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第2部
灯台もと暗し
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──確か、こっちだったはずだ。
入り組んだ路地を、バルトリスは一人で進んでいた。
記憶力に自信があるわけではないが、以前リューシに連れられて来た道はこれで合っているはずだ。何度も右折左折を繰り返す複雑な道順だが、その分目印になるものも多かった。
赤い猫の置物、窓から覗いている不死鳥のタペストリー、薔薇の花が描かれた壁──表通りにはない個性的なオブジェが無秩序に、しかし奇妙な調和を持って視界を流れて行く。それには音楽のような旋律とリズムがある。一度通れば迷う事は滅多にないだろう。リューシも自分を連れて来た帰りがけにそう言っていた。
記憶を辿りながら暫く歩き続け、煉瓦造りの例の建物が見えた。老朽化が目立つ相変わらずの佇まいだが、この日に限ってはバルトリスの目に輝いて映った。
取っ手のない扉の前に立ち、ゆっくりとそれを押し開ける。初めて訪れた時に顔をしかめた独特の匂いですら希望に感じられた。まだ浮わつくには早い。そう己を叱咤し、足を踏み入れる。
大柄なバルトリスには特に狭い通路を進み、店の奥へ向かう。紫煙がふわふわと漂ってくるのを見たと同時にその元から声がした。
「来たか──」
ようやく姿が見えた店主はパイプの火を消し、射るような目付きでバルトリスを見据える。
「俺が来るとわかっていたのか、ナドッカ」
分厚い本を山積みにした机の前に立ったバルトリスの問いには答えず、店主──ナドッカは言った。
「皇妃殿を救いたいんだな?」
こちらを見透かしたような台詞に心臓が跳ねる。動揺をどうににか抑え、そうだと頷いた。
「単刀直入に言う。“移魂再生術”を知っているか」
「何……?」
ぴくりと眉が動く。
「それならリューシを救えるかも知れないと、皇子に聞いた」
「皇子──セドルア皇子か」
「そうだ」
なるほどな、と妙に納得した様子でナドッカは顎髭を撫でた。それを不思議に思いつつ、バルトリスは続ける。
「大賢者モルスだけがその魔術を使えると、そう言っていた。モルスって人物に心当たりはないか?」
ふむと嘆息し、ナドッカは探るように目を覗き込んでくる。まるで自分の腹の底まで見透されているかのような感覚にぞわりと肌が粟立った。真正面で対峙した事はなかったが、これはなかなか気味が悪い。
「言っておくが、」と目を逸らす事を許さずこの奇怪な老人は言う。
「皇妃殿の魂は今肉体に収まっているのが不思議なのだ。新しい肉体に入り直せるかどうかわからんぞ……仮に入ったとして、いつ限界がくるとも知れん」
「待てよ。俺は大賢者モルスって人に心当たりがあるかと聞いたんだ。移魂再生術が出来るかどうかを聞いたわけじゃねぇ」
「まあ、そう焦るな」
詰め寄るバルトリスを宥め、ナドッカは本の山の向こうから小瓶を取り出した。ことりとそれを正面に置く。
「これは一時的に魂を入れる容器だ」
「は……?」
何を言い出すのだ、この老人は。
困惑していると、何やら天井に向かって合図をする。小さな物音がしたかと思えばするすると鮮やかな縞模様が降りてきた。
「ミグよ、少しの間借りるぞ」
そう言うや否や、ナドッカがヘビの口に何かを流し込んだ。手にしているその瓶には「劇薬」と書かれたラベルが貼られている。リューシが「店主の趣味だ」と言っていたものだと思い出した。骨董屋にこんなものを置いているのかとぎょっとした覚えがある。あれをペットに飲ませてどうするというのか。
「劇薬」の瓶を机に置き、ナドッカの指先が軽くヘビに触れる。
バルトリスはハッと息を呑んだ。何かを摘まみ上げるように引き上げたその指先に、青白い糸のようなものがついてきている。
その青白い光はナドッカが指を向けた方向──小瓶へ向かい、吸い込まれるようにその中に収まった。と同時にミグの細長い体がパタリと机に横たわる。小さな空間で発光するそれが何であるか、バルトリスは言われずとも了解した。
