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面の男性は、頭を押さえつけられ仰向けに倒れたままじっとしているけれど、どこか余裕を感じさせる。さっきは気づかなかったけれど、袖が異様に長い。手は完全に、絹に似た光沢を放つ袖が隠していた。その手が、ゆらり、地面から起きあがる。
飛び出していた。
腕を抱きこんで足をふんばる。男性の頭を踏まないように、蹴らないように、そして、鋭利な刃をミーチャの頭から遠ざけていく。彼は黒い瞼をいっぱいに開き、横目で私を凝視した。
ひらひら、袖がゆれる。きらきら、月を弾く。
男性が肩をゆらし笑い始めた。ああ、なぜ気づかなかったのだろう。
涙があふれた。
「バカ……っ、大嫌い!」
逞しい腕を抱きしめる。このひとを、知っている。
「悪者は、俺か?」
面の奥、ささやきが篭もる。火を噴く仕組みのためか、面の口元をおさえられていても中は余裕があるようだ。責める響きがあった。悪意を敏感に感じとった彼が、雲田をより強く地面に押さえつけた。
「毬依、覚えておいてほしい。こいつらは、火で殺せる」
何が悔しいのか具体的にわからない。けれど、どうしようもなく、悔しい。
「私は救われたわ!」
情けないほどの涙声が出た。
あとは、祈るだけ。彼を傷つけないで。お願い。お願い。
ミーチャが大きく肩で息をした。びりっと空気が張りつめたのを感じ、まばたきで涙を散らす。彼は雲田を睨みつけ、鋭い牙の隙間から白い息を吐いて唸った。はっとする。彼は、私が泣いたのを、誤解している。彼は日本語がわからない。
「だいじょうぶよミーチャ」
彼は答えなかった。ただ目を剥いて唸り、憤怒を抑えている。本当は暴力をふるいたいのかもしれない。私の目を気にしている。
「お願い。彼を傷つけないで」
伝わるように、低く、声を落とした。雲田の腕の力がゆるみ、私は膝をついて刃を奪った。袖は紙のように千切れ、放り投げた刃にからみつき、光った。
「どけって、言ってくれよ」
太い手首を顔に寄せて握ると、雲田は、からめたいというように指を少し動かした。けれど、その気はない。このひととは、永遠にわかりあえない。
「彼を傷つけないで」
「わかった」
言質をとったところで、彼の肩にそっとふれた。そのとき、彼が何か怒鳴った。独り言にしては少し長い。我を忘れているようだった。彼の腕は脇に膜が張り、肘も後ろにむかって尖り、どうしてもつかめそうにない。私は頬をすり寄せ、二の腕の辺りに唇をおしつけた。彼の強張りが、ほんの少し、和らいだ。
「あなたには敵わないわ。だいじょうぶなのよ、ミーチャ」
それでようやく彼は雲田を離し、代わりに私を抱え、一気に2メートルほど飛んだ。怖い物を捨てるように私を背中側に下ろす。黒い肌が目の前にあった。彼は裸だ。見あげると、頭髪もずいぶん少なくなっている。普通の姿に戻ったとき、きちんと元通りになるのだろうか。ふとそんな心配をして、取り越し苦労だと悟った。きっと都合よく修正される。私を助けてくれたときも、翌日、癖の強い栗毛の髪は彼の頭にあった。
「だいじょうぶ」
逞しい腰の筋肉にふれ、背中に額を預けた。
むくりと雲田が起きあがる。彼の背に緊張が走る。けれど、雲田は中途半端な胡坐をかいて座り、面を取った。バイクのヘルメットを脱いだときのように、軽快に頭をふっている。汗が光っていた。稽古や舞台袖で見る姿となにも変わらなかった。
「見ろよ。来た」
遥か前方であがる火柱の方を顎で示し、薄く笑う。彼が庇うつもりなのか腕を広げ、視界が悪くなり、私は少ししゃがんで確かめなければいけなかった。火は、さっきより弱くなっている。そうは言っても6割か7割程度だけれど、確実に鎮火に向かっているようだった。爆ぜるように、ぽい、ぽい、と人が飛び出してくる。あれだけの火のなかにあっても焦げた様子はなく、それもそのはずで、雲田と同じ衣装に同じ面をかぶっている。少し模様は違うようだと思い、私の目は金色に光るばかりではなくて視力もあがっているらしいと気づいた。
目を凝らしてみる。
火の中に、いくつも人影が見えた。誰かを抱きこむようにしてしきりに火を払う翼。彼と同じ姿の人がふたりいる。人影を外へ放り投げているのは、人だ。機敏で力強く、迷いがない。大柄な男性。熱さを痛みと思っていない。群がる相手を次々と叩きのめし、炎の外へ投げている。目が覚める思いでそれを見つめた。
あれは、彼は、
「ディーノだ」
雲田さんが私の代わりに、言った。
コルネリオとアグネスを守るために淡々と殺戮に手を染める劇冒頭のディーノ。その姿が、あった。面の群集が散るまで一分とかからなかった。最後に、炎の中から翼をもつ黒い人を抱え出し、地面に転がすと颯爽と上着を脱いで火を叩いた。続いて別の大きな人が、ぐったりした女性を抱えて躍り出る。その人は自分の翼で女性の火を吹き消した。
なぜか、イチカが彼らに駆け寄ろうとし、秋月に引きとめられ騒いでいる。ニコラを傷つけられた怒りには見えない。倒れた女性を心配しているようだった。対して、ルートは四つん這いのまま彼らにむかって唸り、吠えている。彼女の腕が服を弾き、後ろ向きに尖り肥大した。私はひっと喉を鳴らした。
