にしゃがんで水面に触れた瞬間―――、
の過去が一面に広がった。
 それまで僕が生きてきた証は目を背けたくなる画ばかりで固く目を瞑って俯いていた。

「見ろ」

 これまでの自分の辛かった過去を思い出したくないことをめつすがめつ見ろというのか。
残酷にも程がある。
「それだけは勘弁してほしい」とサドゥラを振り返ったが、その両目は真っすぐに揺るぎなく泉の果てを見つめていた。


 緩い波紋にぼやけたがそこにいた。
それに、
「智哉くん‥‥」
 今では懐かしいとも言うべきか、かつての親友が水面に映る。
(どうしてるかな‥‥)
 
 親友だった彼のその後は知らない。

 波紋に揺れて映る親友の姿に指先を伸ばした。
まるで、タップすると開かれる携帯画面のようにその光景が広がった。

 無音声の画面。


 あれから―――

 中村は執拗に智哉をねじ伏せていた。

新田あいつに関わってほしくないんだろ?だったら出せよ」
 智哉の前には他にも同学年の男子生徒が四、五人で周りを固めている。
向かって行っても多勢に無勢で目に見えている。それでも眼光だけはギラギラと光らせて唇を噛んでいた。
「早くしろって!」
 背中から蹴りを食らってよろけながらも、制服のズボンから財布を取り出すと入っていた現金を中村に渡そうとした、
 ドスッ!
「くっ…はっ‥‥」
 腹部に強烈なパンチを受け、痛みと吐き気、眩みまで襲ってきた。
「分かってりゃいいんだよ」
 去り際に、中村が耳元でほくそ笑んで囁いた。

 単なるカツアゲどころじゃない。
執拗な憂さ晴らしが悪意に満ちていた。


 そんなことのために学校に通っているわけじゃない。大切な親友までも智哉の心が限界にきた時、彼は学校を辞めた。


 そんなこと‥‥
なに一つ顔にも出さなかった。いつもと変わらない笑顔で話し方での側にいてくれた。
そんな親友から僕は逃げた。
辛いことから逃げて、大事な親友からも逃げて。
そして親友を疑った。
はこんな人間だった。
ほど卑劣な人間はいない。

それを知らしめるために?

 しゃがみ込んで唇を噛みしめていたミツキが背後のサドゥラを振り返った。

 そこには優しくもあり威厳のある容姿が堂々と立っている。

『お前がいくか―――?』

 そう言われた気がした。

 声には出さなかったがしっかりと頷いた。

「援護は私がしてやる―――」
 そう言ってしゃがんでいたミツキの尻を軽く蹴り上げた。
「………へ?」
 ミツキの身体は軽々と宙を浮いて、
「行ってこい」
 ニヤリとサドゥラが笑う。

 そのままミツキの身体は底のない泉に落ちていった。

 そこは、雑。




 夕方の帰り道、一人で駅に向かっていた。
補習授業を終えて駅に向かうまでに陽は落ち始めて辺りは薄暗くなっていた。

 カバンを小脇に挟んで制服のシャツはズボンから出している格好で気だるそうに歩く。
 
 ドンッ

 よそ見をしてしまって人と肩をぶつけてしまった。
「あ…ごめんなさい」
 先に謝ったのはぶつかってきた方。

 ぶつかられて少し機嫌が悪そうに相手に視線を戻すと、
「!‥‥え?は?おま…え‥‥」
 中村の声が驚愕に震えた。

「久しぶりだね」

 いや、そんなことはない。
夢でも見ているのだろうか?これは現実か?はたまた自分の意識がおかしくなったのか?

