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第四章
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昼間だというのに、きらびやかな装飾には輝く光が反射している。部屋の中央で煌めくのは、ガラスの粒がいくつも連なる大きなシャンデリア。壁に飾られているタペストリーや絵画も、地位を示すような、獅子に寄り添う鷲と、盾が描かれていた。
この日、ザフラはイルティアを伴い、シュヴァーユ家先代のカントリー・ハウスで開かれた集まりに訪れていた。
彼の一族は、優れた経営者を多く出している。現当主のザフラを筆頭に、領地、医療施設、商業施設、それらに名を連ねていた。
だがそれ故に、一族間では男性優位といっても過言ではない状況だった。
事業運営に女が口出しすることなど、許されない。結婚前から知っていたことだが、イルティアはそれでも彼の助けになりたいと手伝っていた。
それを知っているのは義母だけだったが、だからこそ彼女は、この集まりに来るたび、義母に呼び出されていたのだ。
大ホールとは別の部屋。大きな窓の前で佇む、淡い紫のドレスに身を包む義母。彼女を前に、イルティアは自身の水色のドレスの裾を摘み、深く頭を下げる。拍子に、髪が肩口にサラリと落ちていった。
「お呼びでしょうか、御義母様」
「……貴女は相変わらずね」
「…………」
開口一番、返された言葉に沈黙する。その彼女に、義母は続けた。
「聞きました。貴女はまだ、あの子のやることに手を出してるのね」
通常なら、イルティアが行っている当主の補佐は、専門官に頼るべきこと。初めこそ許してはいたものの、今もまだ関わっていることに、義母は呆れを含んで溜め息した。
それを聞きながら、イルティアは言葉を返す。
「お言葉ですが、御義母様。邸内を守ることも、当主を支えることも、妻の役目と存じます」
「貴女はまた……子も成さずに、妻などと良く言えたものね。貴女は、大人しくあの子の言うことに従っていればいいのよ」
「…………」
こんなやり取りは、何度もしてきた。だが、いつも平行線を辿る。やがて何も言わなくなるイルティアに、思うだけ不満を口にしたあと、義母は彼女を解放するのだ。
一人歩く、長い廊下。イルティアは、ふと足を止め、窓の外を眺める。
空は澄んだ水色で、どこまでも晴れやかに続いていた。けれど、彼女の心は霞がかっていた。全てを覆い隠すような、薄い煙。
「…………」
義母の言うことも、間違ってはいない。自分が彼を手伝いたいというのは、ただの我が儘。本当なら他の妻らと同じように、呼ばれた茶会に参加し、夜会に出て、主人を引き立てる。それだけでいい。
だけど……。
わずかに視線を下げた先、リュクスに贈られたカメオの指輪が目に入る。
彼女はそっと、その指輪を包み込むように、握り締めた。
自分はもう、動くことの楽しさを知ってしまった。いろいろな世界を見てしまった。そして……頼り、頼られることを嬉しいと思ったのだ。
戻りたくない、色のない日々になど。
きっと、この先も、たくさんの色がある。そんな期待が胸に広がる。
そうして、無意識に求めた先に誰がいたのか。彼女にはまだ、知る由もなかった。
* * *
「まずは、道具に慣れることからだな」
そう言った彼は、工具をいくつか手に取った。
ここは、リュクスの作業場の側にある工房。中には、様々な彫金工具が並んでいた。
その一角の比較的、片付けられている机に乗る彫刻台を前にして、イルティアが落ち着かない様子で、キョロキョロと周りを見ていた。
その姿に彼は、苦笑する。
「そんなに珍しいか?」
声に、煌めく瞳を返す。
「ええ、すごく。こんな機会、今までなかったから……あ、でも、はしたないわね。ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃない。それより、興味を持ってくれた方が俺も嬉しいよ。これから使うことになる道具だからな、早く慣れるだろう」
言いながら、持っていた工具を机の上に置いた。イルティアが、わずかに転がるそれを目で追う。
「これは?」
「タガネという道具だ。主に金属を彫るために使う。さすがに、いきなり石を彫るわけにはいかないからな。今日は、練習がてら銀を彫ろうと思ってるんだ」
「そうなのね。緊張してきたわ」
「だが、前にも少し、やったことがあったのだろう?」
リュクスの疑問に、彼女は苦笑を返す。
「あの時は、台座も街から買ったものだし、宝石も専門の店からじゃなかったの。だから、大して手を加えたとは言えないのよね」
「そうか。なら、今日はしっかりやっておくべきだな」
イルティアの隣に腰掛けた彼は、彫刻台を引き寄せながら「そういえば」と、問いかける。
