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第五章
☆2
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闇夜が深まる街。そこには、新たな世界が顔を出し始める。家々の明かりが消えていく代わりに、輝き始めるのは、街一番と噂される娼館──マダム・リエンラ。
街灯が点々とする先、大通りの角に堂々と館は構えられていた。暗い海を照らす灯台のごとく、開いた扉からは、眩しいほどの光が溢れていく。そして、同時に出てくるきらびやかな女性たちが、次々と到着する馬車を迎えるのだ。
その館に向かっていたザフラは、被っているソフトハットをさらに目深に被り、窓の外へと視線を向ける。
流れる景色の中に、時折、自分の顔が掠める。その瞳は、海の澱みのように暗く揺らめいていた。
「…………」
豊かな街メビアン。自領の街は、そんな風に周りから評判だった。代々、新たな方策を取り入れ続け、一族間での流れも良くした。
おかげで、医療、商品、それらは潤沢に回るようになったのだ。メビアンに行けば、手に入らないものなどない──そう、言われるほど。
だが最近、そうした流通事情に問題が生じ始めていた。その原因を、何者かの操作によるものだと特定した彼は、その情報を得るため娼館を目指していたのだ。
彼女たちは、裏の事情に詳しい。その手の話を聞くには打ってつけだ。だが同時に、自らが赴くということに、どんな意味を持つのか……それを理解した上でザフラは、再度、外に鋭い視線を向けた。
* * *
「ようこそ、マダム・リエンラへ。今宵の夢は、誰と見られますか?」
ホールに導かれ、彼は問われたことに静かに答える。
「リエンラはいるかな」
一瞬、その女性の顔色が変わる。けれどすぐ、にこやかな笑みを浮かべた。
「呼んで参ります。少し、お待ちくださいませ」
サッと引いてく彼女の背を見つめる。ほどなくして、ホール中の目を引くような女性が現れた。
淡い水色の髪を纏めて、髪留めに大きな白い花の飾り。整った顔立ちには、ほのかな頬の桃色と、艶やかな紅い唇が印象的だった。
彼女が歩けば、金のピアスが揺れる。首もとにある黒いチョーカーには、真珠と宝石が散りばめられていた。
そしてなにより、その豊満な胸を見せつけるように、広く胸元の開いた紺のドレス。ザフラの前まで来ると、彼女はその藍色の瞳を細め、裾を掴み頭を下げる。
「ご指名いただき光栄ですわ。今夜は、わたくしが格別のおもてなしをさせていただきますね」
微笑みすらも、妖艶さを醸し出している。ザフラは、柔らかく笑みを返した。
「ああ、よろしく」
短い返事に、リエンラが奥へと案内していく。精巧な石膏像が並ぶ廊下。ホールの賑やかさが、わずかに遠ざかる。
二人は、館の中で最も豪華な部屋へと入っていった。
扉を抜けた瞬間、イランイランの香りがふわりと漂う。
リエンラが、ザフラへ向けて柔らかく微笑んだ。
「先に湯を、お浴びくださいませ」
そう言った彼女が、ジャケットへ手を伸ばす。彼は、その行動に黙ったまま従っていた。
そうして、手を引かれ連れられた浴室で、滴のような湯を浴びる中、彼はさりげなく問いかける。
「最近、街に出てる品が少ないと感じることがあるんだ。君たちは不便をしてないかい?」
丁寧にその体へ泡を滑らし、彼女は答えた。
「いいえ。わたくし達は特に、そう思ったことはありませんわ」
「そうか……」
だが少しして、彼女が「そういえば」と口を開く。
「先日、館の女の子達が、お客様へ贈る品を作るためにバターを買いに出ましたの。でも、ワイドリア伯爵の遣いに買い占められてしまったと、言っておりましたわ」
「それは大変だったね。バターがなければ、菓子類がほとんど作れなくなってしまう」
「ええ」
言いながらも、ザフラは考えていた。バターは、一時調整した品の一つ。領民からの嘆願書にもあった品だ。
それにワイドリア伯爵の名も、どこかで見たことがある。思案する彼を、黙って見ていたリエンラが、しばらくして再度口を開いた。
「それと……」
「ん?」
疑問符を浮かべる彼に、彼女は、わずかに躊躇う。けどすぐに続けた。
「ワイドリア伯爵の御子息様が…近い内に金が入るから、と仰っていたそうですわ」
その言葉に、一瞬動きを止めた彼が、ゆっくりと薄い笑みを作る。
「どこで、とは聞かない方がよさそうだね」
「ふふっ、ご理解いただけて嬉しいですわ」
「こちらこそ有難う。助かったよ」
入浴後、ガウン姿の彼がベッドに腰掛ける。サイドテーブルのランプだけが、二人を照らす。その中で、リエンラがザフラの首に、腕を絡み付けた。
耳元で、囁くように訊く。
「……本当によろしいの?」
「どういう意味かな」
彼女がクスリと笑いを溢す。
「以前は話だけで、服を脱ぐことすらしなかったものだから」
「…………」
しばらく沈黙した彼だったが、やがてフッと口角を上げる。そして、ゆっくりとリエンラを押し倒し、その栗色の瞳を細めた。
「ここは、一夜の夢を見せてくれる場所だろう? なら、客の感情は量らない方がいいんじゃないかな?」
彼女は瞳を瞬かせ、間を置いて、柔らかく微笑んだ。