「あんた、まさか──」
あまりの衝撃に続かなくなった言葉を、ナドッカが継ぎ足す。
「──モルスは俺だ」
灯台下暗し。
何よりはっきりとそのフレーズが頭に浮かんだ。
◇◇◇
ロアンヌは叩いてから数秒経つ扉を前にしてため息をついた。
皇妃──リューシが拘引されたという知らせを受けてから、兄のガスパールは自室から出てこない。閉じ籠ってから既に1週間になる。食事もロアンヌが運んできたものを3割程度食べるだけで、ラヴォル家の当主に間借りしている生活空間には現れない。その間にリューシには死刑判決が下され、それからというもの食事の量は更に減った。
「兄様」
再度扉の向こうに呼び掛けてみるが、応答はない。今日も出てこないつもりなのだろうか。
「いつまでそこに籠っているつもり? 兄様がそんな風に鬱いでいたって何も変わらないのよ?」
いつもなら心の内に留めておく言葉を口にしてみる。やはり、反応はない。
兄は、2次性別こそが人間の価値であり、αである事に意味があるという思想を持つ人だった。故にΩであるリューシを蔑んでいた。少なくとも、あの火事の日までは。
兄と娘が燃え盛る炎の中に取り残されていると気づいたロアンヌは、丁度公務の為に訪れていたリューシに助けを求めた。藁をも掴む思いですがったが、彼は友人の制止も聞かず業火へ飛び込んだ。兄は娘と共に救い出され、今こうして生きている。
兄の態度が変わったのはそれからだった。
リューシに対する嫌味な物言いは相変わらずなものの刺々しい空気はなくなり、二人で向かい合って議論をしている姿を時たま見かけるようになった。自分は彼に借りがあるからと何やら相談に乗っていた事もあった。
何よりの変化はαである事を誇示しなくなった事だ。あからさまにΩやβを見下すような言動をしなくなった。
俺の視野は狭すぎた。兄は口癖のようにそう溢した。
「おかあさま」
裾を引かれ視線を下ろせば、いつの間にか傍に来ていたメリアが見上げていた。
「どうしたの」
自分と同じ栗色の髪を撫でてやるとメリアは愛らしい瞳を不安気に揺らした。
「ガスパールおじさん、でてこないの?」
「そうね、まだお外に出たくないみたい」
「こうひさまがかえってこないから?」
「──!」
胸を突かれた。
子供は敏感だ。大人が思っているよりずっとものを感じている。
「こうひさま、いつかえってくるの?」
「メリア……」
「かえってくるよね……?」
メリアの大きな目にじわりと涙が浮かぶ。
この子は死刑の事を知らない。ありのままを伝えるには事実が残酷過ぎた。しかし、帰らない者を信じて待ち続けさせるのも残酷だ。
──私は、どうすればいいの……?
ぽろぽろと涙を流し始めた我が子を抱き締め、ロアンヌは滲んだ廊下を見つめた。
◇◇◇
「──いよいよ明日か」
「ああ」
独房の前を護っている看守の一人の呟きに、もう一人が答える。
死刑囚リューシ・ラヴォルの監視は二人一組のローテーションで24時間行っている。死刑執行直前の夜に当たったのがこの二人であった。
「死刑っつってもなぁ……もう死んでるようなもんだぜ?」
頑丈な鉄格子の中を覗きながら背の高い方の看守が言う。
そこに閉じ込められている男は焦点の合わない目で宙を眺め続けている。「心身を故障」しているらしいとは聞いていたが、あれは故障などという生易しいものではない。死んだ人間の姿だった。
「この人もいっそ一思いに殺して貰えりゃあ、こんな生きながら死ぬような事にはならなかっただろうに」
「そうだな……裁判まで入れられてた牢では輪姦されてたって言うじゃねぇか。正に生地獄だぜ」
「いくらΩだって言ってもありゃれっきとした男だ。相当堪えたんだろうな」
野次馬は流され易い。醜聞を聞いては「あいつは悪人だ。ろくでなしの屑だ」と騒ぎ立て、潔白が証明されれば「気の毒だ。可哀想に」と同情を押し付け始める。この看守達は痛ましい姿を目にすると、皇后陛下を蹂躙した憎き罪人と罵っていたのも忘れ哀れみを向けた。
なぜ野次馬が流され易いか。尋常な精神状態のリューシに尋ねれば冷笑して答えただろう。負うべき責任がないからだ、と。
「夜明けまであと何時間だ?」
