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18.アズ・ポーン5

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「ねえ。歌穂ちゃん」
「……なに?」
「『あなた』って呼ばれるのも、うれしいけど。
 そろそろ、下の名前で……」
「だめ」
「なんで?」
「はずかしいから。だめ……」
「そうくるかー」
 あと三ヶ月で、出会ってから一年が経つ。
 歌穂ちゃんは、今でも、どこか他人行儀だ。
 僕からなにかしないと、このまま、ずるずると時が過ぎていくような気がしていた。
「三択です。
 『紘一』、『紘一くん』、『紘一さん』。どれ?」
「考えさせてください」
「答えてもくれないんだね……」
「そんなに、がっかりしないでください」
 どうしようかなと思った。
 歌穂ちゃんからは、祐奈ちゃんの話題が出てこなかった。
 祐奈ちゃんが悩んでいることを、歌穂ちゃんは知らないのかもしれない。
「うーん……」
「どうしたの?」
「あのね。祐奈ちゃんのことで、気になってることとか、ない?」
「ないです。
 今月は、迷惑かけちゃったな……とは、思ってるけど」
 知らないんだ。驚いたけれど、納得もした。
 やっぱり、一人で抱えこんでしまう人だった。そして、それを歌穂ちゃんに悟らせることもない。
 僕も、踏みこんでみるまでは、わからなかった。
 強くて、脆い。そういう人なんだ。
「なに? 気になるんだけど」
「祐奈ちゃんが、礼慈に避けられてるって。
 そんな話、聞いたことある?」
「はあ?!」
「……なさそうだね」
「あるわけないじゃないですか!
 西東さんの宇宙は、祐奈を中心に回ってると思ってますよ!」
「宇宙規模の話なんだ」
「同居してて、どうやって避けるんですか?」
「わからない……。でも、泣いてた」
「それ、いつの話?」
「今日。歌穂ちゃんに電話する前だよ」
「えっ……」
「祐奈ちゃんが、うちに来てくれたんだ。僕を……」
「なんですか。はっきり、言ってください」
「叱りに来てくれた」
「……そうだったの?」
「うん」
「あたし、祐奈のところに行きます。車を出して」
「車は、いいけど。行かない方がいいと思う……」
「ですかね……」
「僕が見てきた礼慈は、浮気ができる男じゃないよ。
 なにか、理由があるはずだ。
 祐奈ちゃんに誤解させたのは、礼慈の落ち度だろうけど……」
「あぁー。いらっとする。
 あたしが西東さんに電話したら、まずい?」
「やめた方がいいと思う」
「わかった。やめる」
 すごい顔をしていた。険しかったし、怒っていた。
 歌穂ちゃんは、礼慈にも似てるかもしれないなと、ふと思った。
 僕のために怒ってる時の礼慈と、気配がよく似ていた。
 礼慈に似てる歌穂ちゃんが、礼慈に対して怒ってる。なんだかなーという感じだった。
「怒ってるんだね」
「あたりまえですよ!
 あたしには、一言もなくって、なんで、あなたに……」
 歌穂ちゃんの声が裏返った。泣く寸前みたいな声だった。
「泣かないで……」
「泣かないです。すごく、かなしいけど」
「ごめんね。もとはといえば、僕が、歌穂ちゃんの」
「そうですよ! LINEを既読スルーって、なんなんですか!
 スルーするなら、既読にしなきゃいいじゃんっていう話ですよ。
 電話を受ける気がないなら、着信拒否にしたらいいじゃないですか」
「返す言葉もないね」
「あんなみじめな思いは、二度とさせないで。
 二度目は、ないから」
「うん。はい。わかりました」
「どうしてなの? あたし……。あたしに、問題があった?」
「ない! そういうことじゃない。
 頭を冷やしたかったんだ。
 歌穂ちゃんを責めたりしたくなかったし、別れたくもなかった。
 冷静になるために、時間が必要だと思ったんだよ。
 だけど……。何度も、無視しちゃったから。
 今度は、連絡すること自体が、こわくなっちゃって」
「それで、祐奈に叱られたんですか。そっちの方が、ずっと、こわかったんじゃないですか?」
「うん……。こわかった。
 迫力があった。すごかった」
「祐奈は、怒るとこわいんですよ。
 理不尽なことで怒ったりは、しないですけど。
 あたしたちが、施設の中でもめたりすると、祐奈がじっくり話を聞いてくれるんです。
 それで、静かな声で、たんたんと、叱ってくれたりした。
 怒鳴ったりしてるわけじゃないのに、叱られた子が、泣いて謝ったりするんですよ」
「……すごいね」
「すごい人なんです。そういうふうには、見えなくても」
「いやー……。うん。
 叱られて、よかったよ。目が覚めた。
 どんなにみっともなくても、歌穂ちゃんの前で泣きわめくことになっても、正直に言わなきゃいけなかったんだなって」
「べつに、そんなことで、きらいになったりしないし。
 そもそも、祐奈のことです。祐奈しか、ありえない」
「それは、わかったけど。僕が伝えた時の、歌穂ちゃんの様子が……」
 歌穂ちゃんの顔がこわばった。あの時と同じ表情をしていた。
 あっと思った。
 どうして、歌穂ちゃんがあんなに動揺していたのか、僕にはわからなかった。
 今は、なんとなく分かっていた。
 あの呼び方で呼んでしまったこと自体が、歌穂ちゃんにとっては地雷だったんだ。
 誰にも知られたくないことだったんだ。
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