「わたくしとしたことが、失礼致しましたわ」
「……分かればいいよ」
短く言って、その肌に顔を寄せる。ザフラは、その日初めて、妻以外の女性を求めた。
街灯が点々とする先、大通りの角に堂々と館は構えられていた。暗い海を照らす灯台のごとく、開いた扉からは、眩しいほどの光が溢れていく。そして、同時に出てくるきらびやかな女性たちが、次々と到着する馬車を迎えるのだ。
その館に向かっていたザフラは、被っているソフトハットをさらに目深に被り、窓の外へと視線を向ける。
流れる景色の中に、時折、自分の顔が掠める。その瞳は、海の澱みのように暗く揺らめいていた。
「…………」
豊かな街メビアン。自領の街は、そんな風に周りから評判だった。代々、新たな方策を取り入れ続け、一族間での流れも良くした。
おかげで、医療、商品、それらは潤沢に回るようになったのだ。メビアンに行けば、手に入らないものなどない──そう、言われるほど。
だが最近、そうした流通事情に問題が生じ始めていた。その原因を、何者かの操作によるものだと特定した彼は、その情報を得るため娼館を目指していたのだ。
彼女たちは、裏の事情に詳しい。その手の話を聞くには打ってつけだ。だが同時に、自らが赴くということに、どんな意味を持つのか……それを理解した上でザフラは、再度、外に鋭い視線を向けた。
* * *
「ようこそ、マダム・リエンラへ。今宵の夢は、誰と見られますか?」
ホールに導かれ、彼は問われたことに静かに答える。
「リエンラはいるかな」
一瞬、その女性の顔色が変わる。けれどすぐ、にこやかな笑みを浮かべた。
「呼んで参ります。少し、お待ちくださいませ」
サッと引いてく彼女の背を見つめる。ほどなくして、ホール中の目を引くような女性が現れた。
淡い水色の髪を纏めて、髪留めに大きな白い花の飾り。整った顔立ちには、ほのかな頬の桃色と、艶やかな紅い唇が印象的だった。
彼女が歩けば、金のピアスが揺れる。首もとにある黒いチョーカーには、真珠と宝石が散りばめられていた。
そしてなにより、その豊満な胸を見せつけるように、広く胸元の開いた紺のドレス。ザフラの前まで来ると、彼女はその藍色の瞳を細め、裾を掴み頭を下げる。
「ご指名いただき光栄ですわ。今夜は、わたくしが格別のおもてなしをさせていただきますね」
微笑みすらも、妖艶さを醸し出している。ザフラは、柔らかく笑みを返した。
「ああ、よろしく」
短い返事に、リエンラが奥へと案内していく。精巧な石膏像が並ぶ廊下。ホールの賑やかさが、わずかに遠ざかる。
二人は、館の中で最も豪華な部屋へと入っていった。
扉を抜けた瞬間、イランイランの香りがふわりと漂う。
リエンラが、ザフラへ向けて柔らかく微笑んだ。
「先に湯を、お浴びくださいませ」
そう言った彼女が、ジャケットへ手を伸ばす。彼は、その行動に黙ったまま従っていた。
そうして、手を引かれ連れられた浴室で、滴のような湯を浴びる中、彼はさりげなく問いかける。
「最近、街に出てる品が少ないと感じることがあるんだ。君たちは不便をしてないかい?」
丁寧にその体へ泡を滑らし、彼女は答えた。
「いいえ。わたくし達は特に、そう思ったことはありませんわ」
「そうか……」
だが少しして、彼女が「そういえば」と口を開く。
「先日、館の女の子達が、お客様へ贈る品を作るためにバターを買いに出ましたの。でも、ワイドリア伯爵の遣いに買い占められてしまったと、言っておりましたわ」
「それは大変だったね。バターがなければ、菓子類がほとんど作れなくなってしまう」
「ええ」
言いながらも、ザフラは考えていた。バターは、一時調整した品の一つ。領民からの嘆願書にもあった品だ。
それにワイドリア伯爵の名も、どこかで見たことがある。思案する彼を、黙って見ていたリエンラが、しばらくして再度口を開いた。
「それと……」
「ん?」
疑問符を浮かべる彼に、彼女は、わずかに躊躇う。けどすぐに続けた。
「ワイドリア伯爵の御子息様が…近い内に金が入るから、と仰っていたそうですわ」
その言葉に、一瞬動きを止めた彼が、ゆっくりと薄い笑みを作る。
「どこで、とは聞かない方がよさそうだね」
「ふふっ、ご理解いただけて嬉しいですわ」
「こちらこそ有難う。助かったよ」
入浴後、ガウン姿の彼がベッドに腰掛ける。サイドテーブルのランプだけが、二人を照らす。その中で、リエンラがザフラの首に、腕を絡み付けた。
耳元で、囁くように訊く。
「……本当によろしいの?」
「どういう意味かな」
彼女がクスリと笑いを溢す。
「以前は話だけで、服を脱ぐことすらしなかったものだから」
「…………」
しばらく沈黙した彼だったが、やがてフッと口角を上げる。そして、ゆっくりとリエンラを押し倒し、その栗色の瞳を細めた。
「ここは、一夜の夢を見せてくれる場所だろう? なら、客の感情は量らない方がいいんじゃないかな?」
彼女は瞳を瞬かせ、間を置いて、柔らかく微笑んだ。
「わたくしとしたことが、失礼致しましたわ」
「……分かればいいよ」
短く言って、その肌に顔を寄せる。ザフラは、その日初めて、妻以外の女性を求めた。
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