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第一章「三嶋蓮」
【最後は笑ってお別れだね。その一】
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それから俺たちは、花火の会場を次第に離れていった。
歩きながら、どこから話したもんかと思案する。
七年前の八月五日。
あの日俺は、おかんに選んでもらった甚平を着て、西公園に向かっていた。
普段通りであれば、今日、利用した路線バスで向かうところだったが、親父の運転する車で公園近くまで送ってもらった。
天候が、あまりよくなかったからだ。
「気をつけてな」
「うん」
そんな言葉を親父と交わし合い、僅かばかりの小遣いが入った財布と傘を握りしめて車を降りた。
傘を叩く雨音を聞きながら、歩き始める。
花火が行われる河川敷を目指しているのだろう。あたりには、多くの人の姿が見えた。家族連れや、高校生くらいと思しきカップルが多く、自分と同じ中学生はあまり居なかったように思う。
止むことのない雨が肌寒い空気を運んできて、夏の終わりを感じさせる。
それでも、俺の心は弾んでいた。
久しぶりに会う森川は、どんなに可愛くなっているんだろう? 俺の前に現れた時、どんな表情を浮かべるのだろう?
頭の中はポジティブな思考で満たされていて、くすんで見える空の色も、冷たい雨も、これっぽっちも気にならなかった。
『待ち合わせは十八時。西公園の、案内板の前で』
森川と交わした約束が、俺の背中を強く押していた。
歩きながら、今日までの出来事を、順番に思い出していた。
校庭でスケッチブックを広げて座る俺の顔を、初めて森川が覗き込んできた昼休み。
小学校の卒業式が終わったあと、『また、連絡しても良いかな?』と、恥ずかしそうに告げた彼女の顔。ちょっとだけ震えた声。
中学に通い始めて一ヶ月が過ぎた頃。初めて自宅に彼女からかかってきた一本の電話。『蓮、なんか女の子から電話』とおかんが受話器を差し出してきた時の、あの高揚感。
今となっては何を話したのか全く思い出せないし、会話も上手く繋がらなかったように思うけれど、受話器を置いた後の多幸感だけはよく覚えている。
森川のことばかりを考えていた当時の記憶が、じんわりと、胸のあたりを暖かくさせていた。
「でも、約束の十八時を過ぎても、森川は現れなかった」
戸惑いの表情で俺の話に耳を傾けていた森川が、その時「あ」と声を上げて立ち止まる。
歩き続けているうちに、西公園にある案内板の前まで辿り着いていた。
「私──この案内板の前で待ち合わせをしてたんです。ああ……どうしよう。今って、何時ですか?」
少々うわずった声が響く。困惑が、次第に焦燥に変化していくみたいに、複雑な表情を浮かべて俺の顔を見上げた彼女。
「君は五日の夕方ころ、この案内板の前で、大切な人と待ち合わせをしていたんだよね?」
「はい、そうです。ずっと前から、行かなくちゃ、行かなくちゃって思ってたんですけど、どういう訳か足が動かなくって……。どうしよう……。きっと彼は、怒って帰っちゃったんですね」
弱ったようでもあり、辛そうでもあり、様々な感情がない交ぜになった、なんとも形容し難い複雑な顔を彼女はしていた。切れ長の瞳は次第に潤み、声も涙混じりに変化していく。
「……その人のこと、好きだった?」
訊いておいてなんだが、自分でも意地の悪い質問だなって思う。
「もちろんですよ! ずっと好きだったんです。最初に好きになったのは、いつだろう……。小学校の三年生くらいの時かなあ」
『ずっと好きだった』なんて、なんの躊躇いもなく告げてくる森川に、しみじみと、恋い慕う気持ちが呼び起される。
なんだか俺まで、十四歳だったあの日に戻った心地になってくる。三年生の頃から好きだった? 本当に? なんて、意地悪な問いかけをしたくなる。森川が温めていた気持ちが、むしろ俺より深かったという事実に、感慨もひとしおだ。
「だから、もう一度話せるようになったとき、凄く嬉しかったんです。中学に入ってから離ればなれになったけど、ようやく会う約束ができたんです。……それなのに。どうして私、約束を破っちゃったんだろう……」
森川が、見る間に冷静さを失っていく。記憶と現実とがごちゃ混ぜになって、状況を上手く認識できていないのだろうか。
「私酷いことしちゃった。どうしよう……」
酷い涙交じりの声。両手で顔を覆ってしまった森川をこれ以上見ているのが辛くて、反射的に抱き寄せた。
頭を抱え、背中に手を回したそのとき感じてしまう。森川の体、こんなに細くて小さいのかと。時間の流れが、二人の間でまったく違っていたこと。二人の間に生じた時間の溝が、埋めようもないほど大きいんだと愕然となる。
やっぱり戻れないんだ。あの頃には。
「あ、あの……三嶋さん?」
「いいか、森川。これから俺が言うことを、冷静になって聞くんだ」
