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第1部
燃える
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バルトリスと別れて執務室へ向かったリューシは、思いがけない困難に直面していた。
「……何のご用でしょう」
扉の前で突っ立ったまま微動だにしない青年に問いかける。ノックする音にどうぞと言って招き入れたはいいが、そこから何も進展しない。ただただ黙ってこちらを見つめる青年──第2皇子セドルアの挙動に、リューシは困惑していた。
「とりあえず、そちらのソファにお掛け下さいますか」
答えを得る事を断念し、移動して貰おうと方針を切り替える。が、セドルアは動かない。2人して棒立ちになって睨み合うという状況は変わらず、耐え難い空気が流れる。表情を伺ってみても自分に固定されているアメジストの瞳からは感情を読み取れない。
どうしたものかと頭を悩ませ始めたその時、突如セドルアが距離を詰めてきた。ミハネのように机に両手を叩き付けるという無作法こそしないが、彼女にはない威圧感がある。リーンなどは縮み上がってしまうのではないだろうか。何を言い出すのかと身構えていると、セドルアは真剣な面持ちで切り出した。
「縁談を持ちかけられた」
予想外の台詞に拍子抜けする。
これは、何と応えるべきか。
「……存じ上げておりますが」
「断った」
「それも存じ上げておりますが」
「ならいい」
頷くとくるりと踵を返す。セドルアはそのままさっさと執務室を出て行ってしまった。
一体何をしに来たのだろうか。暫し呆気にとられていたが、首を捻りながらも椅子に座り直した。まだ仕事は残っているのだ。いつまでも呆けている場合ではない。
パラパラと書類をめくる音だけが静かに響く。大量の紙をめくっては目を通す作業にも随分慣れてきた。処理速度もバルトリスに手伝って貰った初日に比べれば、格段に上がっている。今ではどうにか1日分の仕事を半日でこなせるようになった。
「ん……?」
調理場の釜の修理代の承認サインをして次の書類に取りかかろうとし、手が止まった。
『ルバルア帝国第2皇子セドルア殿』
宛名にそう書かれた封筒。安っぽい紙に美しい飾り文字が何ともアンバランスだ。差出人は“ミアーナ・リロルスティ”。聞いた事のない名前だ。
事務処理の類は大量に送られてくるが、個人に宛てた手紙を回された事はない。本人の目に触れる前にこちらに回ってきたのだろうか。
ペーパーナイフで慎重に封を切り、便箋を取り出す。2つ折りになっているそれを開き、思わず目を見開いた。
──これは……
恋文だ。
その文面は間違いなく恋い焦がれる想いを打ち明けたもの。たおやかな女文字で綴られたそれは、まるで目の前に恥じらう乙女が見えるかのようだ。
しかし、これをどうしろというのか。まさか代わりに返事を書けとでも言うのだろうか。だとしたら、あまりにも差出人が不憫だ。もう少し早く見つけていればセドルア本人に尋ねられたというのに、こういう時に限って上手く行かない。
第2皇子のせいでまたもや頭を悩ませる事になり、リューシは盛大にため息をついた。
一旦執務室を出たリューシは厩舎へ向かった。今日は重要な公務の用があるのだ。それがよりによって、あのガスパール・フォンド男爵の邸宅で行われる。あの男の顔を見なければならないと思うと気が滅入るが、仕方がない。1人で向かわなければならないというのも一層気分を落ち込ませた。
リスティといい、あの恋文といい、公務といい、今日は厄日かと心中でぼやきながら愛馬に跨がる。