ぷっつりと途切れた会話に背の低い方が質問を投げ込む。夜明けと共にこの仕事は終わる。死刑執行人に引き渡すまでが彼らの仕事だった。そこから先はただの見物人だ。
「もう2、3時間もすれば──」
最後まで言わずに言葉が切れる。不審に思ってそちらを見れば、相棒はぐったりと壁に背を預け座り込んでいる。
「おい! どうした!?」
しゃがみ込み慌てて肩を掴み揺さぶるが、ピクリとも反応はない。頭が人形のように前後に振れるだけである。一体、これはどうした事か。
もしかすると急病かも知れない。この場に唯一残された健常者となった看守は誰か人を呼ぼうと立ち上がった。その途端、ふっと胃が迫り上がるような感覚に襲われた。同時に意識がプツリと切れる。脱力した両脚は支えの役割を放棄し、彼は先に動かなくなった看守に折り重なって倒れた。
夜明け前の暗闇を静寂が包んだ。それを破るように、カツンと杖で床を打つ音が響く。
「……暫らく眠っていろよ」
囁く声と共に、牢の中に人影が浮かび上がった。
闇に紛れる黒のローブを纏った人影はリューシに近づき、何かを取り出す。それを手にして正面にしゃがみ込んだ。
通気孔のように小さな鉄格子の窓から射し込む月光がリューシの横顔を照らす。冷たい光にくっきりと強調されたその輪郭は美しく、微動だにしない。その口元へ瓶のようなものが宛がわれ、精悍な線を描く首の喉仏が上下した。
「戻って来いよ……皇妃殿」
するすると発光する青白い糸を引き出しながらローブの男が言う。ごく小さな瓶にそれを収納し、懐に入れた。脱力して傾く身体を支え口の中で素早く何かを呟く。途端にリューシの身体は元のように座り、輝きのない瞳は宙を見つめた。
そこに座るリューシの姿を確かめ、男は掻き消されるように失せた。
入り組んだ路地を、バルトリスは一人で進んでいた。
記憶力に自信があるわけではないが、以前リューシに連れられて来た道はこれで合っているはずだ。何度も右折左折を繰り返す複雑な道順だが、その分目印になるものも多かった。
赤い猫の置物、窓から覗いている不死鳥のタペストリー、薔薇の花が描かれた壁──表通りにはない個性的なオブジェが無秩序に、しかし奇妙な調和を持って視界を流れて行く。それには音楽のような旋律とリズムがある。一度通れば迷う事は滅多にないだろう。リューシも自分を連れて来た帰りがけにそう言っていた。
記憶を辿りながら暫く歩き続け、煉瓦造りの例の建物が見えた。老朽化が目立つ相変わらずの佇まいだが、この日に限ってはバルトリスの目に輝いて映った。
取っ手のない扉の前に立ち、ゆっくりとそれを押し開ける。初めて訪れた時に顔をしかめた独特の匂いですら希望に感じられた。まだ浮わつくには早い。そう己を叱咤し、足を踏み入れる。
大柄なバルトリスには特に狭い通路を進み、店の奥へ向かう。紫煙がふわふわと漂ってくるのを見たと同時にその元から声がした。
「来たか──」
ようやく姿が見えた店主はパイプの火を消し、射るような目付きでバルトリスを見据える。
「俺が来るとわかっていたのか、ナドッカ」
分厚い本を山積みにした机の前に立ったバルトリスの問いには答えず、店主──ナドッカは言った。
「皇妃殿を救いたいんだな?」
こちらを見透かしたような台詞に心臓が跳ねる。動揺をどうににか抑え、そうだと頷いた。
「単刀直入に言う。“移魂再生術”を知っているか」
「何……?」
ぴくりと眉が動く。
「それならリューシを救えるかも知れないと、皇子に聞いた」
「皇子──セドルア皇子か」
「そうだ」
なるほどな、と妙に納得した様子でナドッカは顎髭を撫でた。それを不思議に思いつつ、バルトリスは続ける。
「大賢者モルスだけがその魔術を使えると、そう言っていた。モルスって人物に心当たりはないか?」
ふむと嘆息し、ナドッカは探るように目を覗き込んでくる。まるで自分の腹の底まで見透されているかのような感覚にぞわりと肌が粟立った。真正面で対峙した事はなかったが、これはなかなか気味が悪い。
「言っておくが、」と目を逸らす事を許さずこの奇怪な老人は言う。
