半世紀の契約

篠原 皐月

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第36話 約束 

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 殆ど惰性的に室内へと入った美子は、部屋の中央に向かって歩きながら、興味深そうに周りを見回した。

(へえ? こういう所って初めて入ったけど、結構まともかも。もっとけばけばしいのかと思っていたけど、色調も落ち着いているし)
 しみじみとそんな事を考えていると、ドアに近い方から声がかけられる。

「おい、コートを掛けるから、こっちによこせ」
「あ、……はい、お願い」
「ああ」
 秀明がさっさと着ていたコートとスーツの上着を脱ぎ、ネクタイも外して纏めてハンガーに掛けているのを見た美子は、慌てて和装コートを脱いで渡した。それを秀明がハンガーに掛けて、目の前のクローゼットにしまっているのを見て、漸く我に返る。

(ちょっと待って! 怒りに任せて思わず入っちゃったけど、どうして私、こんな所に居るのよ!?)
 傍目には落ち着き払っている様に見えながら、美子が内心で激しく動揺していると、クローゼットの扉を閉めた秀明が、今度は慣れた動作で冷蔵庫を開け、中を覗き込みながら尋ねてくる。

「何か飲むか? あと食事がまだなら、ルームサービスも頼めるが」
「いえ、結構よ。踊り納めが終わってから、教室の皆で軽食を摘んで来たから」
「そうか? それなら好きに飲ませて貰う。そこに座れ」
 そして素早く缶を一本だけ抜き取った秀明は振り返り、立ったままの美子に手振りで場所を指し示した。そこを見た美子は、僅かに口元を引き攣らせる。

「座れって、ベッドなんだけど……」
「椅子の座り心地が悪そうだ」
(何で断言……。しかもどうしてジンジャーエールなわけ?)
 戸惑う美子には全く構わず、秀明は彼女の横を通ってベッドの縁に座り、早速缶を開けて中身を飲み始めた。言われた事に困惑はしたものの、わざわざ目の前に椅子を引いて来て座るのもどうかと考えた美子は、結局無言で秀明の横に座った。
 しかし彼女がさり気なく二人の間に、自分の持参したバッグを置いたのを横目で確認し、秀明はジンジャーエールを飲みながら、彼女に分からない程度の笑みを漏らす。それとほぼ同時に美子が身体を斜めにしながら、本題に入る様に促した。

「それで? お話と言うのは何ですか? さっさと済ませて頂きたいのですが」
「ああ、話か……。そうだったな。深美さんからの手紙が、先日無事に自宅に配達されてね。あれを投函したのは美子だろう? どうもありがとう」
「……いえ、どういたしまして」
 なにやら勿体ぶった口調の割には、分かり切った内容であった為、美子は一瞬肩透かしを食らった気持ちになった。そんな美子に軽く笑いかけながら、秀明が話を続ける。

「嬉しかったが、ちょっと驚いたな。一瞬、『あの世から届いたのか?』とか馬鹿な事を思った」
「叔母達にも同様の人がいて、『驚いたわよ、美子ちゃん』と苦笑しながら電話してきた人もいたわ」
「そうか。俺だけじゃなくて良かった。それで、俺への手紙の中身だが、全く深美さんが容赦なくて。あれこれ耳に痛い事が、書き連ねてあったな。一々尤もだから、否定もできないし。まあ、俺を息子同然に思ってくれていた故だろうし、苦笑しながら読んだが」
「……そうですか」
(何なの? わざわざそんな話をする為だけに、こんな所に呼び出したわけ?)
 くすくすと笑い出した秀明を見て、美子は半ば呆れたが、本題はここからだった。

「ところで手紙と言えば、美子の分だけ預かって無かったとか?」
 秀明が横のテーブルに缶を置きながら、チラリと思わせぶりな視線を投げかけて来たと同時に、美子は顔を強張らせて情報の発信源を尋ねる。

「それ……、誰から聞いたの?」
「君の可愛い妹達四人から」
(あの子達! 何をヘラへラと喋ってるのよ!!)
 あっさりと即答されて、美子は怒り心頭に発したが、秀明が更に神経を逆撫でする様な口調で問いかけてくる。

「その事についての感想は?」
「……何よ。そのしたり顔は?」
「仲間外れみたいで、ショックを受けて無いのかなと。赤の他人の、俺でさえ貰ってるのに」
 既に分かっている事をわざわざ口にされた事で、美子の忍耐力は早くも限界に達した。そして勢い良く右手を振り上げた彼女は、狙いを離さずに秀明の頬を打って怒鳴りつける。

「悪かったわね、貰ってなくて!! ええ、仲間外れよ。得体の知れない息子もどきだって貰ってるのに!! どう言う事よ、ふざけるんじゃないわ!」
 怒りに任せてそう叫んでから、じんわりと両目に涙を浮かべた美子は鼻をすすりながら両目を擦ったが、かなり派手な音が出たにも係わらず、秀明は頬を押さえたりせず平然としたまま、素っ気なく言い返した。

「別に、泣き出すほどの事でも無いだろう。改めて何か言うことが無い位、美子が深美さんの考えを分かってて、信頼されてたって事なんだろうし」
 宥めているのか切り捨てているのか分からない口調のそれに、美子は益々苛立ちを募らせながら怒鳴り返す。