皮肉にもこの日の青馬の調子はすこぶる良かった。人々の間をすり抜けながらリズミカルに駆け、流れる景色がぐんぐん後ろに流れてゆく。行きたくもない場所に予定の時刻より早く着きそうだ。遅れても煩いだろうが、早く着き過ぎても間が持たない。
「青馬、そんなに急がなくていい」
そう宥めてみるが、速度は一向に落ちなかった。むしろ上がって普段と戦闘時の間のような走りを始めてしまった。一般人の行き交う街中でこの走りは危険だ。やむを得ず停止させ、首筋を撫でる。こうすればいつもは落ち着いてくれるのだが、今日はどうにも気が立っている。
「どうしたんだ」
更に優しく撫でてやってもブルブルと鼻息荒く、静止せずに忙しく足踏みする。こんな事は初めてだ。
困り果てていると、1人の老人が近付いて来た。
「ご老体、あまり近付いては危ない」
青馬を宥め続けながら声をかける。しかし、忠告には耳を貸さず、あろうことか老人は青馬に触れ始めた。
「よせ! 危ないと言っているだろう!」
声を荒らげると、青馬が棹立ちになる。慌てて手綱を引き鎮まらせる。腰でも抜かしているかと思ったが、見れば老人は思いの外平然としていた。外套のフードの下から鷲鼻を覗かせ、老人は青馬の黒々とした肢体を指差す。
「その馬……お前さんを護ろうとしているな」
腰の曲がった姿に似合わぬ張りのある声で言う。リューシは眉をぴくりと動かした。
前世で言うファンタジーであるこの世界では、占い師や祈祷師といった職業が公職になっている。その類の人間かと推測したが、身なりを見る限りでは違う。国から出される給料で安定した生活が出来る彼らは神官の次に裕福だ。それなのに、この老人の風体はさながら乞食である。到底所得の高い者のする格好ではない。
「その馬はお前さんの危機を感じ取っている。直ぐに引き返せ」
奇妙な事を言う老人だ。犬が散歩に行くのを嫌がるだとか、猫が狭い場所から出たがらないだとかいう話はよく聞くが、馬が無闇に走って主人の危機を知らせるというのは知らない。走らないならまだしも、一刻も早く目的地に着こうとするかの如く駆けるのはどういう事なのか。
「そういう訳にはいかない。重要な公務だ」
「公務……? お前さん、役人か何かか」
老人の反応におやと思う。どうやらこの顔を知らないらしい。
「リューシ・ラヴォル、皇后補佐兼帝国軍第1部隊隊長だ」
「何、皇后補佐……?」
この髪を見ればわかるだろう、と軍帽を脱いで頭を見せてやれば老人はなるほどと頷いた。
「その黒髪……皇妃様であせられたか。これは失敬」
失敬と言っている割に老人の態度は変わっていない。かといって、Ωだと知って蔑んでいる訳でもなさそうだ。
「どこに行くつもりか」
おかしな態度をとる輩だと思っていると、老人は皇妃に対するものではない口調で問いかけてきた。ますます不可解な男だが、リューシは特に気分を害するでもなく「フォンド男爵の邸宅だ」と答えた。
「どうしても行くならば、命は大切にな」
そう言うと、老人は踵を返して去って行った。妙な事もあるものだ。首を傾げながらも、リューシはまたフォンドの屋敷を目指し始めた。
◇◇◇
先程よりは平静を取り戻した青馬を走らせ、あと数百メートルという所まで来た時、リューシの耳が喧騒を捉えた。
「……?」
耳を澄ましてみる。
「……だ!」
「……く!! ……ろ!」
大勢が何か叫んでいるが、何を言っているのかはよくわからない。不審に思いながらさらに近付いて、それはようやくはっきりと聞こえた。
「火事だ!!」
バタバタと脚を縺れさせながら人々がこちらに走ってくる。子供を抱えた母親や、妻の手を引く男、皆なりふり構わず逃げている。彼らの足跡を辿った先。それは、フォンドの邸宅の方角だった。
「まさか……!」
逃げ惑う人波に逆らって青馬を駆けさせると、次第に明々と異様に輝くのが見えてきた。一帯が炎に包まれ、周囲にも燃え広がり始めている。その中心にあるのは、紛れもないフォンドの屋敷であった。