「はい……」
「君は決して、彼との約束を破ったわけじゃない。行きたくても、行けなかっただけなんだ」
「行けなかった?」
「そう。あの日君は、十六時三十分発の路線バスに乗り、約束通り西公園を目指していた。ところがその途中で、バスが横転する大事故に巻き込まれてしまう」
あの日、西公園の近くで、酷い事故渋滞が起きていた。間に合わなくなるだろう、と親父の車の中で憤っていたのをよく覚えている。
「そして、君が待ち合わせをしていた男の子の名前は、三嶋蓮。……この僕だよ」
「……三嶋、君?」
敢えて昔のように『僕』と名乗ってみると、森川も初めて俺のことを、『三嶋さん』ではなく、『三嶋君』と呼んだ。
もう一度彼女をきつく抱きしめた。
「そうだよ。僕だよ、森川。ちゃんと来てくれて、ありがとう」
三嶋君、と言いながら、森川は俺の胸に顔を埋めて泣いた。堰を切ったように溢れ出した涙は、俺の胸元をしとどに濡らしていく。七年間、ずっと溜め続けていた寂しさや後悔を吐き出すように、彼女は嗚咽をあげて泣き続けた。
腕の中で泣いているのは、間違いなく俺が愛した森川菫で。
彼女の姿は十四歳当時のままで。
それなのに、いつの間にか俺だけが二十一歳にもなっていて。
確かに俺の腕の中に森川はいるのに。彼女の悲しみを、その魂を、どう扱って良いのかわからない。そんな自分のことが、堪らなく辛くて悲しい。
頬に冷たい雫が触れる。俺の流した涙だろうか、と顔を上げてみると、ぱらぱらと降り出した雨粒が見えた。今ごろになって的中してしまう天気予報のあまりの間の悪さに、ついつい笑ってしまう。
あの日と同じ、冷たい雨──。独りぼっちで傘を差し、森川の到着を待ちわびていた時の、寂しい記憶が脳裏を掠める。
……いや、違う。同じじゃない。
その時、頭上で花火が炸裂して大きな音が響いた。今日あがった花火の中でも特に大きなものだったのか、公園の周辺に居た人たちからわっと大きな歓声が上がった。その音で我に返り、森川と見つめ合った。
「花火。座って見ようか」
そう提案すると、指先で零れる涙を拭い、ぎこちない笑みを湛えて森川が頷いた。花火が炸裂する音が何度も響いて、色白の横顔を橙に染めた。腫れた瞼の赤さが、やたら鮮明に目に焼き付いた。
そうだよな。俺たちは花火を見に来たのだから、楽しまなきゃ損だ。彼女は確かにこの場所にいるんだし、あの日とは違うんだ。
俺はもう──独りぼっちなんかじゃない。
「桜の木の下には死体が埋まっている」
「え?」
園内にある桜の木を見つめ、森川が呟いた。形の良い唇から死体なんてらしくないワードが出てくるから、ギョっとして彼女の顔を見てしまう。
「知ってる? 梶井基次郎という人の書いた短編小説のことなんだけど」
「ああ、知ってる。でもなんで」
「なんとなく、私とおんなじだなあって思って。私の友達の女の子がね、すごい綺麗な子なの。だからさ、その子は私と違って、凄くモテるんだろうなあって、いつも嫉妬していたの。桜の木の下には死体が埋まっている、みたいな感じで、綺麗な見た目のその裏に、なにか粗があるんじゃないかって探してた」
誰のこととは言わなかったが、霧島の話なのは明白だった。なぜアイツと比べているのかわからんが、そうか、森川の奴、そんな風に思っていたのか。
でもね、と森川が空を見上げた。咲いた花火の光に照らされて、寂しげな表情が浮き彫りになる。
「完璧なんだ。七瀬ちゃん」
「ああ、完璧だな。学年一の美少女だしな。でも、どうかな。あれで案外、アイツも弱いところあるんだぜ」
「そうなの?」
「もちろん。欠点があるからこそ、人間なんだぜ」
「そっか。そうかもね」
そう言って、納得したような、ちょっと寂しげな顔を森川がした。
「来年はさ、一緒に桜見に来ようぜ」
叶うはずのない約束を提案すると、「うん、約束」と言って森川が小指を差し出した。
指きりを交わして、その指の細さに泣きそうになった。
歩きながら、どこから話したもんかと思案する。
七年前の八月五日。
あの日俺は、おかんに選んでもらった甚平を着て、西公園に向かっていた。
普段通りであれば、今日、利用した路線バスで向かうところだったが、親父の運転する車で公園近くまで送ってもらった。
天候が、あまりよくなかったからだ。
「気をつけてな」
「うん」
そんな言葉を親父と交わし合い、僅かばかりの小遣いが入った財布と傘を握りしめて車を降りた。
傘を叩く雨音を聞きながら、歩き始める。
花火が行われる河川敷を目指しているのだろう。あたりには、多くの人の姿が見えた。家族連れや、高校生くらいと思しきカップルが多く、自分と同じ中学生はあまり居なかったように思う。
止むことのない雨が肌寒い空気を運んできて、夏の終わりを感じさせる。
それでも、俺の心は弾んでいた。
久しぶりに会う森川は、どんなに可愛くなっているんだろう? 俺の前に現れた時、どんな表情を浮かべるのだろう?