「うるさいわね! そんなの当然よ! 妹が四人もいればお母さんだけで手が回る筈もないし、一緒に面倒見てたし、家の事だってしてたし! だからいつも私は後回しで、年上だからって我慢させられてたもの!」
「そういう感覚は、生憎と分からないな。俺は一人っ子だったし」
「薄っぺらい言葉でも、一応分かるって言いなさいよ。この無神経男!」
「悪いな。デリカシー皆無で。うん、お母さんの側で頑張って来たんだよな? 偉い偉い」
 小さく笑いながら頭を撫でる様に伸ばしてきた秀明の手を、美子はすかさず払いのけて、再度彼の頬を打った。

「余計ムカつくわ!! もういい、とっとと消えてよ!! 馬鹿ぁぁぁっ!!」
 そこでとうとうベッドに突っ伏して盛大に泣き出した美子を眺めた秀明は、何故か少し安堵した様な顔付きになってから、徐に言い出した。

「それで……、さっき言ってた深美さんからの手紙なんだが……」
「……ふぅっ。なっ、何よ? まだ何か嫌味を言うつもり!? どこまで性格悪くて暇人なのよ、あんたはっ!!」
 美子は何とかしゃくりあげるのを止めて顔を上げ、秀明を鋭く睨み付けたが、ここで彼は予想外の事を言い出した。

「実は美子宛ての物は、俺が預かっているんだ。ちょっと待ってろ」
「…………え?」
 目に涙を浮かべたまま、当惑して固まった美子をその場に放置し、秀明は立ち上がってクローゼットの方に向かった。そしてベッドの上に起き上がった美子が唖然として見守る中、自分の鞄の中から大き目の封筒を取り出し、それを手にしてベッドに戻って来る。
 そして元の様に座った秀明が、封筒の中を覗き込んで一通の封書を取り出し、それを美子に向かって差し出した。

「これがそうだ」
「は?」
「ほら、渡したぞ。無くすなよ?」
 まだ状況判断ができずに呆けていた美子の手に、秀明がその封書を握らせた途端、一気に正気に戻った彼女は驚愕の叫び声を上げた。

「え、えぇぇぇぇっ!? なっ、何で、どうして、あんたがこれを持ってるのよっ!!」
「俺宛の物の中に、同封されていた」
 軽く手にしている封筒を持ち上げて見せると、美子が驚きを抑え込んで考え込む。

「そういえば、確かに窓口で他の物と一緒に料金を計算して貰った時、どうしてあなた宛ての物だけサイズが一回り大きいのかしらと思ったけど……。そうじゃなくて! じゃあどうして届いた時点で渡してくれたり、教えてくれないのよ! 意地が悪過ぎるんじゃない!?」
 美子にしてみれば当然の糾弾だったのだが、秀明は小さく肩を竦めて弁解した。

「すぐに渡したいのは山々だったが、同封されていた深美さんからの手紙で『美子が大泣きしたのが分かったか、秀明君が泣かせたら渡して頂戴』と指示されていたからな」
「何なのよ、それはっ!!」
「嘘じゃない。ほら、これがその事が書いてある部分だ」
 封筒から取り出した何枚かの便箋のうち、該当箇所を抜き出して秀明が差し出した為、美子は封筒を傍らに置いてそれを受け取り、内容を確認し始めた。そして確かに母の筆跡である事を確認した美子が黙り込むと、秀明が溜め息を吐いてその内容について言及する。

「お前があまり自分の感情を表に出さないタイプなのを、深美さんが随分心配してたみたいだな。自分の葬式で色々頑張り過ぎて神経をすり減らしたり、無制限にストレスを溜め込みそうだと懸念したらしい。だから変わらず淡々としている様なら、俺に『人間サンドバッグかサッカーボールになって、ストレスを発散させてあげて欲しいの。秀明君なら美子を怒らせるのは得意でしょう? 怒ったら泣くと思うし、宜しくね』だと」
「…………」
 黙り込んだ美子の手の中で、秀明宛ての便箋がぐしゃりと音を立てて皺になった。そして怒りを溜めこんでいるかの如く、無言のままボタボタと便箋に涙を滴り落とさせている美子に、秀明がのんびりとした口調で声をかける。

「取り敢えず、泣くか怒るか、どちらかにした方が良いと思うぞ?」
 その台詞で色々振り切れたらしい美子は、便箋を放り出し、泣き叫びながら両手で秀明の胸をボカボカ叩き始めた。

「ばっ、馬鹿ぁぁぁっ!! 持ってたのなら、さっさと出しなさいよ! 本当に底意地悪いわね!」
「ああ、俺の性格が悪いのは自覚があるし、周囲からもそう思われてるぞ?」
 そこで今度は、美子は胸倉を掴んでがくがくと前後に揺すり始める。

「開き直る気!? この間、私がどれだけ惨めな思いをしたと思ってるのよ!?」
「分かった分かった。ほら、好きなだけ殴るなり蹴るなりして良いぞ?」
 両腕を広げて無抵抗をアピールした秀明に、美子が盛大に噛み付いた。

「私、そんなに乱暴者じゃ無いわっ!!」
「そうか? 初対面で蹴りを入れられたが」
「一々、言い返してくるんじゃないわよっ!!」
「それに今、随分叩かれたし」
「叩かれる様な事を、しているからでしょうが!!」
 そんな調子で散々叱り付けた後、怒る気力が無くなったのか美子は秀明にしがみついて「うえぇぇっ」と泣き出し、秀明は一瞬驚いた顔を見せたものの、苦笑して背中に腕を回して軽く撫でてやった。
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