鞍から降りたリューシは石像のように立ち尽くした。赤く渦巻く業火をダークブラウンの瞳に映し、人々の悲鳴と怒号を遠くに聞いた。
──炎。紅い、炎。
『隆志っ!!』
つんざくような声が頭の中に響く。今にも崩れそうな屋敷が、“彼女”のいた建物に重なる。息苦しさに呼吸が乱れ、心拍数が上がる。
俺は、助けられなかった。何も出来なかった。何も守れなかった──役立たずだ。
「……っは……」
息が詰まり、堪らず青馬に凭れ掛かった。握り締めた軍服の胸元に皺が寄る。呼吸しようとしても、上手く空気を取り込めない。
苦しい。苦しい苦しい苦しい──
「リューシ!!」
鋭く名を呼ばれ、しゃがみ込んでからハッと我に返った。女の声ではなく、太い男の声。
「リューシ! 大丈夫か!?」
その声を聞いた途端、息苦しさが嘘のように和らいでいく。
「過呼吸か……ゆっくり深呼吸してみろ。吸って、吐いて……いいぞ、もう一度だ」
背中を撫でられ、言われるがままに深呼吸を繰り返す。3度目に息を吐いた時には、もう息苦しさは残っていなかった。
「立てるか?」
「ああ……バルトリス……悪い……」
支えられながら立ち上がり、炎に照らされた褐色の顔を見る。また情けないところを見せてしまった。
「……何で、ここにいるんだ?」
少し目を逸らして尋ねる。
「お前が出発した後、キザ野郎ん家が火事だって聞いて……慌てて来てみりゃあ、ぶっ倒れそうになってるからたまげたぜ」
でも、お前が巻き込まれてなくてよかった。
そう言ってバルトリスはリューシの額に貼り付いた髪を掻き上げた。
ふっと体温を感じ、母に抱かれた幼子のように脱力する。
落ち着きを取り戻して燃える屋敷に視線をやると、若い女が走り出て来た。ドレスの裾が焼き切れ、顔は煤だらけ。灰と煤に汚れた長い髪は元の色がわからない。その女は、2人の姿を見つけると真っ直ぐに駆け寄った。
「皇妃様!!」
リューシの袖に取り付き、煤の混じった黒い涙を流す。
「娘が……娘と兄が、まだ中に……っ」
「何!?」
バルトリスが叫んだ。
リューシはじっと女の目を見た。ヘーゼルの目。面識はないが、この色に見覚えがある。それがどこで見たものか気付き、あっと声を上げた。
「兄……貴女はもしや、フォンド男爵の……」
「そうです! ガスパールの妹です!!」
どうかお助け下さい!
そう叫んで女──ガスパール・フォンド男爵の妹は泣き崩れた。
リューシは燃える屋敷を見つめた。木材部分がかなり燃焼しているものの、煉瓦で造られた部分が多い玄関はまだ人が通るだけの隙間は残されている。崩壊するのも時間の問題だろうが、急げば希望はあるはずだ。
焦げ臭い空気を吸い込んでみた。先程の発作が起こる気配はない。小さく頷き、軍帽を青馬の鞍に載せた。
「待て。まさかあの中に入ろうってんじゃねぇだろうな?」
ガシッと肩を掴まれ、振り返る。いつになく険しい顔の彼を、リューシは強く見返した。
「行くと言ったら?」
「全力で止める」
「なら、振り切るまでだ」
やにわに駆け出す。
「おい!!」
バルトリスが伸ばすその手を振り切り、一直線に炎の中へ飛び込んだ。
◇◇◇
思った通り、まだ進路は断たれていなかった。火の粉を腕で防ぎながら低い姿勢で前進する。どこに取り残されているのかわからないが、とにかく一刻も早く見つけなければならない。
「フォンド! どこにいる!!」
広間だったらしい空間を抜け、声を張り上げる。パチパチと炎が燃える音に混じって微かな声が聞こえないかと、全神経を聴力に注ぐ。
「フォンド!!」
「……ここだ……!」
2度目に呼びかけた時、応答があった。声が聞こえてきたのは2階。火が回り始めている階段を駆け上がり、長い廊下を見渡す。突き当たりの部屋の扉が僅かに開いていた。
