『無能な妻の最後のご奉仕 —空になった貯金箱と、夫の余命—』

『無能な妻の最後のご奉仕

—空になった貯金箱と、夫の余命—』

三十年分の朝が
台所の隅に沈んでいる

湯気は立っていた
けれど
言葉は立たなかった

「まずい」
その一言で
今日も一日が決まる

皿の音だけが
生きている証みたいに響く

封筒は軽くなっていく

食費
光熱費
老後

名前のついた未来が
少しずつ消えていく

「俺の金だろ」

その言葉だけが
重く残り続ける

それでも
願いは捨てきれなかった

弱れば
優しくなるかもしれないと

人は
希望の形をした鎖を
なかなか外せない

痛みが
彼を床に落とした日

初めて
“終わり”が
形を持った

白い部屋で
数字だけが告げられる

助かるかもしれない命と
足りないお金

どちらも
同じくらい遠かった

通帳は
静かだった

そこには
何も残っていなかった

使われた時間と同じだけ
使われたお金

誰も止めなかった
三十年分

「金を用意しろ」

その声が
最後の命令だった

そして同時に
最後の糸が切れる音でもあった

ノートを開く

最初のページには
確かに愛があった

最後のページには
もう言葉がなかった

ただ
一つだけ残っている

「無能」

「そうですね」

初めて
返事をする

「私は無能です」

その言葉は
刃ではなく
閉じていた扉を開ける鍵だった

温められた弁当

湯気はある
けれど
心はもう冷えている

「これか?」

「ええ」

それだけで
すべてが終わっていた

「助けてくれ」

その言葉は
どこにも届かない

三十年かけて
届かなくなってしまった声

「ごめんなさい」

静かな声で言う

「お金、ないんです」

それは
初めて濁りのない言葉だった

窓を開ける

風が入る

誰も怒鳴らない朝は
こんなにも軽い

朝食は質素で
それでも
温かい

愛したかった

けれど

最後に残ったのは

自分を
手放さなかったという事実だけ

空になった貯金箱は
もう鳴らない

代わりに

胸の奥で
小さな音がする

それは

静かで確かな

はじまりの音だった


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3
小説 489 位 / 220,968件 現代文学 15 位 / 9,316件

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