少年プリズン

まさみ

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二十七話

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 覚醒と微睡の間を移ろうごく浅いレム睡眠。
 羊水の海にたゆたう胎児のごとく、なめらかな水の皮膜につつまれた意識がゆっくりと瞼の裏側に浮上し、薄目を開ける。
 視界に映ったのは闇に沈んだ天井。墨汁を流したように濃縮された闇が、唯一の光源たる豆電球の明かりが消された房を覆っている。
 房には時計がないため正確な時間はわからないが、規律で定められた就寝時刻はとうに過ぎているらしく、見回りの看守も絶えた廊下はしんと静まり返っている。
 鼓膜に浸透してくる静寂。
 その底に混ざるのは分厚い壁を隔てた隣の房からかすかに聞こえてくる囚人のいびきと耳障りな衣擦れの音、寝返りを打つたびにパイプベッドが軋む音。時折混じるのは姿の見えないネズミの鳴き声だろうか。
 東京プリズンにどれだけの個体数のネズミが生息しているかはさだかではないが、僕がこの房に収監されてからベッドの足もとを素早い影が通り過ぎたのは一度や二度ではない。
 掌大の小さな影は灰色の残像を残してどこへともなく消え、僕は遂に彼らの住処を見つけることができなかった。
 いや、東京プリズンにはネズミよりもっと恐ろしい生き物がいる。
 「…………」
 ベッドに上体を起こした僕は息を殺し、注意深く周囲の気配を探る。この房に収容されてから何度眠りを妨げられたか知らない不快音がしないかと暗闇に耳を澄ましたが、幸いにも奴らの気配はない。
 ほっとして枕元に手を伸ばす。就寝時、枕元に置いた眼鏡を装着して改めて正面の闇へと目を凝らす。
 房の暗さに目が慣れるにつれ、部屋の輪郭が浮き彫りになる。
 壁際に位置するパイプベッドの形状とその正面に穿たれた鉄扉の輪郭線、四面に迫った壁の重量。ひとしきり視線を巡らして自分がおかれた状況を把握しようと努めていた僕は、ある異常に気付いて眉をひそめる。
 
 変だ。
 寝息が聞こえない。

 無事な左手で毛布を握り締めたまま、隣のベッドへと視線を転じる。サムライが寝ているはずのベッドはからだった。どうりで寝息も衣擦れの音も聞こえないわけだ。どれだけサムライが日頃気配を抑制しているからと言って、肺呼吸で生命維持活動をする生き物である前提からは逃れられない。就寝中でも呼吸くらいはするだろう。
 
 しかし、こんな時間にどこへ行ったんだ?あの男は。

 不在のベッドをじっと見つめる。毛布は寝乱れた跡さえなく端正に整えられていた。サムライの律儀すぎる性格を表しているようで興味深い……呑気に状況分析している場合ではない。肝心の本人はどこへ行ったんだ?就寝時刻を過ぎたあとで囚人が出歩くのは厳禁とされている。
 看守に見つかったら体罰を受けるのではないか?
 「―関係ない」
 そうだ、あの男が体罰を受けようが関係ない。
 こんな夜中にどこを出歩いてるか知らないが、あの男の行く先など僕にはまったくもって関係ない。たとえあの無礼な男が看守に見つかって夜間外出を咎められ東京プリズン中の囚人から恐れられる独居房送りになったとしても、僕は痛くも痒くもないのだ。いい気味じゃないか。何もわかってないくせして、あんな愚鈍な男に僕を非難する資格があるのか?賢しげに僕を批判する権利があるのか?
 アイツも少しは思い知ればいいんだ。
 そう結論した僕はふたたび毛布を羽織ってベッドに横たわったが、一度去った眠気は二度と訪れなかった。中途半端な時刻に起きたせいか目は異常に冴えていた。寝返りを打つ。壁の方を向く。眠れない。寝返りを打つ。サムライのベッドの方を向く。
 