「どこだ! どこにいる!!」
「こっちだ……!」
確かに、あそこから聞こえている。低い姿勢を保ちながら、リューシはその部屋へ真っ直ぐ向かった。
煙に噎せながら足を扉の隙間に捩じ込み、体を滑り込ませる。僅かでも開いていたのは幸いだった。熱された金属製の取っ手に触らなくて済む。
部屋の中は既に燃え始めていた。天井を伝いカーテンに移った火が急速に広がっている。
煤にまみれたフォンドは辛うじて残された部屋の中心にいた。床に伏し、腕に6、7歳の女児をしっかりと抱き抱えている。女児が鼻から下を覆っている男物のハンカチは彼の物だろう。
「フォンド!」
リューシの姿を目にした瞬間、妹と同じヘーゼルの目が見開かれる。赤い光に照らされ、頬の火傷と額を流れる血が見えた。
「怪我の状態は」
近付いてそう尋ねると、フォンドは目線で自分の脚を指した。
「……捻挫を」
確かに右の足首が腫れていた。だから動けないのかと納得する。
「煙が降り始めている。さっさと脱出するぞ」
脇の下に自分の肩を入れ、強引に立たせる。煙を避けつつ迅速に移動するには第1匍匐が一番いいのだが、捻挫しているフォンドにその動きは期待できない。恐怖で身動きが取れないらしい女児はリューシが空いている腕に抱えた。
「……何で、助ける……」
いつもの嫌味ったらしい口調からは想像もつかない、弱々しい問い。リューシは横目にフォンドを見、きっぱりと答えた。
「『死ね』と思った事は1度もない」
先程の驚愕に加えて困惑の眼差し。本気で理解出来ないのだろう。
女児を抱え直し、付け加える。
「『失せろ』と思う事はよくあるがな」
「……何のご用でしょう」
扉の前で突っ立ったまま微動だにしない青年に問いかける。ノックする音にどうぞと言って招き入れたはいいが、そこから何も進展しない。ただただ黙ってこちらを見つめる青年──第2皇子セドルアの挙動に、リューシは困惑していた。
「とりあえず、そちらのソファにお掛け下さいますか」
答えを得る事を断念し、移動して貰おうと方針を切り替える。が、セドルアは動かない。2人して棒立ちになって睨み合うという状況は変わらず、耐え難い空気が流れる。表情を伺ってみても自分に固定されているアメジストの瞳からは感情を読み取れない。
どうしたものかと頭を悩ませ始めたその時、突如セドルアが距離を詰めてきた。ミハネのように机に両手を叩き付けるという無作法こそしないが、彼女にはない威圧感がある。リーンなどは縮み上がってしまうのではないだろうか。何を言い出すのかと身構えていると、セドルアは真剣な面持ちで切り出した。
「縁談を持ちかけられた」
予想外の台詞に拍子抜けする。
これは、何と応えるべきか。
「……存じ上げておりますが」
「断った」
「それも存じ上げておりますが」
「ならいい」
頷くとくるりと踵を返す。セドルアはそのままさっさと執務室を出て行ってしまった。
一体何をしに来たのだろうか。暫し呆気にとられていたが、首を捻りながらも椅子に座り直した。まだ仕事は残っているのだ。いつまでも呆けている場合ではない。
パラパラと書類をめくる音だけが静かに響く。大量の紙をめくっては目を通す作業にも随分慣れてきた。処理速度もバルトリスに手伝って貰った初日に比べれば、格段に上がっている。今ではどうにか1日分の仕事を半日でこなせるようになった。
「ん……?」
調理場の釜の修理代の承認サインをして次の書類に取りかかろうとし、手が止まった。
『ルバルア帝国第2皇子セドルア殿』
宛名にそう書かれた封筒。安っぽい紙に美しい飾り文字が何ともアンバランスだ。差出人は“ミアーナ・リロルスティ”。聞いた事のない名前だ。
