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第一章

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 外は、月明かりだけが照らす闇に支配されていた。

 大広間の騒がしさなど全く届くことなく、静寂が続く。時折聞こえる鳥の声が、わずかに世界の動きを知らせていた。

 イルティアは澄んだ空気を大きく肺に取り込む。

 詰まりそうなほどの息苦しさが、わずかに緩和された気がした。

「……」

 数歩進んで、手摺に手をかける。眼下に広がる木々が、風に揺れてさざめき立った。

 ランダー家は、代々優秀な宮廷医を輩出してきた。これからは、それに加え、大公爵家に娘を嫁がせる話も出ている。そうなれば行く行くは、宰相の座も難しくない。

 だから、通常なら夜会を開かないような寒季の時期に、こうして人を集めたのだ。少しでも繋がりを多くするために。

 おかげで、その寒さ故にバルコニーには人が来る様子は見られなかった。イルティアは、静かに息を吐く。人がいれば、それだけ強く思わされるから。

 自分が、彼の飾りでしかないのを。

 どれだけ言葉で否定しようとも、こうして人前に出れば思い知らされるのだ。

 彼の隣に並ぶ存在ではない。ただ付き従うだけの存在なのだ、と。

 再び息を吐くと、背後で物音がした。

 ザフラが迎えに来たのだろう。振り返ったイルティアは、動きを止める。そして、驚いたように口を開いた。

「リュクス……?」
「ここからの景色も、悪くはありませんね」
「どうしてここに?」

 彼は商人。このような場にいるのは、そぐわない。困惑するイルティアの疑問を受けながら、彼は足を進める。彼女の隣に並ぶと、ようやく口を開いた。

「今日はフォルミス家の代表として参りました」

 その言葉に、改めて彼の姿を見直す。

 いつも流しているコーラルの髪は今、片側で編み込みを入れた一つ結び。服装は、夜会に合わせた燕尾服。これでは、先程の人込みから彼を見つけられなかったのも頷ける。

 イルティアは、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「御実家は爵位のあるお家なのね。ごめんなさい、知らなかったわ」
「仕方ありませんよ。大した位でもありませんし、私自身、商いの方が性に合っているので、社交界では顔も名も知られておりません」
「そう。でも、今回はどうして?」

 その疑問に、リュクスがイルティアの手を取る。彼女は首を傾げた。それを見ながら、彼は、瞳を細める。

「貴女に会いたくて、と言ったら、どうしますか?」
「…………」

 一瞬感じた雰囲気に息を呑む。けどすぐに、イルティアは微笑み、手を離した。

「そうね。新たな宝飾品を買わなきゃいけなくなるわね」
「では私は、貴女の為に特別な品を拵えましょう」
「ふふ、あまり御高いのは遠慮したいわね」

 クスクスと笑ったものの、すぐにまた静寂が訪れる。戸惑いがちに、イルティアはリュクスを見上げた。

「リュクス?」
「……今は……」

 何かを含んで彼が微笑む。だが、呟く言葉は風の音に遮られ、彼女へは届かなかった。

「ごめんなさい、今何か」

 リュクスは緩やかに首を振る。

「いえ。気に留めることではありませんよ」
「そう……」

 わずかに視線を落としたイルティアが再び顔を上げる。

「そういえば、リュクスもこの場にいるのよね」
「はい?」

 言葉の意味を測りかねる彼が、頭を傾ける。彼女は、先程までの空気を変えるようにと、続けた。

「前から思ってたの。私は貴方の助言者。なら、客のように振る舞うのはおかしいんじゃないかしらって。それにもう、同じ夜会に参加する仲だもの。もっと繋がりを深くしても良いんじゃないかしら?」
「と、言いますと?」
「そうね。まずはその話し方をやめるとか」
「話し方……」
「あとは……そう、呼び方ね」
「では、何とお呼びすれば」