「皇妃殿の魂は今肉体に収まっているのが不思議なのだ。新しい肉体に入り直せるかどうかわからんぞ……仮に入ったとして、いつ限界がくるとも知れん」
「待てよ。俺は大賢者モルスって人に心当たりがあるかと聞いたんだ。移魂再生術が出来るかどうかを聞いたわけじゃねぇ」
「まあ、そう焦るな」
詰め寄るバルトリスを宥め、ナドッカは本の山の向こうから小瓶を取り出した。ことりとそれを正面に置く。
「これは一時的に魂を入れる容器だ」
「は……?」
何を言い出すのだ、この老人は。
困惑していると、何やら天井に向かって合図をする。小さな物音がしたかと思えばするすると鮮やかな縞模様が降りてきた。
「ミグよ、少しの間借りるぞ」
そう言うや否や、ナドッカがヘビの口に何かを流し込んだ。手にしているその瓶には「劇薬」と書かれたラベルが貼られている。リューシが「店主の趣味だ」と言っていたものだと思い出した。骨董屋にこんなものを置いているのかとぎょっとした覚えがある。あれをペットに飲ませてどうするというのか。
「劇薬」の瓶を机に置き、ナドッカの指先が軽くヘビに触れる。
バルトリスはハッと息を呑んだ。何かを摘まみ上げるように引き上げたその指先に、青白い糸のようなものがついてきている。
その青白い光はナドッカが指を向けた方向──小瓶へ向かい、吸い込まれるようにその中に収まった。と同時にミグの細長い体がパタリと机に横たわる。小さな空間で発光するそれが何であるか、バルトリスは言われずとも了解した。
「あんた、まさか──」
あまりの衝撃に続かなくなった言葉を、ナドッカが継ぎ足す。
「──モルスは俺だ」
灯台下暗し。
何よりはっきりとそのフレーズが頭に浮かんだ。
◇◇◇
ロアンヌは叩いてから数秒経つ扉を前にしてため息をついた。
皇妃──リューシが拘引されたという知らせを受けてから、兄のガスパールは自室から出てこない。閉じ籠ってから既に1週間になる。食事もロアンヌが運んできたものを3割程度食べるだけで、ラヴォル家の当主に間借りしている生活空間には現れない。その間にリューシには死刑判決が下され、それからというもの食事の量は更に減った。
「兄様」
再度扉の向こうに呼び掛けてみるが、応答はない。今日も出てこないつもりなのだろうか。
「いつまでそこに籠っているつもり? 兄様がそんな風に鬱いでいたって何も変わらないのよ?」
いつもなら心の内に留めておく言葉を口にしてみる。やはり、反応はない。
兄は、2次性別こそが人間の価値であり、αである事に意味があるという思想を持つ人だった。故にΩであるリューシを蔑んでいた。少なくとも、あの火事の日までは。
兄と娘が燃え盛る炎の中に取り残されていると気づいたロアンヌは、丁度公務の為に訪れていたリューシに助けを求めた。藁をも掴む思いですがったが、彼は友人の制止も聞かず業火へ飛び込んだ。兄は娘と共に救い出され、今こうして生きている。
兄の態度が変わったのはそれからだった。
リューシに対する嫌味な物言いは相変わらずなものの刺々しい空気はなくなり、二人で向かい合って議論をしている姿を時たま見かけるようになった。自分は彼に借りがあるからと何やら相談に乗っていた事もあった。
何よりの変化はαである事を誇示しなくなった事だ。あからさまにΩやβを見下すような言動をしなくなった。
俺の視野は狭すぎた。兄は口癖のようにそう溢した。
「おかあさま」
裾を引かれ視線を下ろせば、いつの間にか傍に来ていたメリアが見上げていた。
「どうしたの」
自分と同じ栗色の髪を撫でてやるとメリアは愛らしい瞳を不安気に揺らした。
「ガスパールおじさん、でてこないの?」
「そうね、まだお外に出たくないみたい」
「こうひさまがかえってこないから?」
「──!」
胸を突かれた。
子供は敏感だ。大人が思っているよりずっとものを感じている。
「こうひさま、いつかえってくるの?」
「メリア……」
「かえってくるよね……?」
メリアの大きな目にじわりと涙が浮かぶ。
この子は死刑の事を知らない。ありのままを伝えるには事実が残酷過ぎた。しかし、帰らない者を信じて待ち続けさせるのも残酷だ。
──私は、どうすればいいの……?
