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十一章
4、夕暮れの天気雨
やった。仕事が終わった。
就業時間を迎えた俺は、立ち上がって万歳をしたい気分だった。
軽やかに階段を下りていると、また皆月先生と出会った。今日はよく顔を合わせる日だ。
皆月先生は階段の踊り場で、煙草を喫っていた。
細く長く煙を吐いて、瞼を半開きにした姿は、とてつもなく倦怠感を滲ませている。
「高瀬先生、スキップしてるわよ」
「まさか。冗談はよしてください」
「心がね」
口の端だけで微笑む皆月先生は、まるで心がため息をついているように見えた。そう、やりたくもないことを嫌々やらされているような。
それが仕事ならば諦めもしようが、何かしら鬱屈をため込んでいそうだ。
「嫌なことでもありましたか?」
「あら、珍しい。気にかけてくれるの?」
「まぁ、人並みには」
いろんな色に汚れた白衣で、皆月先生は壁にもたれかかるから。壁の一部分に落書きをされたかのように思えた。
「嫌というか。柴田がうるさくてね。『皆月先生は高瀬先生と仲がいいんでしょう? 絶対に美術室に来るように誘ってくださいよ』って」
「俺とあなたが、仲がいい? 良くありませんよ」
「はっきり言うわね」
今度は口の端だけではなく、皆月先生の目も笑った。
◇◇◇
夕空があまりにも美しい朱と紫に染まっているのに、なぜかぱらぱらと雨が降っていた。
天気雨か。
傘も持っていないし、少しくらい濡れても構わないだろう。
俺はそのまま校門を出た。
うちの女学校の生徒かどうかは分からないが、二人連れの女子が並んで歩きながら、合唱曲を歌っていた。『朧月夜』だ。
雲が風で飛ばされたからだろう。泣きたくなるほど美しい夕空には、月も見える。
今は夏だから、春風は吹かないし菜の花も咲いていないが。夕月がかかった空と、花の淡いにおい。
合唱の澄んだ声と相まって、まるで夢のような光景だった。
ここに翠子さんがいたならば。「きれいですね」と隣で微笑んだだろうに。
彼女の好物をお土産にすることは、いくらでもできる。だが、この光景は……今、この歌声と共にすぐに儚く消えてしまう美しいものは、持って帰ってあげることができない。
「あなたに見せてあげたいなぁ」
そう呟いて、はっとした。
これまでの自分はこんな情緒を解する人間ではなかったはずだ。これは琥太兄の得意分野で。
だが、翠子さんと暮らし始めてから、彼女がきらきらした瞳で、いろんなことを俺に教えてくれるから。
夢見がちなお嬢さんだろ、と他人が見たら思うかもしれない。
けれど、俺にとっては彼女の視覚を、感性を通すと世界がきらきらして見えるんだ。
三十一年間生きてきて、知らないことだった。
夕暮れを見ると、泣きたい気分になるなんて。美しい光景を見た時に、誰かに真っ先に教えてあげたいなんて。
大通りから小路への角を曲がる頃には、天気雨も小降りになっていた。
開襟シャツがしっとりと濡れてしまったが、肌に張り付くほどではない。
前方から洋傘を差した女性が進んでくる。腕に黒い蝙蝠傘をかけているところを見ると、主人を迎えに行く夫人だろうか。
果報者もいるものだな、と俺は思った。
だが、その夫人はずんずんと俺に向かって進んでくる。
おい、待てって。このままだとぶつかるぞ。
女性に道を譲ることはやぶさかではないが。通常の男性に向かってそれをやったら、罵られる可能性があるぞ。
それとも君は、俺に喧嘩を売っているのか?
「おかえりなさいませ、旦那さま」
「え?」
洋傘を少し後方に上げて、顔を出したのは翠子さんだった。
就業時間を迎えた俺は、立ち上がって万歳をしたい気分だった。
軽やかに階段を下りていると、また皆月先生と出会った。今日はよく顔を合わせる日だ。
皆月先生は階段の踊り場で、煙草を喫っていた。
細く長く煙を吐いて、瞼を半開きにした姿は、とてつもなく倦怠感を滲ませている。
「高瀬先生、スキップしてるわよ」
「まさか。冗談はよしてください」
「心がね」
口の端だけで微笑む皆月先生は、まるで心がため息をついているように見えた。そう、やりたくもないことを嫌々やらされているような。
それが仕事ならば諦めもしようが、何かしら鬱屈をため込んでいそうだ。
「嫌なことでもありましたか?」
「あら、珍しい。気にかけてくれるの?」
「まぁ、人並みには」
いろんな色に汚れた白衣で、皆月先生は壁にもたれかかるから。壁の一部分に落書きをされたかのように思えた。
「嫌というか。柴田がうるさくてね。『皆月先生は高瀬先生と仲がいいんでしょう? 絶対に美術室に来るように誘ってくださいよ』って」
「俺とあなたが、仲がいい? 良くありませんよ」
「はっきり言うわね」
今度は口の端だけではなく、皆月先生の目も笑った。
◇◇◇
夕空があまりにも美しい朱と紫に染まっているのに、なぜかぱらぱらと雨が降っていた。
天気雨か。
傘も持っていないし、少しくらい濡れても構わないだろう。
俺はそのまま校門を出た。
うちの女学校の生徒かどうかは分からないが、二人連れの女子が並んで歩きながら、合唱曲を歌っていた。『朧月夜』だ。
雲が風で飛ばされたからだろう。泣きたくなるほど美しい夕空には、月も見える。
今は夏だから、春風は吹かないし菜の花も咲いていないが。夕月がかかった空と、花の淡いにおい。
合唱の澄んだ声と相まって、まるで夢のような光景だった。
ここに翠子さんがいたならば。「きれいですね」と隣で微笑んだだろうに。
彼女の好物をお土産にすることは、いくらでもできる。だが、この光景は……今、この歌声と共にすぐに儚く消えてしまう美しいものは、持って帰ってあげることができない。
「あなたに見せてあげたいなぁ」
そう呟いて、はっとした。
これまでの自分はこんな情緒を解する人間ではなかったはずだ。これは琥太兄の得意分野で。
だが、翠子さんと暮らし始めてから、彼女がきらきらした瞳で、いろんなことを俺に教えてくれるから。
夢見がちなお嬢さんだろ、と他人が見たら思うかもしれない。
けれど、俺にとっては彼女の視覚を、感性を通すと世界がきらきらして見えるんだ。
三十一年間生きてきて、知らないことだった。
夕暮れを見ると、泣きたい気分になるなんて。美しい光景を見た時に、誰かに真っ先に教えてあげたいなんて。
大通りから小路への角を曲がる頃には、天気雨も小降りになっていた。
開襟シャツがしっとりと濡れてしまったが、肌に張り付くほどではない。
前方から洋傘を差した女性が進んでくる。腕に黒い蝙蝠傘をかけているところを見ると、主人を迎えに行く夫人だろうか。
果報者もいるものだな、と俺は思った。
だが、その夫人はずんずんと俺に向かって進んでくる。
おい、待てって。このままだとぶつかるぞ。
女性に道を譲ることはやぶさかではないが。通常の男性に向かってそれをやったら、罵られる可能性があるぞ。
それとも君は、俺に喧嘩を売っているのか?
「おかえりなさいませ、旦那さま」
「え?」
洋傘を少し後方に上げて、顔を出したのは翠子さんだった。
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