 ―くそ。僕が眠れないのはアイツのせいだ。気になってしょうがないじゃないか。

 荒々しく舌打ちして跳ね起きた僕は、悪臭の染み付いた毛布を払いのけて床へと足裏をおろす。忌々しげにからのベッドを睨む。べつにアイツのことを心配してるわけじゃない。気色悪い誤解をしないでくれ、僕にはレイジのような同性愛の特殊嗜好はない。ただ、不条理が当然のごとくまかりとおる東京プリズンでは同房の囚人が規則を破った連帯責任でぼくまで被害を被る恐れがあると思い至ったまでだ。
 そろそろと足を進め房をよこぎり、鉄扉へと辿り着く。音がしないよう慎重にノブを回す。薄く開けた鉄扉の隙間から天井と平行に延びた廊下を盗み見る。

 人気はない。
 等間隔に設置された蛍光灯の明かりが薄ら寒く廊下を照らしているだけだ。

 おもいきって扉を開ける。音がしないよう、静かに閉じる。無人の廊下に立った僕はもう一度左右を見回し、看守の姿がないことを確認する。サムライの姿を見つけてすぐに房に戻れば、僕まで規律違反したことはばれないだろう。サムライだってそんなに遠くに行ったはずがない。この階のどこかー……もしくは、この東棟のどこかにいるはずだ。
 そう推理してひんやりした廊下を歩き出す。天井に並んだ蛍光灯が青白く発光し、どこか病的な感じのする人工の光を投じて長い廊下を漂白している。左右の壁に並んでいるのはどれも同様の形状の重厚な鉄扉。さすがにこの時間ともなればほとんどの囚人はぐっすり寝入ってるらしく、僕と同じように出歩いてる物好きなご同類とすれ違うことはなかった。
 歩きながら、就寝前にサムライに言われた言葉を反芻する。
 『それ以上に、そうやってしなくていい無理をしているお前の姿は見苦しい』
 見苦しい?
 この僕が? 
 そんなことは認めない。そんなことがあってたまるか。
 僕は普通に生まれた普通の凡人どもとは違うんだ。あらかじめそう設計されて、緻密に計算されて、天才として生を受けた鍵屋崎 直なんだ。
 その僕が、選ばれたこの僕が、サムライのような凡人の目には普通の凡人以下の見苦しい人間に見えるのか? 
 『それがあなたの本性よ、鍵屋崎 直』
 頭蓋骨の裏側で殷殷と反響するのは、鈴を振るように朗らかな声。
 『あなたの本性は見るもおぞましい怪物……わたしとはちがう、わたしたちとはちがう。そう、生まれた時から。いえ、生まれる前からあなたは人と違っていた。生まれる前からあなたは異常だった。異常な生まれ方をしたあなたが平常な人生を歩めるはずがないじゃない』
 無邪気に僕を見下す声の持ち主は、おさげを肩にたらした少女―恵。
 この世でだれより大切な、僕自身より遥かに大切な、僕の妹。ただひとりの家族。
 なんであんな夢を見たんだ?恵があんなことを言うわけがない。恵はあんなに僕に懐いていたじゃないか、殺伐とした空気がただよう息苦しい家で実の両親よりもだれよりも僕を一途に慕ってくれたじゃないか。

 僕の恵は絶対にあんなことは言わない。あんなことを言うはずがない。
 心の中の声から逃れるように早足になる。しかし、引き離そうとすればするほど実体のない声は執念深く追いかけてくる。

 『お前は見苦しい』
 『それがあなたの本性よ』
 『しなくていい無理をしている』
 『異常な生まれ方をしたあなたが平常な人生を歩めるわけがないじゃない』
 『それ以上に……』
 『そう、生まれた時から……』  

