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第一章

第一話 推しが空から降ってきた

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 そこは大きなビルのエントランス。
 男は大股で広いフロアを歩いて抜けようとしていく。
 若白髪が幾分か混じった髪をうるさそうに払いながら、ずれた眼鏡を直しながらも急ぐ足は緩めない。
 目つきがあまりよくないのは、視力が悪いせいだろうか。
 顔見知りの受付のお嬢さんたちに軽く会釈をして、さっさと帰路につこうとしていた。
 しかしビルを出ようとした瞬間、ちょうど入ってこようとしていた男に声をかけられてしまった。

「財前さん、お疲れ様です」
「あ、どうもお疲れ様」

 営業の彼は同期の誰か。名前はなんだっけ?と脳で検索しようとするが、今、ここで思考ソースをそこに使いたくないから、と考えを放棄した。だって俺は早く帰りたい。

「今日は早いんですね、これから皆さんで飲みに行かないかって話してたんですけれど、財前さんもいかがですか?」

 にこやかに誘ってくれる彼は社交辞令なのかわからない言葉をかけてくる。しかし。

「すみません、今日は用事があって……」

 失礼にならないように、やんわりと断りをいれた。
 今日でなかったのならお誘いを受け入れもしたのだけれど、と申し訳なさを顔ににじませて。しかし、どことなく浮き足立つ雰囲気は醸し出してしまっていたのだろう。
 彼女とデートですか?と訊かれて上手に表情を作ることができなかった。
 相手はそれで色々と察してしまったのだろう。にやにやとされてしまって。どうも自分は下手をうったようだけれど、急いでいるのは事実だ。
 曖昧に微笑んで会釈をして切り抜けよう。

「申し訳ありません、失礼します」

 明日にはありえない噂が流れているのを覚悟しながら、それでも今日はどうしても帰りたかった。

 普通に歩いているつもりが、いつしか早歩きに、そして小走りへとなっていく。
 先ほどまではきちんと着こなしていたスーツだが、歩きながら少し、ネクタイを緩めて、オンからオフへ入る準備をしていた。

 脳裏に浮かぶのは一人の像だ。

 オタクとか、二次嫁とか、そういう言葉すら知らなかった自分が、その人に一目惚れしたのも今日と同じ水曜日。

 彼女の名前はスティア・ディラール。

 愛称スティ。

 長い紫色の直毛の長い髪は、彼女の背中に流されて、アメジストの目はキラキラしている。色白の肌は薄い素材のひらひらした女物の服を纏い、自分を「ボク」と呼ぶ妖精のように可愛らしい子。
 しかし、この世に存在している人ではない。
 久しぶりの恋の相手は現実の人間ではなく、人気ライトノベルズ「双銀の鎮魂歌」の作中人物だ。
 主要キャラですらない脇役も脇役、しかも敵の中ボス的存在なのだけれど。
 中性的で愛らしい容姿であるけれど、魅力的なキャラクターが多い作品の中では埋没してしまう程度の人気だと知ったのは、原作を全部読んで、ファンアートなるものの存在を知ってからだった。

 双銀の鎮魂歌はコミカライズされ、アニメ化と進んでゴールデンタイムにて放映をされるほどの人気だ。そしてそのアニメをたまたま自分が見るという流れで知った。
 初めて見たのも本当に偶然。一人で食事するのもしのびないと点けたテレビのチャンネルがそれに合わさっていたのは運命だったのだろう。
 その時は「こんな時間帯にやっているのに、随分と重い内容だな」としか思わなかったが。
 内容も、当時は近未来で人間と機械を操る人間が戦っているらしい、くらいにしかわからなかったのだけれど。
 その時に作っていた夕飯のスパゲティボンゴレを、ずるずるすすりながら見ていたが、ふいに出てきた可愛い子に心を奪われて……それから今に至る。

 放映中のアニメを途中から見ると内容についていけなくなるのは世の常人の常。
 ネットで過去の話を探し回ったが、不法アップロードされては削除される過去話を見ても細かいところがわからず、どうやら原作小説があるらしいとわかって、即座に全作を大人買いしてしまったのだ。

 今では帰宅して即着替え、食事も後回しにしてアニメが始まるのを正座待機して待ちわびるのだから、人は変われば変わるものだ。
 オープニング画面を、ときめく胸を押さえながら食い入るように見入る。
 何度も見ているから、スティアが一瞬だけ出てくるタイミングまで覚えてしまった。

 元々、アニメやゲームはおろか、漫画も小説も創作物というものにそれほど触れないで29年過ごしてきていた。
 読むとしたら仕事で使えるビジネス書だったり新聞だったりだけだろうか。
 推しという言葉も、尊いという感覚も、青い鳥が有名なマークのSNSで調べまくって知ったくらいだ。
 スティアのおかげで世界が格段に広がっていった。知らなくてもいい方向かもしれないが。
 しかし、彼女のおかげで世界は確実に色づいて、そして今までも知らないで過ごしてきた感情を知ったのだ。