「さっき、断って良かったのか?」
「彼等のこと? ええ、仕方ないもの」
この工房に入る時、当然のように従者の二人も入ってこようとした。
それを彼女は止めたのだ。
これより先は、入らなくていい、と。
彼等は困惑したが、ひとまず扉の前で待機することになった。
その時のことを思い出して、リュクスは笑う。
「だが、主人からは大目玉を食らうな」
「でも、工房は職人にとって大切な場所なのでしょう? そう聞いたもの」
「……そうだな。助かるよ」
その気遣いが嬉しくて、リュクスは柔らかい声を返した。小さめの銀板を彫刻台に挟み込み固定した彼は、イルティアの前に差し出す。
「では、早速だが始めよう。彫るための模様は、すでに書いておいた」
示された部分には、黒い線がある。それを目で追ったあと、イルティアが小さく頭を下げた。
「じゃあ、改めて、よろしくお願いします」
その様子にリュクスが軽く笑う。
「本当に改めてだな」
彼はとりあえず、とタガメを手渡し、鎚に手を伸ばした。
「タガメは鎚と一緒に使う。だが、座ったままではやりづらいだろう。一度立ってくれるか?」
自分が先に立ち上がり、手を差し伸べる。彼女も素直に従った。そして、順に渡された二つを握り、意気込む。
「本格的に職人になった気分だわ」
「まだまだ、ひよっこだけどな。ほら、使い方は……って、勝手に」
「あ、ごめんなさい。気持ちが先になっちゃって……でも間違ってないでしょ?」
タガメに鎚を添える。確かに間違ってはいない。得意げな彼女に、「まあな」と彼は答えた。
「それも調べたのか?」
「ううん。前にどこかの工房で見たことがあったの。ずいぶん昔だったから忘れてたけど、工具を持ったら思い出したわ」
言いながら、彼女は手を動かす。けど、いざやってみると上手くいかない。しばらくして、降参するように、声を上げた。
「リュー、手元がぶれるわ」
「力の入れ方が違うんだ」
後ろから、包むように腕を伸ばして、彼女の手を支える。いつもより近い距離にも、目の前のことに夢中のイルティアは気づかない。
ただ、無邪気に出来たことを喜ぶ。
「リュー、見て! 少しだけ彫れたの!」
振り返る彼女の笑顔に、リュクスも柔らかく笑った。
「そうだな。コツを掴めば、一人でも出来るようになるよ」
「ええ、任せて!」
再び顔を戻した彼女は今、自分の腕の中にいる。溢れる愛おしさから、彼はそっと身を寄せた。
それでも気付くことのない彼女に、わずかばかり心配する。
純粋過ぎるが故の危うさ。
リュクスは、いまだ彫ることに夢中の彼女を、瞳を細めて見つめた。
この日、ザフラはイルティアを伴い、シュヴァーユ家先代のカントリー・ハウスで開かれた集まりに訪れていた。
彼の一族は、優れた経営者を多く出している。現当主のザフラを筆頭に、領地、医療施設、商業施設、それらに名を連ねていた。
だがそれ故に、一族間では男性優位といっても過言ではない状況だった。
事業運営に女が口出しすることなど、許されない。結婚前から知っていたことだが、イルティアはそれでも彼の助けになりたいと手伝っていた。
それを知っているのは義母だけだったが、だからこそ彼女は、この集まりに来るたび、義母に呼び出されていたのだ。
大ホールとは別の部屋。大きな窓の前で佇む、淡い紫のドレスに身を包む義母。彼女を前に、イルティアは自身の水色のドレスの裾を摘み、深く頭を下げる。拍子に、髪が肩口にサラリと落ちていった。
「お呼びでしょうか、御義母様」
「……貴女は相変わらずね」
「…………」
開口一番、返された言葉に沈黙する。その彼女に、義母は続けた。
「聞きました。貴女はまだ、あの子のやることに手を出してるのね」
通常なら、イルティアが行っている当主の補佐は、専門官に頼るべきこと。初めこそ許してはいたものの、今もまだ関わっていることに、義母は呆れを含んで溜め息した。
それを聞きながら、イルティアは言葉を返す。
「お言葉ですが、御義母様。邸内を守ることも、当主を支えることも、妻の役目と存じます」
「貴女はまた……子も成さずに、妻などと良く言えたものね。貴女は、大人しくあの子の言うことに従っていればいいのよ」
「…………」
こんなやり取りは、何度もしてきた。だが、いつも平行線を辿る。やがて何も言わなくなるイルティアに、思うだけ不満を口にしたあと、義母は彼女を解放するのだ。
一人歩く、長い廊下。イルティアは、ふと足を止め、窓の外を眺める。
空は澄んだ水色で、どこまでも晴れやかに続いていた。けれど、彼女の心は霞がかっていた。全てを覆い隠すような、薄い煙。
「…………」
義母の言うことも、間違ってはいない。自分が彼を手伝いたいというのは、ただの我が儘。本当なら他の妻らと同じように、呼ばれた茶会に参加し、夜会に出て、主人を引き立てる。それだけでいい。