 ―「うるさい!」― 
 廊下に怒鳴り声が響いた。
 それが自分の声だという事実に打ちのめされ、ほかならぬ自分の正気を疑う。自分の声で我に返った僕は、包帯を巻いた右手を片耳に押しつけていたことに気付く。純白の包帯が目に入った途端、条件反射でリュウホウのことを思い出す。
 エレベーターの中で嗚咽をこらえていたリュウホウの姿がよみがえり、胸焼けに似た不快感が沸々とこみあげてくる。
 リュウホウの泣き顔に恵の泣き顔が被さる。
 僕の記憶の中の恵はいつも哀しい顔でうつむいている。僕は恵にそんな顔をさせた原因を心の底から憎んでいたし、恵を守るためならどんな手段も厭わなかった。それなのに、原因を排除したあとも僕の記憶の中の恵の顔は晴れない。相変わらず哀しい顔のまま、僕のほうさえ見ずにうつむいているのだ。
 
 そんな顔をする必要はないだろう、お前を哀しませてる原因は排除したんだから。
 だから、笑ってくれ。恵。
 またピアノを聞かせてくれ。
 現実に会うのが不可能なら、せめて、束の間の夢の中でも……

 ズル。

 「?」
 廊下の中央で立ち止まり、あたりを見回す。

 ズル。

 まただ。気のせいではない。なにかを引きずるような重たい音がどこからか聞こえてくる。そのまま音をさかのぼって廊下を歩いていると、十五メートル前方に岐路が見えてくる。そのまま直線方向に進む道と右へと別れるコンクリートの通路の二者択一。岐路の手前で立ち止まった僕は、壁に片手をついて薄暗い右通路をのぞきこんでみる。
 階段があった。
 エレベーター代わりに囚人たちが使用している階段は別の場所にある。こんなわかりにくくて目立たない場所に普段は使用されてない階段があるなんて初めて知った。まるで、人目から隠すように……
 この階段は故意に隠蔽されていた?まさか。隠蔽する理由が思いつかないとかぶりを振りかけた僕の脳裏でリュウホウの言葉が閃く。
 『ブ、ブラックワークは………、今は食事中だし……ここで話すようなことじゃない……』
 この秘密の階段は、ブラックワークの仕事と関連してるのか?
 根拠のない直感に突き動かされるがまま暗闇に沈んだ階段の方へと歩を踏み出した僕は、ふと足もとに目をやって点々と床におちている染みに気付く。眼鏡のブリッジを押し上げ、中腰の姿勢で床を染めたしずくを観察する。
 