 返された言葉に、イルティアが小さく頬を膨らませる。

「話し方が変わってないわ」
「……何と呼べば」
「呼び方は……そうね。リュクスは、どう呼びたい? 普通に名前だけでも良いのよ? あ、私はリューで良いかしら?」
「あまり呼ばれたことはありませんが、構いませんよ」
「リュー」
「あ、いや……それで構わない」

 その話し方に、イルティアが満足げに二度三度頷く。直後、期待を込めた瞳を向けた。

「それで?」

 その目に、リュクスがたじろぐ。それでもなんとか、言葉をひねり出す。

「では…………」

 さらに間を置いて、小さく答えた。

「…………ティア、と」
「!」

 直後、イルティアの動きが止まる。不安げに、リュクスが顔を覗き込んだ。

「やはり、図々しいかったでしょうか?」

 ハッと意識を取り戻したイルティアが、すぐに首を横へ振る。

「違うの。それで、構わないの。ティアと……呼んで?」
「?」

 言いながら、視線を逸らすイルティアに、リュクスが疑問符を浮かべる。彼女は、心の内で微かに戸惑っていた。

 その愛称は、自らがザフラの為に決めていたもの。嫁ぐ前から、友人にすら、その名で呼ばせなかった。彼の為に、彼と過ごす日々をより鮮やかにするために、用意していたのだ。

 だが、いざ婚儀を果たした夜。彼にお願いしたものの、結果は受け入れてもらえなかった。

 恥ずかしいから、と彼は言っていたが、ずっと彼に呼ばれることを願ってた彼女にとって、その悲しみは深かった。

 その時からほぼ忘れていたようなことを、こんな形で思い出すとは夢にも思わなかった。

 けれどもう、そんなことは意味を成さない。誰にその名を呼ばれようと、もういい。彼女はそう、思い直した。

 再び、リュクスを見上げる。

「じゃあ、リュー。これからもよろしくね」
「ええ、ティア。よろしくお願い」

 ゴホンッと咳払いされて、リュクスが言い直す。

「ティア、これからもよろしく」
「上出来よ」

 ふふ、と笑うイルティアにつられ、リュクスも笑う。しばらくして、彼が思い出したように口を開いた。

「そういえば、先日君が選んでくれたデザインが、王室の貴人の目に留まってね。すぐに注文を受けることが決まったんだ」
「まあ、素晴らしいことね」
「やはり君の着眼点は良い。今までのやり方では、こうはいかなかった。また近いうちに邸に来てくれないか? いくつか、見て欲しいものがあるんだ」
「そうね。予定を調整して遣いを……」

 言葉が止まったのは、扉を開ける音に気付いたから。振り返れば、思った通り、ザフラが迎えに来ていた。

 彼は、イルティアの顔を見て、柔らかく微笑む。

「イルティア、待たせたね。話は終わったから、行こうか」

 声をかけてから、リュクスの存在に気づく。

「おや、貴方は……」

 一拍置いて、身を正したリュクスが商人の顔になる。

「パシオンストーンのオーナーをさせていただいてるリュクス・フォルミスと申します。旦那様とは、お初にお目にかかりますね」
「ああ、話は聞いてるよ。宝飾品の新たな取引先だろう?」
「ええ、奥様には御贔屓にしていただいております」
「それでフォルミス家の御子息であると」
「良く御存知で」
「君ほどの情報網はないけどね。だが、パシオンストーンはこれから更に飛躍すると聞いてるよ」
「恐縮にございます」

 頭を下げたリュクスに一度笑いかけたザフラが、イルティアの側に寄る。彼女の手を取って、声をかけた。

「フォルミス卿、妻が世話になった。これからも宜しく頼むよ。では、失礼」
「はい。ではまた」
「リュクス様、失礼致します」
「ええ。イルティア様もまたいずれ」

 頭下げて、イルティアはザフラに連れられバルコニーを後にする。リュクスは二人を見送った後、そっと眼下の木々に目を向けた。
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