ぽろぽろと涙を流し始めた我が子を抱き締め、ロアンヌは滲んだ廊下を見つめた。
◇◇◇
「──いよいよ明日か」
「ああ」
独房の前を護っている看守の一人の呟きに、もう一人が答える。
死刑囚リューシ・ラヴォルの監視は二人一組のローテーションで24時間行っている。死刑執行直前の夜に当たったのがこの二人であった。
「死刑っつってもなぁ……もう死んでるようなもんだぜ?」
頑丈な鉄格子の中を覗きながら背の高い方の看守が言う。
そこに閉じ込められている男は焦点の合わない目で宙を眺め続けている。「心身を故障」しているらしいとは聞いていたが、あれは故障などという生易しいものではない。死んだ人間の姿だった。
「この人もいっそ一思いに殺して貰えりゃあ、こんな生きながら死ぬような事にはならなかっただろうに」
「そうだな……裁判まで入れられてた牢では輪姦されてたって言うじゃねぇか。正に生地獄だぜ」
「いくらΩだって言ってもありゃれっきとした男だ。相当堪えたんだろうな」
野次馬は流され易い。醜聞を聞いては「あいつは悪人だ。ろくでなしの屑だ」と騒ぎ立て、潔白が証明されれば「気の毒だ。可哀想に」と同情を押し付け始める。この看守達は痛ましい姿を目にすると、皇后陛下を蹂躙した憎き罪人と罵っていたのも忘れ哀れみを向けた。
なぜ野次馬が流され易いか。尋常な精神状態のリューシに尋ねれば冷笑して答えただろう。負うべき責任がないからだ、と。
「夜明けまであと何時間だ?」
ぷっつりと途切れた会話に背の低い方が質問を投げ込む。夜明けと共にこの仕事は終わる。死刑執行人に引き渡すまでが彼らの仕事だった。そこから先はただの見物人だ。
「もう2、3時間もすれば──」
最後まで言わずに言葉が切れる。不審に思ってそちらを見れば、相棒はぐったりと壁に背を預け座り込んでいる。
「おい! どうした!?」
しゃがみ込み慌てて肩を掴み揺さぶるが、ピクリとも反応はない。頭が人形のように前後に振れるだけである。一体、これはどうした事か。
もしかすると急病かも知れない。この場に唯一残された健常者となった看守は誰か人を呼ぼうと立ち上がった。その途端、ふっと胃が迫り上がるような感覚に襲われた。同時に意識がプツリと切れる。脱力した両脚は支えの役割を放棄し、彼は先に動かなくなった看守に折り重なって倒れた。
夜明け前の暗闇を静寂が包んだ。それを破るように、カツンと杖で床を打つ音が響く。
「……暫らく眠っていろよ」
囁く声と共に、牢の中に人影が浮かび上がった。
闇に紛れる黒のローブを纏った人影はリューシに近づき、何かを取り出す。それを手にして正面にしゃがみ込んだ。
通気孔のように小さな鉄格子の窓から射し込む月光がリューシの横顔を照らす。冷たい光にくっきりと強調されたその輪郭は美しく、微動だにしない。その口元へ瓶のようなものが宛がわれ、精悍な線を描く首の喉仏が上下した。
「戻って来いよ……皇妃殿」
するすると発光する青白い糸を引き出しながらローブの男が言う。ごく小さな瓶にそれを収納し、懐に入れた。脱力して傾く身体を支え口の中で素早く何かを呟く。途端にリューシの身体は元のように座り、輝きのない瞳は宙を見つめた。
そこに座るリューシの姿を確かめ、男は掻き消されるように失せた。
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