 正規の通路からわずかに漏れ入ってくる蛍光灯の明かりに照らされ、仄かに浮かび上がった液体の正体は……
 血だった。
 
 「なんでこんなところに……」
 東京プリズンに収監されてからいやというほど血には免疫ができた。床に滴った血痕を見つけたぐらいではいまさら驚かない。僕の疑問は何故こんな所に血が、その一点に尽きる。夜間、看守の目を盗んで自分たちの房を抜け出した囚人たちが人目につかない階段の踊り場でリンチでもしているのかと思ったが、その割には静かすぎる。
 この状況、なにもかもが不自然だ。
 ずる。
 階段の下方から重たい音が響いてきた。柔らかく固い物体と床がこすれる音だ。まるで、人間を引きずってるかのような……そこまで考えて、階段の最上段に足を伸せる。錆びてペンキが落剥した手摺にすがり、足を踏み外さぬよう注意して一段ずつ階段を降りる。時間をかけて踊り場へと到達した僕は、目下の階段でのろのろとうごめく影を発見する。
 その影は二人だった。
 二体の影の中間に挟まれているのは、ちょうど僕と同じ位の背格好の袋だ。形状からしてゴルフバッグに近いそれは奇妙にふくらんでおり、一人が頭の方を持ち、もう一人が足を抱えこむ格好で不器用に運搬されていた。僕が最前から耳にしていたなにかを引きずるような音の正体は、あのゴルフバッグが段差を引きずられる音だったのだ。
 「う、うう」
 奇妙な声がした。
 「うううううう」
 不明瞭な声、獣じみた唸り声。どす黒い恐怖にむしばまれて狂乱する一歩手前の、精神的に極限まで追いつめられた声。しかし僕が戦慄したのは、夜気を震わせて鼓膜に届いたうなり声にたしかに聞き覚えがあることだった。
 これは、この気弱そうに震える語尾は……
 「う、ふうう、う」
 「うるせえっ、しずかにしろっ!」
 ゴルフバッグの頭の方を抱え持っていた人影が自制心を切らして怒鳴るが、ゴルフバッグの足を抱え持った人影の震えはやまない。痩せ細った背中を胎児のように丸めた影は、小刻みに嗚咽をもらしていた。
 エレベーターの中で見たリュウホウの泣き顔が、吃音の嗚咽を漏らす背中に重なる。
 僕は確信した。ゴルフバッグを運搬している片方の影の正体は、リュウホウだ。
 「いやだ、もうこんなのいやだ………」
 「だまれ」
 「うちに帰りたい……」
 「だまれっつってんだろ」
 「お父さん……」
 「次言ったら殺すかんな」
 「おかあさ、」
 予告どおり、ゴルフバッグの頭を抱え持っていた少年が激発した。
 「!!」
 乱暴に突き飛ばされたリュウホウが勢いを殺せず階段の段差に尻餅をつき、そのはずみでゴルフバッグを取り落とす。階段に叩きつけられたゴルフバッグが鈍い音をたて、頭側に立っていた少年が唾をとばして怒鳴り散らす。
 「ったく、うぜーんだよお前!めそめそめそめそ泣きやがって、俺だって好き好んでこんな汚れ仕事やってんじゃねえ!今期の配置換えでブラックワークになったから仕方なくやってんだよ!じゃなきゃだれがお前みてえな玉ナシのオカマ野郎と一緒にいるかってんだ!!」
 頭に血がのぼった少年が尻餅をついたままのリュウホウに容赦なく蹴りを入れる。腹を蹴られたリュウホウが体を二つに追って反吐を撒き散らし、足に杜寫物がかかった少年がさらに怒り狂う。
 「きたねえよ!!」
 「ごめ、」
 「便所でそのなさけねえツラ洗ってこいよ、聞いたぜ、地下のトイレで瞬英たちにケツ掘られたって!そうやってなよなよして謝るしか脳がねえから目えつけられるんだよ、自業自得だこの蛆虫。てめえみてえにうじうじした奴と同じ空気吸ってると俺のはらわたにまで蛆が沸いちまう、くそ、想像したら気持ち悪くなったじゃねえか!」
 「ごめんな、」
 涙と鼻水と唾液で顔面をしとどに濡らしたリュウホウが頭を抱え込んで慈悲を乞い、リュウホウを蹴倒した少年が最後の留めとばかりに引導を渡す。
 「俺はもう帰る!あとはお前ひとりでやれ!」
 リュウホウの顔が青ざめた。
 「そ、んな」
 這い這いの姿勢で少年へと歩み寄り、その足にすがりついたリュウホウだが力の限り蹴飛ばされてその場に打ち伏せる。
 リュウホウを蹴倒した少年が踊り場へと登ってくる前に隠れる場所はないかと視線を巡らすが、狭隘な踊り場には姿を隠すに都合のいい遮蔽物など見当たらない。
 しかし、紀憂だった。怒りに我を忘れた少年は壁に背中を密着させた僕の前を気付かずに通過し、上の階段をのぼっていった。
 蛍光灯の光も届かない暗闇が功を奏したのだろう。
 警戒を解いた僕は、階段の中腹でべそをかいているリュウホウへと目をやりその対処に困る。
 そんな僕の逡巡をよそに立ち上がったリュウホウはよろよろと立ち上がるや、たった一人でゴルフバッグを引きずりはじめた。不安定な腰で体重を支え、階段の下へ下へとゴルフバッグを引きずってゆく頼りない姿に自分でも説明できない苛立ちをおぼえ、おもわず声をかける。
 「なにをしてるんだ?」
 「!」
 リュウホウの反応は顕著だった。
 背後から声をかけられた驚愕のあまり、両手に引きずっていたゴルフバッグを取り落としてしまう。リュウホウの手を放れたゴルフバッグは怒涛の勢いで階段の傾斜を滑り落ちると、耳を聾する轟音をたてて階段直下の床へと落下した。
 落下の衝撃でジッパーが開き、ゴルフバッグの中身が外気にさらされる。
 