 厨二病なるものは、適正な時期に適正に罹患しておかなければいけないものだ。
 それと同じように、こういう二次萌えも、下手に年取ってからかかってこじらせると重症化してしまう。
 この財前蒼一郎という男はその典型例だったかもしれない。

「あぁ、今日もスティは可愛いかった……」

 もっと真性オタクだったらテラカワユスとか言っていたのかもしれないが、そういう語彙がなかったので、人に通じる言葉で愛を叫ぶしかない。
 彼女を知って数週間、ドキドキしながら、テレビの前に陣取っているが……この楽しみも、もうすぐ終わる。
 原作を知っている自分は、今後のアニメの展開を知っているのだ。

「話の展開上、エックスデイは来週だろうなぁ」

 しょんぼりしながらテレビを切った。
 今週の放映の最後、スティアは追い詰められて爆弾のスイッチを入れようとしていた。
 機械を支配するあまり、誰かを信じることもできない彼女は、主人公たちとも触れあうこともせずに、この先、死を選ぶのだ。

 双銀の鎮魂歌は近未来SFと言ってもよいだろうか。
 人間に反乱した機械たちを操り、世界を混沌に包み込む『Leaders』という敵の組織。
 それに抵抗する主人公たち。
 敵の幹部と主人公の一人が通じ裏切りが出たり、味方だと心を許した人物が実は悪役メインキャラだったり、疑心暗鬼に囚われて仲間を裏切ったりという人間関係や、男女獣入り乱れての複雑な恋模様、敵キャラも背景がきっちり描きこまれていて一方的に悪と決めつけられなかったりで、どんでん返しに次ぐどんでん返し。何が起こるかわからないという深いストーリー。
 スティアのことが知りたくて読み始めた話だったが、そのテーマと見事な筆致と構成力にいつの間にか引き込まれ、夜な夜な寝不足になりつつ読み進めたものだった。

 そして、最推しであるスティアの能力は歌で機械を操るというもの。
 その生まれ持った能力により実の親に過剰に期待をされ、過剰に落胆され心に傷を負っているというバックボーンがあり、大人を基本的に信用していないようなのが、言葉の端々に現れている。
 はすっぱな態度ではあるけれど、どこか品のある立ち居振る舞いに、ファンの間では「いいところの生まれでは?」というのが定説になっている。

 あの、ビィ、という痺れるような歌声は機械をも操るが、こうしてテレビの向こうのいい大人をも操ることになっているとは、作者のよりリン☆池神先生も思っていなかっただろう。

「正義の味方なんて全員死んで、スティだけが生き残ればいいのになぁ」

 話の展開をまるで無視した、作者が聞いたら泣きそうなことを真顔で呟く。
 愛するあまりに突発的に作った非公開ブログに今日の感想を書こうと、スマートフォンを取り出せば、メールが来ているマークが現れた。

「なんだこれ?」

 知らないところからメールが届いているようだ。送信者はバグだろうか、空欄になっている。
 中を開いて確認し、眉をひそめた。


『おめでとうございます。貴方は選ばれました。

貴方が最も愛する人を、貴方の世界に召喚できます。

つきましては■■■■■■

注:もし、貴方とターゲットの間に絆が芽生えなかったら、ターゲットは■■■三日後に、■■■■
■■■ご注意ください。』

 なんだこれ、悪戯だろうか、と目を落とすが、メールの一部が文字化けのようになっていてよくわからない。文字化け以外の意味もわからない。
 自動的にカーソルがイエス、ノーボタンに動いていて、あまり読まずにイエスボタンを押してしまった。
 あ、やばい、怪しいURL踏んじゃったかな。

 慌てて、キャンセルできないか試みようとしたその瞬間、唐突に上に影が現れ・・・・・・。


「ふぁああああ!????」

 誰かの驚いたような声と共に、背中に衝撃が走った。

「ふぐぅっ!??」

 なんだ!?と思う間もなく押しつぶされ、床に強引にキスをさせられる。
 肺が押されてつぶれたカエルのような声が出た。
 何が起きたかわからなくて、したたかに打った顎を押さえながら、今なお自分の上にいる何かを振り返り。

「……!?」

 上にいたのは、絶世の美少女。
 見覚えのある髪の色。見覚えのある容姿。
 彼女が現実にいたならまさにこんな感じという姿が目の前にいて……。

「……え、あ……?? 誰ですか、貴方」

 自分に向かって問いかけてくるその声は知っている。
 彼女が支配するのは機械だけなのに、生身の人間の自分も支配されたいなど、少し危ない願望を持ったから。

「スティ……? スティア?」




――その日、双銀の鎮魂歌の世界から、スティア・ディラールが消え失せた。
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