事務処理の類は大量に送られてくるが、個人に宛てた手紙を回された事はない。本人の目に触れる前にこちらに回ってきたのだろうか。
ペーパーナイフで慎重に封を切り、便箋を取り出す。2つ折りになっているそれを開き、思わず目を見開いた。
──これは……
恋文だ。
その文面は間違いなく恋い焦がれる想いを打ち明けたもの。たおやかな女文字で綴られたそれは、まるで目の前に恥じらう乙女が見えるかのようだ。
しかし、これをどうしろというのか。まさか代わりに返事を書けとでも言うのだろうか。だとしたら、あまりにも差出人が不憫だ。もう少し早く見つけていればセドルア本人に尋ねられたというのに、こういう時に限って上手く行かない。
第2皇子のせいでまたもや頭を悩ませる事になり、リューシは盛大にため息をついた。
一旦執務室を出たリューシは厩舎へ向かった。今日は重要な公務の用があるのだ。それがよりによって、あのガスパール・フォンド男爵の邸宅で行われる。あの男の顔を見なければならないと思うと気が滅入るが、仕方がない。1人で向かわなければならないというのも一層気分を落ち込ませた。
リスティといい、あの恋文といい、公務といい、今日は厄日かと心中でぼやきながら愛馬に跨がる。
皮肉にもこの日の青馬の調子はすこぶる良かった。人々の間をすり抜けながらリズミカルに駆け、流れる景色がぐんぐん後ろに流れてゆく。行きたくもない場所に予定の時刻より早く着きそうだ。遅れても煩いだろうが、早く着き過ぎても間が持たない。
「青馬、そんなに急がなくていい」
そう宥めてみるが、速度は一向に落ちなかった。むしろ上がって普段と戦闘時の間のような走りを始めてしまった。一般人の行き交う街中でこの走りは危険だ。やむを得ず停止させ、首筋を撫でる。こうすればいつもは落ち着いてくれるのだが、今日はどうにも気が立っている。
「どうしたんだ」
更に優しく撫でてやってもブルブルと鼻息荒く、静止せずに忙しく足踏みする。こんな事は初めてだ。
困り果てていると、1人の老人が近付いて来た。
「ご老体、あまり近付いては危ない」
青馬を宥め続けながら声をかける。しかし、忠告には耳を貸さず、あろうことか老人は青馬に触れ始めた。
「よせ! 危ないと言っているだろう!」
声を荒らげると、青馬が棹立ちになる。慌てて手綱を引き鎮まらせる。腰でも抜かしているかと思ったが、見れば老人は思いの外平然としていた。外套のフードの下から鷲鼻を覗かせ、老人は青馬の黒々とした肢体を指差す。
「その馬……お前さんを護ろうとしているな」
腰の曲がった姿に似合わぬ張りのある声で言う。リューシは眉をぴくりと動かした。
前世で言うファンタジーであるこの世界では、占い師や祈祷師といった職業が公職になっている。その類の人間かと推測したが、身なりを見る限りでは違う。国から出される給料で安定した生活が出来る彼らは神官の次に裕福だ。それなのに、この老人の風体はさながら乞食である。到底所得の高い者のする格好ではない。
「その馬はお前さんの危機を感じ取っている。直ぐに引き返せ」
奇妙な事を言う老人だ。犬が散歩に行くのを嫌がるだとか、猫が狭い場所から出たがらないだとかいう話はよく聞くが、馬が無闇に走って主人の危機を知らせるというのは知らない。走らないならまだしも、一刻も早く目的地に着こうとするかの如く駆けるのはどういう事なのか。
「そういう訳にはいかない。重要な公務だ」
「公務……? お前さん、役人か何かか」
老人の反応におやと思う。どうやらこの顔を知らないらしい。
「リューシ・ラヴォル、皇后補佐兼帝国軍第1部隊隊長だ」
「何、皇后補佐……?」
この髪を見ればわかるだろう、と軍帽を脱いで頭を見せてやれば老人はなるほどと頷いた。
「その黒髪……皇妃様であせられたか。これは失敬」
