【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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七章

1、遭遇

 女学校の教室は、近づいている夏休みのことで、皆うきうきした心地のようです。聞こえてくる会話も「避暑地」とか「上海航路」など、断片的であっても華やいだ単語が多いです。

「翠子さんは、夏休みはどうするの? いつも通り高原の別荘かしら」

 友人の深山文子みやまふみこさんと、今日提出の漢字の書き取りを一緒にしながら、お話しします。
 そう、忘れていたんです。漢字の書き取り。旦那さま……いえ、高瀬先生には内緒にしないと叱られてしまいます。

「まだよく分からないの。文子さんのご予定は?」
「うちも別荘よ。いつもと同じで代わり映えしなくって」
「代り映えしない毎日も素敵よ」

 笠井の家は、もう別荘を売り払ってしまったので、涼しい高原で夏を過ごすなんて望めませんけれど。
 ふと文子さんが書き取りの手を止めて、わたくしを見つめました。
「どうかなさったの?」と問うても、まだ視線を外そうとしません。

「翠子さん。なんだか大人びたわよね」
「そうかしら。自分では分からないけれど」

 わたくしは上ずる声を抑えるのに必死でした。旦那さまとああいう関係になってから、子どもでいられないのは承知のはずですのに。

 放課後、わたくしは教室で高瀬先生を待っていました。
 これまでは校外にある石垣に座って時間を潰していたのですが、外は危ないと先生が判断なさったのです。ほとんどの生徒が帰宅した校内はうら寂しく、オレンジ色の夕暮れが満ちる教室は、時計の針の音ばかり大きく聞こえます。

 カツカツと廊下を歩く音がします。女生徒のような軽い足音ではありません。わたくしはお書物を急いで風呂敷に包んで、ドアへと向かいました。ええ、藤色匂う着物の袂も、海老茶袴の裾も乱れるほどに。
 
 ドアノブに手をかけると、勝手にドアは開きました。

「翠子さん? うわっ……」

 わたくしは勢い余って高瀬先生に激突しそうになりました。しなやかな身のこなしで、先生はわたくしを抱え上げます。

「あ、あの……足が床についておりません」
「あなたの足を床につけると、脱兎の如くどこかに行ってしまいそうだ」
「違います。どこへも行きません。先生の足音が聞こえたので、嬉しくなってつい」
「暴走してしまった?」

 わたくしは、こくりと頷きました。

「そんなに寂しかったのか? たいして遅くなっていないけど」

 先生は壁の時計を見上げました。確かに約束の時間ぴったりです。
「でも寂しかったのです」と正直に申し上げると、先生はわたくしを床に降ろして頭に手を伸ばしました。
 少しためらってから、わたくしの頭を撫でてくださいます。

「まったく。俺はあなたに甘いな」

 てっきり「甘えん坊だな」とからかわれると思っていましたのに。意外です。

 なぜわたくしはこんなにも不安になるのでしょう。グレンダールホテルで達比古おじさまの話を聞いたからでしょうか。こうして放課後の教室で先生がいらっしゃるのを待つのも、おじさまのことが原因なのでしょうか。

 校門を出るまで、わたくしは先生の数歩後を歩きました。西に傾いた日が、先生の影を長く伸ばしています。まるで『ダディ・ロング・レッグス』みたいです。

 道に出たといっても、学校の近くで先生と手をつなぐことはできません。でも、わたくしがそっと手を差し出すと、影も同じように動きます。当たり前のことですが。

 先生の手の影と、わたくしの手の影が地面で触れあっています。まるで二人きりで最果ての地を進むような心地でした。

「翠子さん。これを」

 いつもと違う道を歩き、商店街が見えてきたところで先生(……いえ、もう旦那さまと言ってもいいでしょう)がメモをお渡しになりました。そう、今日はお清さんにお買い物を頼まれていたのです。

「『おうとう』というのが分からないのだが」
「桜桃ですね。さくらんぼのことですよ」

 わたくしの喉がこくりと鳴りました。きっと今日のおやつです。楽しみです。

 八百屋さんの店先に並ぶ果物は、明るい色に溢れていました。。橙色の枇杷に、つやつやとルビィのように輝くさくらんぼ。見るからに酸っぱそうな夏みかんに、早生の桃もあります。

 籠に入ったさくらんぼを求めると、八百屋のおじさんは紙でこしらえた袋に入れてくださいました。

 袋の中でころころとしたさくらんぼを、眺めていると、旦那さまが微笑んでいらっしゃいました。

「そんなに楽しみ?」
「いえ、別に」

 素っ気なく答えたものの、可愛いさくらんぼは、わたくしを誘惑します。
 今日のおやつでしょうか。それとも夕食後のデザート?

「相当、楽しみみたいだね」
「違うんです。綺麗なさくらんぼだと思っていただけです」

「おや、翠子じゃないか。珍しいな」

 背後から声をかけられ、わたくしはさくらんぼの入った袋を落としそうになりました、
 すぐに視界が白に閉ざされます。

 何事かと思うと、旦那さまがわたくしの前に立ちふさがっておられました。なので、広い背中しか見えません。

「うちの翠子さんに、気安く声をかけないでもらおう」
「つれないなぁ、高瀬のお坊ちゃまは。叔父が姪っ子に挨拶するのも禁じるとはね。束縛が過ぎるんじゃないのかな」

 達比古おじさまです。顔は見えませんが、ねっとりとした声を聞くだけでも背筋に悪寒が走ります。
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