「新…田‥‥おまえ‥‥」
「死んだんじゃなかったの?‥‥って?」
 目の前にいる不現実に段々と中村の顔が青ざめていく。
「ちょうどよかった。少し付き合ってよ」
 軽く笑んで左手にあったテナントビルを見上げた。
「一緒に行こう」と誘うようにして中へ入ろうとしながら、
「なに?怖いの?まさかねぇ?中村くん」
 挑発にも聞こえる言い様で「ね」と首を傾けた。

 自殺したはずの“新田充稀”が今、目の前にいる。
恐怖を感じながらもいじめっ子のプライドがふつふつと湧いてくる。



 エレベーターのドアが開き「お先にどうぞ」と、下りるのをエスコートする。
下り立った場所は最上階で、踏み段を上がったら先にドアを開けてまた「どうぞ」と促した。

 開かれたドアの向こう側には夜になったばかりの町が広がっていた。空と地上の星に挟まれながら屋上に吹いてくる冷たい風を感じた。
「う~ぅ…寒いねぇ」
 普通に話しかけてくるにどう対応していいのか、これは亡霊なのか、頭の中では考えられなくなっていた。
「こんなに高いと逆に気持ちいいよね」
 ニコニコしながら充稀が喋る。
「僕も始めは怖かったけどね。そのうちハイになっちゃって‥‥」
 くふふ…と首を縮めて笑う。
「どぉ?屋上ここから見える景色…キレイなもんでしょ?」
 そうやって微笑みながらゆっくりと中村の方に歩み寄る。

 背後には豆粒ほどの町の景色が。



「あのさ‥‥」
 と、じわじわと端に追い詰めているようにも見える体勢で充稀が言う。
「僕のように死んでなんて言わないよ。でもね‥‥」
 追い詰められていると直感して逆ギレ状態で中村が吠えたてる。
「怖くねぇよ!ほら、来いよ!」
「うるさいっ!そういうのを負け犬の遠吠えって言うんだよ!」

(でも、でも…智哉くんを傷つけた!智哉くんが受けた分の痛みを思い知れ!)

 眼光を鋭く光らせて充稀は全力で中村に飛びかかろうと―――――!




 「あのバカ…!自分から罪人になるつもりか?!」

 その一部始終を空で見守っていたサドゥラが険しい表情で急降下してくる。



 「はい、そこまで」
 
 右手と左手とに二人、首根っこを掴んで摘まみ上げた。
普段の三倍ほどはある身体でサドゥラが空へ舞い戻った時にはもうすでに二人は気を失っていた。
長いため息の後、
「悪いが、お前には捌きを受けてもらう」
 右手の先でうな垂れる中村の身体を宙に飛ばして、

 ピンッ!

指先で弾かれた彼の身体は空間に消えた。







 「‥‥はぐっ…はぐっ‥‥」

 正常に息ができていない。

 意識が戻るまでと、椿の樹の下にミツキの身体を横たえていたが意識が戻った瞬間、今度は呼吸ができない状態になっていた。
 青褪めているミツキの身体を起こし腕に抱いた。
(過呼吸か―――)
 様子を見て判断したサドゥラがゆっくりと唇を重ねた。
小刻みに震えているミツキの唇を覆うようにして空気の侵入を塞ぐ。
(まったく‥‥人間が弱いのか、こいつが弱いのか‥‥)
 重ねたままの唇でサドゥラは微かに笑っていた。


 次第にミツキの呼吸が落ち着いてきた。

 薄っすらと開いた瞼の奥の瞳と合った気がした。
救急で対応していた唇を離して腕の中で身を委ねているミツキを見入っていた。

「サ…ドゥ…ラ兄さん‥‥?」

(前にも同じようなことがあったな‥‥)
 ふぅっと笑ったサドゥラがもう一度今度は処置ではなく、優しくミツキの唇を食んだ。

 何度も何度も愛おしむように確かめるようにキスをして、微かな息をしているミツキの唇を舌先で愛撫する。もっと中までミツキを味わいたい。
でも―――
(抑えられなくなる自分を知っているから―――‥‥)

 「おかえり」

  と、ミツキのおでこにキスをして、もう少しこのままで居よう。
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