だけど……。
わずかに視線を下げた先、リュクスに贈られたカメオの指輪が目に入る。
彼女はそっと、その指輪を包み込むように、握り締めた。
自分はもう、動くことの楽しさを知ってしまった。いろいろな世界を見てしまった。そして……頼り、頼られることを嬉しいと思ったのだ。
戻りたくない、色のない日々になど。
きっと、この先も、たくさんの色がある。そんな期待が胸に広がる。
そうして、無意識に求めた先に誰がいたのか。彼女にはまだ、知る由もなかった。
* * *
「まずは、道具に慣れることからだな」
そう言った彼は、工具をいくつか手に取った。
ここは、リュクスの作業場の側にある工房。中には、様々な彫金工具が並んでいた。
その一角の比較的、片付けられている机に乗る彫刻台を前にして、イルティアが落ち着かない様子で、キョロキョロと周りを見ていた。
その姿に彼は、苦笑する。
「そんなに珍しいか?」
声に、煌めく瞳を返す。
「ええ、すごく。こんな機会、今までなかったから……あ、でも、はしたないわね。ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃない。それより、興味を持ってくれた方が俺も嬉しいよ。これから使うことになる道具だからな、早く慣れるだろう」
言いながら、持っていた工具を机の上に置いた。イルティアが、わずかに転がるそれを目で追う。
「これは?」
「タガネという道具だ。主に金属を彫るために使う。さすがに、いきなり石を彫るわけにはいかないからな。今日は、練習がてら銀を彫ろうと思ってるんだ」
「そうなのね。緊張してきたわ」
「だが、前にも少し、やったことがあったのだろう?」
リュクスの疑問に、彼女は苦笑を返す。
「あの時は、台座も街から買ったものだし、宝石も専門の店からじゃなかったの。だから、大して手を加えたとは言えないのよね」
「そうか。なら、今日はしっかりやっておくべきだな」
イルティアの隣に腰掛けた彼は、彫刻台を引き寄せながら「そういえば」と、問いかける。
「さっき、断って良かったのか?」
「彼等のこと? ええ、仕方ないもの」
この工房に入る時、当然のように従者の二人も入ってこようとした。
それを彼女は止めたのだ。
これより先は、入らなくていい、と。
彼等は困惑したが、ひとまず扉の前で待機することになった。
その時のことを思い出して、リュクスは笑う。
「だが、主人からは大目玉を食らうな」
「でも、工房は職人にとって大切な場所なのでしょう? そう聞いたもの」
「……そうだな。助かるよ」
その気遣いが嬉しくて、リュクスは柔らかい声を返した。小さめの銀板を彫刻台に挟み込み固定した彼は、イルティアの前に差し出す。
「では、早速だが始めよう。彫るための模様は、すでに書いておいた」
示された部分には、黒い線がある。それを目で追ったあと、イルティアが小さく頭を下げた。
「じゃあ、改めて、よろしくお願いします」
その様子にリュクスが軽く笑う。
「本当に改めてだな」
彼はとりあえず、とタガメを手渡し、鎚に手を伸ばした。
「タガメは鎚と一緒に使う。だが、座ったままではやりづらいだろう。一度立ってくれるか?」
自分が先に立ち上がり、手を差し伸べる。彼女も素直に従った。そして、順に渡された二つを握り、意気込む。
「本格的に職人になった気分だわ」
「まだまだ、ひよっこだけどな。ほら、使い方は……って、勝手に」
「あ、ごめんなさい。気持ちが先になっちゃって……でも間違ってないでしょ?」
タガメに鎚を添える。確かに間違ってはいない。得意げな彼女に、「まあな」と彼は答えた。
「それも調べたのか?」
「ううん。前にどこかの工房で見たことがあったの。ずいぶん昔だったから忘れてたけど、工具を持ったら思い出したわ」
言いながら、彼女は手を動かす。けど、いざやってみると上手くいかない。しばらくして、降参するように、声を上げた。
「リュー、手元がぶれるわ」
「力の入れ方が違うんだ」
後ろから、包むように腕を伸ばして、彼女の手を支える。いつもより近い距離にも、目の前のことに夢中のイルティアは気づかない。
ただ、無邪気に出来たことを喜ぶ。
「リュー、見て! 少しだけ彫れたの!」
振り返る彼女の笑顔に、リュクスも柔らかく笑った。
「そうだな。コツを掴めば、一人でも出来るようになるよ」
「ええ、任せて!」
再び顔を戻した彼女は今、自分の腕の中にいる。溢れる愛おしさから、彼はそっと身を寄せた。
それでも気付くことのない彼女に、わずかばかり心配する。
純粋過ぎるが故の危うさ。
リュクスは、いまだ彫ることに夢中の彼女を、瞳を細めて見つめた。
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