失敬と言っている割に老人の態度は変わっていない。かといって、Ωだと知って蔑んでいる訳でもなさそうだ。
「どこに行くつもりか」
おかしな態度をとる輩だと思っていると、老人は皇妃に対するものではない口調で問いかけてきた。ますます不可解な男だが、リューシは特に気分を害するでもなく「フォンド男爵の邸宅だ」と答えた。
「どうしても行くならば、命は大切にな」
そう言うと、老人は踵を返して去って行った。妙な事もあるものだ。首を傾げながらも、リューシはまたフォンドの屋敷を目指し始めた。
◇◇◇
先程よりは平静を取り戻した青馬を走らせ、あと数百メートルという所まで来た時、リューシの耳が喧騒を捉えた。
「……?」
耳を澄ましてみる。
「……だ!」
「……く!! ……ろ!」
大勢が何か叫んでいるが、何を言っているのかはよくわからない。不審に思いながらさらに近付いて、それはようやくはっきりと聞こえた。
「火事だ!!」
バタバタと脚を縺れさせながら人々がこちらに走ってくる。子供を抱えた母親や、妻の手を引く男、皆なりふり構わず逃げている。彼らの足跡を辿った先。それは、フォンドの邸宅の方角だった。
「まさか……!」
逃げ惑う人波に逆らって青馬を駆けさせると、次第に明々と異様に輝くのが見えてきた。一帯が炎に包まれ、周囲にも燃え広がり始めている。その中心にあるのは、紛れもないフォンドの屋敷であった。
鞍から降りたリューシは石像のように立ち尽くした。赤く渦巻く業火をダークブラウンの瞳に映し、人々の悲鳴と怒号を遠くに聞いた。
──炎。紅い、炎。
『隆志っ!!』
つんざくような声が頭の中に響く。今にも崩れそうな屋敷が、“彼女”のいた建物に重なる。息苦しさに呼吸が乱れ、心拍数が上がる。
俺は、助けられなかった。何も出来なかった。何も守れなかった──役立たずだ。
「……っは……」
息が詰まり、堪らず青馬に凭れ掛かった。握り締めた軍服の胸元に皺が寄る。呼吸しようとしても、上手く空気を取り込めない。
苦しい。苦しい苦しい苦しい──
「リューシ!!」
鋭く名を呼ばれ、しゃがみ込んでからハッと我に返った。女の声ではなく、太い男の声。
「リューシ! 大丈夫か!?」
その声を聞いた途端、息苦しさが嘘のように和らいでいく。
「過呼吸か……ゆっくり深呼吸してみろ。吸って、吐いて……いいぞ、もう一度だ」
背中を撫でられ、言われるがままに深呼吸を繰り返す。3度目に息を吐いた時には、もう息苦しさは残っていなかった。
「立てるか?」
「ああ……バルトリス……悪い……」
支えられながら立ち上がり、炎に照らされた褐色の顔を見る。また情けないところを見せてしまった。
「……何で、ここにいるんだ?」
少し目を逸らして尋ねる。
「お前が出発した後、キザ野郎ん家が火事だって聞いて……慌てて来てみりゃあ、ぶっ倒れそうになってるからたまげたぜ」
でも、お前が巻き込まれてなくてよかった。
そう言ってバルトリスはリューシの額に貼り付いた髪を掻き上げた。
ふっと体温を感じ、母に抱かれた幼子のように脱力する。
落ち着きを取り戻して燃える屋敷に視線をやると、若い女が走り出て来た。ドレスの裾が焼き切れ、顔は煤だらけ。灰と煤に汚れた長い髪は元の色がわからない。その女は、2人の姿を見つけると真っ直ぐに駆け寄った。
「皇妃様!!」
リューシの袖に取り付き、煤の混じった黒い涙を流す。
「娘が……娘と兄が、まだ中に……っ」
「何!?」
バルトリスが叫んだ。
リューシはじっと女の目を見た。ヘーゼルの目。面識はないが、この色に見覚えがある。それがどこで見たものか気付き、あっと声を上げた。
「兄……貴女はもしや、フォンド男爵の……」
「そうです! ガスパールの妹です!!」
どうかお助け下さい!