 それを見て、僕は声を失った。
 ゴルフバッグの中につめこまれていたのは、死体だった。

 ただの死体ではない―赤黒く青黒く顔が膨れ上がった、正常な神経の持ち主なら吐き気をもよおすほど醜い面相の死体。いびつにめくれた唇の端には乾いた血泡がこびりつき、腫れがあった瞼で半ばほどふさがれた目は白濁している。軟骨が折れているらしく、鼻が変な方向を向いていた。前髪は毟られて血の滲んだ頭皮が露出し、右手の爪は全部剥がされて生々しい肉の断面が外気に触れていた。
 だが、僕が驚いたのは死体の惨状を目にしたからではない。
 二目とつかないほど変わり果てた死体の面相に、ごくわずかながら生前の面影があったからだ。
 僕と同じジープの荷台に揺られ東京プリズンに移送されてきた、自分を純血種と吹聴する少年の顔が。
 『強盗だよ。スラムの奴らを標的にしてたからアガリは大したことなかったけどな……これでも七人殺ってるんだぜ、おれ』
 「ダイスケ………」
 こわばった舌で名を呼ぶ。
 当然、反応はない。相手は一目でわかる死体だ。心停止した死体に呼びかけるという愚を犯した僕は、その行為が示すとおり完全に気が動転していた。

 なんでダイスケが死んでるんだ?
 なんでダイスケの死体をリュウホウが運んでるんだ?
 これはどういうことだ、一体??

 「あ……」
 階段の中腹に立ち尽くしたリュウホウは恐怖に見開かれた目でゴルフバッグを凝視していたが、やがてその目が僕へと向けられる。おずおずと僕を振り仰いだリュウホウが必死の弁解を試みようと唇を開いたのをさえぎり、叫ぶ。
 「君が」
 心臓が早鐘を打つ。異常に血の巡りが早くなり、現実感が失せてゆく。全身の毛穴から汗が噴き出し、急速に水分が失われてゆく。
 「君が殺ったのか?」
 その瞬間のリュウホウの表情を、どう表現したらいいのだろう。
 一瞬空白になった表情が反転し、信じがたいものでも見るかのような目で僕を凝視する。裏切られた―それが一番近いのかもしれない。
 絶望に暮れた目で僕を仰いだリュウホウは、縮んだ舌根を奮い立たせて彼にしては力強く反論を試みようとした。
 「ちが、聞いて……」
 僕の方へと手をのばして階段に足をかけたリュウホウ、その必死な形相を目にした刹那、僕の中で何かが切れた。感情の許容量を超えた堰が決壊し、暴風に翻弄される木の葉のように理性が押し流される。
 全身が鳥肌立つような本能的な恐怖に襲われ、僕は絶叫した。
 「近寄るな!」
 「!」
 リュウホウがびくりと立ち止まる。僕と三段隔てた距離で立ち止まったリュウホウは、人間として当然備わっているべきあらゆる感情が蒸発した空洞の目で僕を見つめていた。僕はそれどころではなかった。リュウホウの変化に注意する余裕などこれっぽっちもなかった。
 呆然と僕を見つめるリュウホウの目を威圧的に見返す。
 「……僕にさわるな」
 呼吸の狭間からこぼれたのは、哀願。
 僕の目に映るのはリュウホウの遥か背後、階段の真下に横たわるゴルフバッグ、不自然な方向に手足を折り曲げられてその中につめこまれたダイスケの死体。
 喉の奥に酸っぱい胃液がこみあげてきて気分が悪くなる。僕の目の前にかざされたリュウホウの手、その皺のひとつひとつまで判別できる距離にリュウホウがいるという事実に耐えきれず、顔を背ける。
 リュウホウは、あの手でダイスケの死体に触れたんだ。
 「頼むから、僕にさわらないでくれ」
 汚い。
 「頼むから……」
 汚い汚い汚い。一刻も早く、僕の前から消えてくれ。消え失せてくれ。
 リュウホウは魂を抜かれたかのようにその場に立ち竦んでいたが、やっと僕の語尾を汲み取ったらしく、のろのろと踵を返す。元きた道を戻って階段を降り、ふたたびゴルフバッグを抱えなおしたリュウホウの背中を見送っていた僕は、全身の筋肉が弛緩するような脱力感を味わう。
 壁に背中を付けて呼吸を整えるのに集中していた僕に、冷静な思考力が戻ってくる。
 馬鹿な。リュウホウにダイスケが殺せるはずがない。
 あの非力なリュウホウがダイスケを殴り殺せるはずがないじゃないか。今だってあの少し力をこめたら折れそうな細腕で、ダイスケの死体をつめたゴルフバッグを引きずっているじゃないか。
 自分の愚かさに忸怩たるものを感じつつ顔をあげた僕は、リュウホウの尻ポケットから垂れ下がっている白い布に気付く。
 エレベーターの中でリュウホウに貸した手ぬぐいだった。
 
