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[35]ミッション⑦遂行中(3)
しおりを挟む「お前とアレクセイの婚約破棄の件だが、平民が皆正しい背景を知っているわけじゃない」
裏路地に身を潜めたところで、死神はそう切り出した。けれど私はまだ、話を聞く準備ができていなかった。
いまになって恐怖に体が震えだした。
どうして見ず知らずの者に怒鳴られ、敵意の視線を向けられねばならなかったのか、その理由がわからない。
誰かが私を糾弾したがっている。私を害したい何者かが、今にもこの路地に駆け込んで来るんじゃないか。そんな気がして、不安で落ち着かない。
「フィオリア、大丈夫だから」
死神に抱き寄せられる。胸に顔をうずめ、彼の落ち着いた呼吸に耳を澄ませた。そうしているうちに、だんだんと落ち着いてきた。
それを感じ取ったのか、死神が話を再開した。
「──最近、城下町を中心にある噂が流れている」
雨が降り出した。私にローブを着せたせいで、むき出しになった死神の髪や薄着の肌が雨に濡れていく。
「その噂によれば、お前とアレクセイの婚約を破棄したのは、ディンバード公爵だということになっている」
え───?
雨の勢いが増す。どこかで雷が鳴った。だけどそんなこと、気にする余裕はない。
「なにそれ、違うわ!お父様はアレクと私の結婚を望んでた!私達の婚約を破棄したのはアレクよ!」
あの日、王城の謁見の間、そこに呼ばれた私を待ち受けていたアレクと側近たち、そしてルル。アレクはルルの肩を抱き、無実の罪で私を糾弾した後、婚約破棄を突きつけたのだった。王や王妃、私のお父様の許可も取らず一方的に。
それなのに────、
お父様が、私とアレクの婚約を破棄したですって? どうすれば、そこまで真実がねじまがるの。
「待て、まだ続きがある」
死神の制止に、目を見張る。これ以上、どんなひどい話が続くというの。「いいか?」と死神は慎重に前置きをして、一息に続けた。
「"娘のフィオリアは第一王子に懸想していて、進んで婚約破棄を受け入れた。ディンバード公爵は第一王子とフィオリアの婚約を近々発表する予定だ。これにより、ディンバード家は第二王子を裏切り、第一王子の後ろ盾についた"」
いま、何と言った───?
死神の言った話を何度も頭の中で繰り返し、やっと理解が追いつくにつれ、激しい怒りが沸き起こる。
私が、第一王子に、懸想───? 第一王子になんて、会ったこともないのに?
ディンバード家が第二王子を裏切った───? それこそ馬鹿げた話だ。正妃の子として地位の高いアレクとの婚約を破棄し、アレクを後継者に指定した王と正妃の恨みを買ってまで、わざわざ第一王子に乗り換える理由がない。
「なめられたものだわ。いったい、誰がこんなふざけた噂を────」
ハッとひらめく。
「まさか、ルルが……?」
あの子は城下町出身の平民。そして、アレクの恋人──今では婚約者として貴族の中で生活してもいる。事情通の顔をして、平民たちにこれらの噂を流すのなんて朝飯前だろう。平民たちも、遠い場所から漏れ聞く情報より、直接聞いた彼女の話を信じるはず。
「なぜ? 私からアレクを奪っただけじゃ足りないの? ディンバードを裏切り者に仕立てあげ、家名をも汚そうとするなんて! どこまで私を追い落とせば気が済むの……!」
唐突に悟る。ああ、ルルは、浮気女と自分が責められる状況に耐えられなかったんだわ。あくまで悪いのは私とディンバード家にしておきたかった。
この噂に続きがあるとすれば、それはきっとこうね。"ディンバードに裏切られた傷心の第二王子、アレク。ルルは彼に寄り添った心優しい少女。アレクは彼女の献身に胸打たれ、彼女を生涯の伴侶に選んだ" ───冗談じゃない。
兵士に打たれた男。『いつだって迷惑を被るのは俺たちなんだぞ……!』苦痛に歪んだ彼の顔。向けられる敵意、敵意、敵意───
彼らが私に向ける憎悪の理由わかった。
彼らに言わせれば、ディンバード家は王太子である第二王子を切り捨て第一王子に与した裏切り者。後継者争いを生じさせ、民の生活の平穏を乱した憎むべき存在。──あんなふうに敵意を向けられるわけだわ。
そうなるよう、ルルが仕向けたのだとしたら、あの子はとんでもない策略家だ。個としては力のない民の声でも、まとまれば無視できない大きな力となり得ることを、彼女は知っている。民を味方につければ、家一つを破滅に追い込むことだってできてしまうかもしれない。
ものを知らず、気の向くまま自由に振る舞うルルを、『純粋で、無垢』とアレクは評した。
どこが……!
あの子はとても賢く、計算高い。
「どうにかしないと」
「何をするつもりだ?」
「お父様に、アレクを支持すると表明してもらうわ!そうすれば、ディンバードは決して第一王子に与したわけじゃないと示せるし、アレクの権力も戻って混乱も治まる」
「それは失敗したばかりだろ」
「でも、それしかないわ」
「そうでもない。手紙の一つでも書いてアレクセイに王太子の座を捨てさせればいい。自分から後ろ盾となる家の娘を裏切って、何の力もない平民の娘を選ぶくらいだ。あいつ自身は、王太子の座にそれほど執着はないんじゃないか? 王太子の座は年功序列で第一王子に。争いは収まり、万事解決だ」
「半分平民の子を、時期王にしろというの……!?──あ、」
急いで口を閉じるも、遅かった。腰に添えられた死神の手が離れていく。
「お前もやっぱり、貴族の女なんだな」
突き放した物言いに、足元が崩れ去るような気がした。
「違うの……!」
──いいえ、何も違わない。私はどこかで平民を蔑んでいる。貴族として生きてきた中で凝り固まった悪しき選民意識からなのか、それとも、平民であるルルを嫌うがあまりか。
「お前は王太子の婚約者に戻りたいのか? それとも、アレクセイの婚約者に?」
私はアレクを愛してる。彼が王太子でなくなっても、彼の価値が変わることはない。そうでしょ──?
「私はただ、アレクの隣に…………」
なのに、どうしてその言葉に自信が持てないの。
「なら何も問題はない。このまま俺の計画が進めば、お前はアレクセイを取り戻せる。後継者争いは放っておけ。お前の出る幕じゃない」
考えた末───こくり、と頷く。納得したわけじゃない。これ以上何か言えば、死神と言い争いになる。そんな気がして、反論の言葉を飲み込んだ。
そこで、ふっと死神が笑った。
「あーあー、すっかり濡れネズミだな」
暗い雰囲気を払拭するように、明るく言う。ローブの上から、頭を乱暴に撫でられた。
「貴方ほどじゃないわ」
笑顔を浮かべる。ぎごちなくなっていないといいけど。
「帰ろう。ちょっと急ぐが、文句は受け付けない」
言うが早いか、死神は私を横抱きに抱え上げた。お面がすぐ近くにある。彼の胸に顔を預ければ、黒髪から滴る雫が頬を濡らした。
「………氷菓子、結局食べられなかったわ」
「また今度連れてってやる」
「約束よ」
「ああ。──もう口を閉じろ。舌を噛むぞ」
きゅっと唇を結んだのを確認し、死神は屋根の上へと駆け上がった。
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