頭の中はポジティブな思考で満たされていて、くすんで見える空の色も、冷たい雨も、これっぽっちも気にならなかった。
『待ち合わせは十八時。西公園の、案内板の前で』
森川と交わした約束が、俺の背中を強く押していた。
歩きながら、今日までの出来事を、順番に思い出していた。
校庭でスケッチブックを広げて座る俺の顔を、初めて森川が覗き込んできた昼休み。
小学校の卒業式が終わったあと、『また、連絡しても良いかな?』と、恥ずかしそうに告げた彼女の顔。ちょっとだけ震えた声。
中学に通い始めて一ヶ月が過ぎた頃。初めて自宅に彼女からかかってきた一本の電話。『蓮、なんか女の子から電話』とおかんが受話器を差し出してきた時の、あの高揚感。
今となっては何を話したのか全く思い出せないし、会話も上手く繋がらなかったように思うけれど、受話器を置いた後の多幸感だけはよく覚えている。
森川のことばかりを考えていた当時の記憶が、じんわりと、胸のあたりを暖かくさせていた。
「でも、約束の十八時を過ぎても、森川は現れなかった」
戸惑いの表情で俺の話に耳を傾けていた森川が、その時「あ」と声を上げて立ち止まる。
歩き続けているうちに、西公園にある案内板の前まで辿り着いていた。
「私──この案内板の前で待ち合わせをしてたんです。ああ……どうしよう。今って、何時ですか?」
少々うわずった声が響く。困惑が、次第に焦燥に変化していくみたいに、複雑な表情を浮かべて俺の顔を見上げた彼女。
「君は五日の夕方ころ、この案内板の前で、大切な人と待ち合わせをしていたんだよね?」
「はい、そうです。ずっと前から、行かなくちゃ、行かなくちゃって思ってたんですけど、どういう訳か足が動かなくって……。どうしよう……。きっと彼は、怒って帰っちゃったんですね」
弱ったようでもあり、辛そうでもあり、様々な感情がない交ぜになった、なんとも形容し難い複雑な顔を彼女はしていた。切れ長の瞳は次第に潤み、声も涙混じりに変化していく。
「……その人のこと、好きだった?」
訊いておいてなんだが、自分でも意地の悪い質問だなって思う。
「もちろんですよ! ずっと好きだったんです。最初に好きになったのは、いつだろう……。小学校の三年生くらいの時かなあ」
『ずっと好きだった』なんて、なんの躊躇いもなく告げてくる森川に、しみじみと、恋い慕う気持ちが呼び起される。
なんだか俺まで、十四歳だったあの日に戻った心地になってくる。三年生の頃から好きだった? 本当に? なんて、意地悪な問いかけをしたくなる。森川が温めていた気持ちが、むしろ俺より深かったという事実に、感慨もひとしおだ。
「だから、もう一度話せるようになったとき、凄く嬉しかったんです。中学に入ってから離ればなれになったけど、ようやく会う約束ができたんです。……それなのに。どうして私、約束を破っちゃったんだろう……」
森川が、見る間に冷静さを失っていく。記憶と現実とがごちゃ混ぜになって、状況を上手く認識できていないのだろうか。
「私酷いことしちゃった。どうしよう……」
酷い涙交じりの声。両手で顔を覆ってしまった森川をこれ以上見ているのが辛くて、反射的に抱き寄せた。
頭を抱え、背中に手を回したそのとき感じてしまう。森川の体、こんなに細くて小さいのかと。時間の流れが、二人の間でまったく違っていたこと。二人の間に生じた時間の溝が、埋めようもないほど大きいんだと愕然となる。
やっぱり戻れないんだ。あの頃には。
「あ、あの……三嶋さん?」
「いいか、森川。これから俺が言うことを、冷静になって聞くんだ」
「はい……」
「君は決して、彼との約束を破ったわけじゃない。行きたくても、行けなかっただけなんだ」
「行けなかった?」
「そう。あの日君は、十六時三十分発の路線バスに乗り、約束通り西公園を目指していた。ところがその途中で、バスが横転する大事故に巻き込まれてしまう」