 『ありがとう』

 エレベーターの扉が閉まる直前、酸欠の金魚のようにぱくぱく口蓋を開閉したリュウホウの顔が浮かぶ。
 たどたどしく、つたない言葉。自分の気持ちを他人に伝えるのに慣れてない、滑稽なまでに必死な口調。
 でも、あの時のリュウホウに嘘はなかった。そして今も、リュウホウは嘘をつこうとしたわけではない。自分は無実だと、ダイスケを殺してはいないと、ありのままの真実を僕にわかってもらおうと貧困な語彙を駆使して弁解しようとしただけじゃないか。
 その時の僕がなんでリュウホウを追ったのか、自分でもわからない。
 どれくらい茫然自失してしたのかも正確にはわからない。気付いた時にはリュウホウの姿は見えなくなっていた。謝罪しようとしたわけではないのは確かだが、このままリュウホウを行かせてはまずいと直感が働いたのだ。
 何か、とてつもなく不吉な直感が。
 階段を転げるように駆け下りた僕は、床に滴った血痕を辿って扉を見つける。階段の下、目立たない場所に設置された半開きのドア。リュウホウはここから出ていった。冷静な判断ができなくなった僕は、周囲の状況もよく確かめずにドアから駆け出る。階段下のドアは東棟の裏手に通じていた。コンクリート敷きの地面にはところどころ亀裂が生じて雑草が生えていた。

 リュウホウはどこだ?

 「!?―っ、」
 突然、背後から伸びてきた腕に抱きとめられ、身動きを封じられる。つんと鼻をつく刺激臭に、昔嗅いだ薬品の記憶がよみがえる。
 薬物名、クロロフォルム。 
 吸入した際は頭痛、眩暈、倦怠、悪心、嘔吐等の後症状を起こすことがあり、稀に死亡、黄疸、高度貧 血、肺炎、気管支肺炎、虚脱を起こすこともある。□本品による吸入麻酔死亡率1/2655、エーテルとの混合麻酔で1/8014、ヒト(経口)致死量約10-15mL、ヒト(吸入)40mL、大気中許容量10ppm(50mg/m3)。
症状は□麻酔作用、皮膚粘膜腐食、低血圧、呼吸抑制、ついで意識消……

 失。

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