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 胸がよじれるように痛い。手をのばし、同じように彼の頬を包んだ。さっき言われた事の意味がよくわかった。私の血で彼を治せるなら、死んでもいい。それを恐れている彼のために、口には出さないけれど。

「姉が何をしようとしているのか、誰もわからない。ただ、化物になった」
「そして、あなたのように、自分の意思とは関係なく変わってしまったひとがいるのね」
「食べたんだ」

 一瞬、何を言われたかわからなかった。

「そいつは、子どもを襲って、食べたんだ。人間に戻ろうとして」

 思考はあとから追いついてきたけれど、まず身体の力が抜け、悪寒がした。やっとわかった。それはつまり、私が襲われるときも、同じということだ。だから彼は怯えながら私を守ると言っているのだ。

「本当に、それで戻れたの? 留めるって、言ってるわ、あなた」
「わからない」

 そればっかり。

「どうして? 目的は果たせたのでしょう?」

 私は彼の頬を指先で撫でた。彼はきつく目を閉じてから、うっすらと、私を見据えた。

「間違って、別の子を襲ったんだ」

 ひどい。けれど、口には出さずこらえる。

「奴らは姉を裏切った。確かに。でも、たぶん姉は奴らを許すんだ。そうなるに決まってる。だから、僕らは、闘うしかない。君を襲うかもしれない奴らを、姉は止めない」

 身体を崩し、覆い被さるようにして私を抱きすくめる。

「君が傷つけられたら、僕は、耐えられない」

 耳元でふるえる声に、涙がこみあげた。どんな形でも、恐怖だとしても、私はこんなにも想われている。
 広い背中を撫でた。彼が、泣いてしまいそうだったから。けれど彼は涙をこぼしはしなかった。怒りと、敵意が、彼の喉を軋ませた。

「でも、みんなはもう失った。奪われた。ニコラは、友だちだったんだ」

 初めて聞く名前だけれど、間違って襲われてしまった子の名前だとわかる。はっとして、涙も引いた。彼の言った意味がわかった。溝が、という言い方をしたけれど、違う。
 復讐するつもりなのだ。奪われた、愛しい命のために。

「ミーチャ」

 強く身体を離す。怖れと怒り、混乱が彼の瞳を金色に変えていた。彼は弱いひとではないと思う。けれど、心に傷を負いすぎている。すぐ絶望に流されてしまう。
 硬く太い二の腕をしっかりつかみ、ほとんど睨むように見あげた。

「聞いて。誰か、ニコラが襲われているところを見たの?」

 しばらく彼は凝然と時を止めた。

「ニェット」

 やっぱり。

「私、思うの。薬として手に入れたのなら、殺してしまうのはおかしいわ。一度で効くかわからないし、嫌な言い方だけれど、薬は切らさないように備蓄するものよ。確かに間違って襲われたのかもしれないけれど」
「でも許せない。クラウゼヴィッツは許さないよ」

 何度か聞いたその名は無視する。今は、彼の目を覚ます時だ。

「そうじゃないの。ニコラを助けるのよ」

 彼は眉根を寄せ、頼りなく目を見開いた。私が、おかしなことを言っていると思っている顔だ。けれど、これについては私の方が理にかなっている。

「ニコラは、捕食されたんだよ、まりえ」
「でも誰も見ていないわ。たとえそれに近い形でも、連れ帰っているはずよ」
「薬だから? でも、まりえ。人違いだったんだ。ニコラにその効果はないんだよ」
「それならなおさら、ニコラは簡単には死んだりしないわ」

 憑物がおちる、という言葉があるけれど、彼の表情は正にそれだった。緊張感だけを残し、怖れや焦り、怒りまでもが引いていく。やがて彼は知性的な眼差しで、確かめるように私の頬を撫でた。

「あなたが言ったのよ。私たちは、死なないって」
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