あの日、西公園の近くで、酷い事故渋滞が起きていた。間に合わなくなるだろう、と親父の車の中で憤っていたのをよく覚えている。
「そして、君が待ち合わせをしていた男の子の名前は、三嶋蓮。……この僕だよ」
「……三嶋、君?」
敢えて昔のように『僕』と名乗ってみると、森川も初めて俺のことを、『三嶋さん』ではなく、『三嶋君』と呼んだ。
もう一度彼女をきつく抱きしめた。
「そうだよ。僕だよ、森川。ちゃんと来てくれて、ありがとう」
三嶋君、と言いながら、森川は俺の胸に顔を埋めて泣いた。堰を切ったように溢れ出した涙は、俺の胸元をしとどに濡らしていく。七年間、ずっと溜め続けていた寂しさや後悔を吐き出すように、彼女は嗚咽をあげて泣き続けた。
腕の中で泣いているのは、間違いなく俺が愛した森川菫で。
彼女の姿は十四歳当時のままで。
それなのに、いつの間にか俺だけが二十一歳にもなっていて。
確かに俺の腕の中に森川はいるのに。彼女の悲しみを、その魂を、どう扱って良いのかわからない。そんな自分のことが、堪らなく辛くて悲しい。
頬に冷たい雫が触れる。俺の流した涙だろうか、と顔を上げてみると、ぱらぱらと降り出した雨粒が見えた。今ごろになって的中してしまう天気予報のあまりの間の悪さに、ついつい笑ってしまう。
あの日と同じ、冷たい雨──。独りぼっちで傘を差し、森川の到着を待ちわびていた時の、寂しい記憶が脳裏を掠める。
……いや、違う。同じじゃない。
その時、頭上で花火が炸裂して大きな音が響いた。今日あがった花火の中でも特に大きなものだったのか、公園の周辺に居た人たちからわっと大きな歓声が上がった。その音で我に返り、森川と見つめ合った。
「花火。座って見ようか」
そう提案すると、指先で零れる涙を拭い、ぎこちない笑みを湛えて森川が頷いた。花火が炸裂する音が何度も響いて、色白の横顔を橙に染めた。腫れた瞼の赤さが、やたら鮮明に目に焼き付いた。
そうだよな。俺たちは花火を見に来たのだから、楽しまなきゃ損だ。彼女は確かにこの場所にいるんだし、あの日とは違うんだ。
俺はもう──独りぼっちなんかじゃない。
「桜の木の下には死体が埋まっている」
「え?」
園内にある桜の木を見つめ、森川が呟いた。形の良い唇から死体なんてらしくないワードが出てくるから、ギョっとして彼女の顔を見てしまう。
「知ってる? 梶井基次郎という人の書いた短編小説のことなんだけど」
「ああ、知ってる。でもなんで」
「なんとなく、私とおんなじだなあって思って。私の友達の女の子がね、すごい綺麗な子なの。だからさ、その子は私と違って、凄くモテるんだろうなあって、いつも嫉妬していたの。桜の木の下には死体が埋まっている、みたいな感じで、綺麗な見た目のその裏に、なにか粗があるんじゃないかって探してた」
誰のこととは言わなかったが、霧島の話なのは明白だった。なぜアイツと比べているのかわからんが、そうか、森川の奴、そんな風に思っていたのか。
でもね、と森川が空を見上げた。咲いた花火の光に照らされて、寂しげな表情が浮き彫りになる。
「完璧なんだ。七瀬ちゃん」
「ああ、完璧だな。学年一の美少女だしな。でも、どうかな。あれで案外、アイツも弱いところあるんだぜ」
「そうなの?」
「もちろん。欠点があるからこそ、人間なんだぜ」
「そっか。そうかもね」
そう言って、納得したような、ちょっと寂しげな顔を森川がした。
「来年はさ、一緒に桜見に来ようぜ」
叶うはずのない約束を提案すると、「うん、約束」と言って森川が小指を差し出した。
指きりを交わして、その指の細さに泣きそうになった。
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