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五章
3、許嫁
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壺を抱えながら、達比古おじさまがわたくし達の元へやって来ました。
「さぁ、戻るぞ。翠子」
なおも壺を押し付けてこようとするおじさまの前に、先生が立ちはだかります。
わたくしの目の前は、先生の広い背中でふさがれました。先生の首筋を、一筋の汗が伝っています。呼吸も少し乱れているようです。
まさか、この暑い中を走ってきてくださったのでしょうか。
だって、先生は同じ海岸通りの百貨店に来るのでさえ面倒で、俥をお使いになるとお清さんが仰っていたのに。
今、ここにいらしゃるということは、一度自宅に戻ってからのはずなので、遠回りですのに。
「なんだ、君は」
「確か翠子さんの叔父さんでしたね。三木達比古さん」
「はぁ? なんで僕の名前を知っているんだ。なんだ、あんたは」
「そりゃあ、覚えていますよ」と、先生は口の端を歪めました。
「翠子さんに、紹介いただいたことがあるのでね。あなたは、俺のことなど覚えてもいないようだが」
「はぁ? 無礼だな。名乗れよ」
「そうですね。記憶力は人それぞれだ。失礼しました、高瀬欧之丞と申します」
おじさまは「高瀬」と口の中で繰り返して「ああ、川向こうの地主の高瀬か」と尋ねました。
その問いに、先生は眉根を寄せておられます。
「翠子さんは、俺のことをそんな風には紹介しなかった」
「は? なんで翠子が関係あるんだ。というか、あんた翠子の何なんだよ」
達比古おじさまの口の利き方は、あまりにも失礼です。
わたくしはむっとして、先生の腕に手をかけておじさまを睨みつけました。
「高瀬先生は、女学校の」
「翠子さんは、俺の許嫁だ」
わたくしとおじさまは、揃って目を丸くしました。
いえ、確かに花嫁にすると仰ってましたし。わたくしも先生に嫁ぐのならば、それはとても嬉しいですし。初恋のお兄ちゃんなのですから、まったくもって異論はないのですけど。
でも、おじさまは異論どころか反論がおありのようです。
「待て。俺は姉さんから何も聞いていない。確かに最近、笠井家で翠子を見ていなかったが」
「当たり前ですよ。翠子さんには、もう高瀬家に入ってもらっているんですから」
「馬鹿なことを言うな」
「馬鹿? 翠子さんの件は、すでに笠井家も納得済みだ」
「結納金は! 笠井は男爵家なんだぞ。いくら地主とはいえ」
「ああ」と、先生はあごを上げて、おじさまの手元を見据えました。その瞳は冷たく、見る者を凍えさせそうでした。
「結納金の一部は、その壺になったかもしれないな。今後、俺の許嫁に会うことは許さない。では、これで失礼」
先生はわたくしの背中を押して、歩き出しました。
肩越しに振り返ると、おじさまは呆然とわたくしたちを見送っています。
「あいつに関わるんじゃない。男爵の貿易会社が傾いたのは、なにも経営が下手だからではない。あの達比古という男に不正に金が流れているんだ」
「達比古おじさまが?」
「放蕩息子とは、よく聞くが。放蕩弟を甘やかす姉がいるからだ。まぁ、これ以上は言わんが」
先生の口調は、憎々しげでした。
わたくしは知りませんでした。知ろうともしませんでした。
母がおじさまにお金を渡して、会社が傾き。父がその負債を返すために、わたくしを置屋に売ろうとしていたことを。
わたくしが笠井の家を出るときに、母は泣いて見送ってくれましたが。
でも、今もおじさまが骨董を買っているという事は、母は自分のしていることが元凶であるとは微塵も気づいていないのですね。
「先生、来てくださってありがとうございます」
「まったく。俺は言ったよな。笠井の家には行くな、一人で勝手に出歩くなと。あの達比古という奴に、翠子さんが利用されるのが怖かったのに。あなたは、ふらふらと……」
「ご、ごめんなさい」
わたくしは身を小さくして、先生の後を追いかけました。
「早く家に戻ろう。お清が待っている」