そう叫んで女──ガスパール・フォンド男爵の妹は泣き崩れた。
リューシは燃える屋敷を見つめた。木材部分がかなり燃焼しているものの、煉瓦で造られた部分が多い玄関はまだ人が通るだけの隙間は残されている。崩壊するのも時間の問題だろうが、急げば希望はあるはずだ。
焦げ臭い空気を吸い込んでみた。先程の発作が起こる気配はない。小さく頷き、軍帽を青馬の鞍に載せた。
「待て。まさかあの中に入ろうってんじゃねぇだろうな?」
ガシッと肩を掴まれ、振り返る。いつになく険しい顔の彼を、リューシは強く見返した。
「行くと言ったら?」
「全力で止める」
「なら、振り切るまでだ」
やにわに駆け出す。
「おい!!」
バルトリスが伸ばすその手を振り切り、一直線に炎の中へ飛び込んだ。
◇◇◇
思った通り、まだ進路は断たれていなかった。火の粉を腕で防ぎながら低い姿勢で前進する。どこに取り残されているのかわからないが、とにかく一刻も早く見つけなければならない。
「フォンド! どこにいる!!」
広間だったらしい空間を抜け、声を張り上げる。パチパチと炎が燃える音に混じって微かな声が聞こえないかと、全神経を聴力に注ぐ。
「フォンド!!」
「……ここだ……!」
2度目に呼びかけた時、応答があった。声が聞こえてきたのは2階。火が回り始めている階段を駆け上がり、長い廊下を見渡す。突き当たりの部屋の扉が僅かに開いていた。
「どこだ! どこにいる!!」
「こっちだ……!」
確かに、あそこから聞こえている。低い姿勢を保ちながら、リューシはその部屋へ真っ直ぐ向かった。
煙に噎せながら足を扉の隙間に捩じ込み、体を滑り込ませる。僅かでも開いていたのは幸いだった。熱された金属製の取っ手に触らなくて済む。
部屋の中は既に燃え始めていた。天井を伝いカーテンに移った火が急速に広がっている。
煤にまみれたフォンドは辛うじて残された部屋の中心にいた。床に伏し、腕に6、7歳の女児をしっかりと抱き抱えている。女児が鼻から下を覆っている男物のハンカチは彼の物だろう。
「フォンド!」
リューシの姿を目にした瞬間、妹と同じヘーゼルの目が見開かれる。赤い光に照らされ、頬の火傷と額を流れる血が見えた。
「怪我の状態は」
近付いてそう尋ねると、フォンドは目線で自分の脚を指した。
「……捻挫を」
確かに右の足首が腫れていた。だから動けないのかと納得する。
「煙が降り始めている。さっさと脱出するぞ」
脇の下に自分の肩を入れ、強引に立たせる。煙を避けつつ迅速に移動するには第1匍匐が一番いいのだが、捻挫しているフォンドにその動きは期待できない。恐怖で身動きが取れないらしい女児はリューシが空いている腕に抱えた。
「……何で、助ける……」
いつもの嫌味ったらしい口調からは想像もつかない、弱々しい問い。リューシは横目にフォンドを見、きっぱりと答えた。
「『死ね』と思った事は1度もない」
先程の驚愕に加えて困惑の眼差し。本気で理解出来ないのだろう。
女児を抱え直し、付け加える。
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