「包囲が解けて、変身したんだ」
ぶっきらぼうにミーチャが呟く。私に聞かせるための言葉だった。
飛び出していた。
腕を抱きこんで足をふんばる。男性の頭を踏まないように、蹴らないように、そして、鋭利な刃をミーチャの頭から遠ざけていく。彼は黒い瞼をいっぱいに開き、横目で私を凝視した。
ひらひら、袖がゆれる。きらきら、月を弾く。
男性が肩をゆらし笑い始めた。ああ、なぜ気づかなかったのだろう。
涙があふれた。
「バカ……っ、大嫌い!」
逞しい腕を抱きしめる。このひとを、知っている。
「悪者は、俺か?」
面の奥、ささやきが篭もる。火を噴く仕組みのためか、面の口元をおさえられていても中は余裕があるようだ。責める響きがあった。悪意を敏感に感じとった彼が、雲田をより強く地面に押さえつけた。
「毬依、覚えておいてほしい。こいつらは、火で殺せる」
何が悔しいのか具体的にわからない。けれど、どうしようもなく、悔しい。
「私は救われたわ!」
情けないほどの涙声が出た。
あとは、祈るだけ。彼を傷つけないで。お願い。お願い。
ミーチャが大きく肩で息をした。びりっと空気が張りつめたのを感じ、まばたきで涙を散らす。彼は雲田を睨みつけ、鋭い牙の隙間から白い息を吐いて唸った。はっとする。彼は、私が泣いたのを、誤解している。彼は日本語がわからない。
「だいじょうぶよミーチャ」
彼は答えなかった。ただ目を剥いて唸り、憤怒を抑えている。本当は暴力をふるいたいのかもしれない。私の目を気にしている。
「お願い。彼を傷つけないで」
伝わるように、低く、声を落とした。雲田の腕の力がゆるみ、私は膝をついて刃を奪った。袖は紙のように千切れ、放り投げた刃にからみつき、光った。
「どけって、言ってくれよ」
太い手首を顔に寄せて握ると、雲田は、からめたいというように指を少し動かした。けれど、その気はない。このひととは、永遠にわかりあえない。
「彼を傷つけないで」
「わかった」
言質をとったところで、彼の肩にそっとふれた。そのとき、彼が何か怒鳴った。独り言にしては少し長い。我を忘れているようだった。彼の腕は脇に膜が張り、肘も後ろにむかって尖り、どうしてもつかめそうにない。私は頬をすり寄せ、二の腕の辺りに唇をおしつけた。彼の強張りが、ほんの少し、和らいだ。
「あなたには敵わないわ。だいじょうぶなのよ、ミーチャ」
それでようやく彼は雲田を離し、代わりに私を抱え、一気に2メートルほど飛んだ。怖い物を捨てるように私を背中側に下ろす。黒い肌が目の前にあった。彼は裸だ。見あげると、頭髪もずいぶん少なくなっている。普通の姿に戻ったとき、きちんと元通りになるのだろうか。ふとそんな心配をして、取り越し苦労だと悟った。きっと都合よく修正される。私を助けてくれたときも、翌日、癖の強い栗毛の髪は彼の頭にあった。
「だいじょうぶ」
逞しい腰の筋肉にふれ、背中に額を預けた。
むくりと雲田が起きあがる。彼の背に緊張が走る。けれど、雲田は中途半端な胡坐をかいて座り、面を取った。バイクのヘルメットを脱いだときのように、軽快に頭をふっている。汗が光っていた。稽古や舞台袖で見る姿となにも変わらなかった。
「見ろよ。来た」
遥か前方であがる火柱の方を顎で示し、薄く笑う。彼が庇うつもりなのか腕を広げ、視界が悪くなり、私は少ししゃがんで確かめなければいけなかった。火は、さっきより弱くなっている。そうは言っても6割か7割程度だけれど、確実に鎮火に向かっているようだった。爆ぜるように、ぽい、ぽい、と人が飛び出してくる。あれだけの火のなかにあっても焦げた様子はなく、それもそのはずで、雲田と同じ衣装に同じ面をかぶっている。少し模様は違うようだと思い、私の目は金色に光るばかりではなくて視力もあがっているらしいと気づいた。
目を凝らしてみる。
火の中に、いくつも人影が見えた。誰かを抱きこむようにしてしきりに火を払う翼。彼と同じ姿の人がふたりいる。人影を外へ放り投げているのは、人だ。機敏で力強く、迷いがない。大柄な男性。熱さを痛みと思っていない。群がる相手を次々と叩きのめし、炎の外へ投げている。目が覚める思いでそれを見つめた。
あれは、彼は、
「ディーノだ」
雲田さんが私の代わりに、言った。
コルネリオとアグネスを守るために淡々と殺戮に手を染める劇冒頭のディーノ。その姿が、あった。面の群集が散るまで一分とかからなかった。最後に、炎の中から翼をもつ黒い人を抱え出し、地面に転がすと颯爽と上着を脱いで火を叩いた。続いて別の大きな人が、ぐったりした女性を抱えて躍り出る。その人は自分の翼で女性の火を吹き消した。
なぜか、イチカが彼らに駆け寄ろうとし、秋月に引きとめられ騒いでいる。ニコラを傷つけられた怒りには見えない。倒れた女性を心配しているようだった。対して、ルートは四つん這いのまま彼らにむかって唸り、吠えている。彼女の腕が服を弾き、後ろ向きに尖り肥大した。私はひっと喉を鳴らした。
「包囲が解けて、変身したんだ」
ぶっきらぼうにミーチャが呟く。私に聞かせるための言葉だった。
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