「は、はい」
「だが、躾が足りていなかったようだ。お仕置きは覚悟しておきなさい」
「さぁ、戻るぞ。翠子」
なおも壺を押し付けてこようとするおじさまの前に、先生が立ちはだかります。
わたくしの目の前は、先生の広い背中でふさがれました。先生の首筋を、一筋の汗が伝っています。呼吸も少し乱れているようです。
まさか、この暑い中を走ってきてくださったのでしょうか。
だって、先生は同じ海岸通りの百貨店に来るのでさえ面倒で、俥をお使いになるとお清さんが仰っていたのに。
今、ここにいらしゃるということは、一度自宅に戻ってからのはずなので、遠回りですのに。
「なんだ、君は」
「確か翠子さんの叔父さんでしたね。三木達比古さん」
「はぁ? なんで僕の名前を知っているんだ。なんだ、あんたは」
「そりゃあ、覚えていますよ」と、先生は口の端を歪めました。
「翠子さんに、紹介いただいたことがあるのでね。あなたは、俺のことなど覚えてもいないようだが」
「はぁ? 無礼だな。名乗れよ」
「そうですね。記憶力は人それぞれだ。失礼しました、高瀬欧之丞と申します」
おじさまは「高瀬」と口の中で繰り返して「ああ、川向こうの地主の高瀬か」と尋ねました。
その問いに、先生は眉根を寄せておられます。
「翠子さんは、俺のことをそんな風には紹介しなかった」
「は? なんで翠子が関係あるんだ。というか、あんた翠子の何なんだよ」
達比古おじさまの口の利き方は、あまりにも失礼です。
わたくしはむっとして、先生の腕に手をかけておじさまを睨みつけました。
「高瀬先生は、女学校の」
「翠子さんは、俺の許嫁だ」
わたくしとおじさまは、揃って目を丸くしました。
いえ、確かに花嫁にすると仰ってましたし。わたくしも先生に嫁ぐのならば、それはとても嬉しいですし。初恋のお兄ちゃんなのですから、まったくもって異論はないのですけど。
でも、おじさまは異論どころか反論がおありのようです。
「待て。俺は姉さんから何も聞いていない。確かに最近、笠井家で翠子を見ていなかったが」
「当たり前ですよ。翠子さんには、もう高瀬家に入ってもらっているんですから」
「馬鹿なことを言うな」
「馬鹿? 翠子さんの件は、すでに笠井家も納得済みだ」
「結納金は! 笠井は男爵家なんだぞ。いくら地主とはいえ」
「ああ」と、先生はあごを上げて、おじさまの手元を見据えました。その瞳は冷たく、見る者を凍えさせそうでした。
「結納金の一部は、その壺になったかもしれないな。今後、俺の許嫁に会うことは許さない。では、これで失礼」
先生はわたくしの背中を押して、歩き出しました。
肩越しに振り返ると、おじさまは呆然とわたくしたちを見送っています。
「あいつに関わるんじゃない。男爵の貿易会社が傾いたのは、なにも経営が下手だからではない。あの達比古という男に不正に金が流れているんだ」
「達比古おじさまが?」
「放蕩息子とは、よく聞くが。放蕩弟を甘やかす姉がいるからだ。まぁ、これ以上は言わんが」
先生の口調は、憎々しげでした。
わたくしは知りませんでした。知ろうともしませんでした。
母がおじさまにお金を渡して、会社が傾き。父がその負債を返すために、わたくしを置屋に売ろうとしていたことを。
わたくしが笠井の家を出るときに、母は泣いて見送ってくれましたが。
でも、今もおじさまが骨董を買っているという事は、母は自分のしていることが元凶であるとは微塵も気づいていないのですね。
「先生、来てくださってありがとうございます」
「まったく。俺は言ったよな。笠井の家には行くな、一人で勝手に出歩くなと。あの達比古という奴に、翠子さんが利用されるのが怖かったのに。あなたは、ふらふらと……」
「ご、ごめんなさい」
わたくしは身を小さくして、先生の後を追いかけました。
「早く家に戻ろう。お清が待っている」
「は、はい」
「だが、躾が足りていなかったようだ。お仕置きは覚悟しておきなさい」
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