少年プリズン

まさみ

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二十八話

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 頭痛がした。
 重力に抗って瞼をこじ開ける。眠気に塞がれた瞼を薄く開けると眼鏡のレンズに闇が映った。当然だ。意識を失う前、僕は屋外をうろついていた。時間帯は夜、それも深夜に近い時刻だろう。
 手首に違和感を感じる。
 不自由な半身を捻り、後ろに回された手首に目をやる。腰の後ろで一本にまとめられた手首に手錠が嵌められていた。手錠の鎖を辿り、背中合わせにうずくまった人物の後頭部を確認する。
 方々に跳ねた癖の強い黒髪、僕より5センチほど低い身長。
 この後姿は……
 「……ロン?」
 「よう」
 束縛された手首を捻り肩越しに振り返ったロンが、ばつが悪そうに挨拶する。ロンの手首と僕の手首はつながれているから、必然的に僕の手首にも抵抗が生じることになる。左手首に伝わったた震動が薬指の骨に響き、苦痛の信号に顔をしかめる。
 「どういうことだ?」
 率直に疑問を述べる。
 現在自分がおかれた状況がまったく理解できない。ここはどこだ?どうして隣にロンがいる?極めつけは手錠だ。なぜ僕がこんな家畜同様の扱いを受けなければいけない。いかに客観的に見た僕がいかなる心の痛みもおぼえず両親を刺殺した危険人物とはいえど、檻の中でまでこんな理不尽な仕打ちを受けるとは思わなかった。その他の連中はどうだか知らないが、僕はできるだけ暴力的な行為とは無縁でいきたいのだ。手錠で厳重に束縛されなければならないような野蛮なふるまいに及んだことはない―他に有益な解決策が見つからなかった場合を除いては。
 「知るか」
 僕に背中を向けたロンが吐き捨てる。
 「数時間前、俺はシャワーを浴びに房をでた。俺のケツを狙ってしつこくまとわりついてくるレイジを全力で振り切って、長い廊下を歩いてシャワー室に向かった。で、ひとっ風呂浴びてさっぱりして廊下にでたら……」
 思わせぶりに言葉を切ったロンが「これだ」と自らの手首に視線を落とす。ロンの手首に嵌まっていたのは夜目にも銀に輝く光沢の手錠。背中越しに僕と手錠を共有したロンが、いまいましげに舌打ちする。
 立腹したロンの横顔を観察しながら、僕は口を開く。
 「ロン。君は廊下にでたとき甘い匂いを嗅がなかったか?」
 「なに?」
 脳裏を過ぎったひとつの可能性が現実の確信に変わるのにそう時間はかからなかった。眉間に縦皺を刻んで当時の状況を回想していたロンが「した」と慎重に答える。
 「まて、思い出してきた。あの時、後ろから足音がしたんだ。後ろからだれかが近づいてきた。顔は見てないけど、そいつが俺のほうに手を伸ばして……柔らかいものを口におしつけられて、何かわからないけど、甘い匂いが鼻に抜けた」
 「クロロフォルムだな」
 断言する。おそらくロンを拉致した犯人は僕を気絶させたのと同じ手段を使ったのだろう。
 「クロロフォルムは数種類の化合物の総称で、吸引した際は睡眠作用を起こすのが特徴だ。どうやら僕と君を拉致した犯人はクロロフォルムを染みこませた布を使用し、気を失わせてここまで運んできたらしいな」
 「よくわかるな」
 「わからない君がどうかしてる」
 本当にあきれた。少し頭を使えばわかる単純なことだ。ありのままの事実を指摘しただけだと言うのに、ロンは憮然とした表情で僕の横顔を睨みつけている。
 これだから馬鹿は手におえない。
 化学と薬学の知識がない人間相手にこれ以上クロロフォルムの成分解析を連ねても時間を浪費するだけで何の益もないので、さりげなく話題を変える。
 「推理を続ける。僕と君をさらった犯人は単独犯じゃない……最低でも三人の複数犯だ」
 「根拠はなんだよ?」
 先刻の意趣返しとばかり、言葉尻に噛みついてきたロンに肩を竦める。もし手が自由に使えたなら、眼鏡のブリッジを押し上げるふりで彼の救いようない愚鈍さに対する憐憫と軽蔑の表情を隠すことができたのに。
 「自分の体重を考えろ。身長との相対比から導きだした君の体重は52キロ、対して僕は54キロ。君の証言に信憑性をおくならば、犯人は刑務所の屋内で君を気絶させてここまで運んできたことになる。断言はできないが、気絶する前に僕がいた場所もここから最低100メートルは離れてると推測される。意識を喪失した人間の体は重い。周囲にリヤカーなどの運搬器具が見当たらないことから、犯人は気を失わせた僕らを自力でここまで運んできたと仮定する。当然ひとりでは無理だ、合理的帰結として複数犯だと考えるのが妥当だ」
 できるだけ噛み砕いて説明したつもりだが、ロンが完全に理解するのには正確に5.5秒ほど思考時間を要した。僕の説明が終わって一呼吸おいてから、ようやく言わんとしていることを察したらしいロンがまじまじと僕を見つめる。
 「……お前、頭いいんだな」
 「そうだろう」
 当たり前のことを言われても別に嬉しくない。水棲の魚類が「えら呼吸できるんですね」と言われたようなものだ。ひととおり説明を終えた僕は、今一度ロンの格好を見てごく素朴に指摘する。
 「それで君は、なんでそんな格好をしてるんだ?寒くないのか」
 「こんな寒空の下に下着一枚で出て寒くない奴はロシア育ちのアホだけだろ」 
 本人も述べたとおり、今のロンは上半身に薄地のシャツを身につけただけのそっけない格好をしていた。ズボンは穿いていたが、上半身が薄地の肌着だけという格好は見るだに寒々しい。
 お誂え向きにしゃみをしてから、いまいましげに顔を歪めてロンが愚痴る。
 「シャワーを浴びた直後に拉致られたって言ったろ?上を着る暇がなかったんだよ、このままここにいたら風邪ひいちまう」
 「明日の強制労働にさしつかえるな」
 砂漠の気温は寒暖差がはげしい。日中は40度を超える炎暑でも夜には急速に気温が低下する。砂漠の真ん中に位置する東京プリズンも例外ではなく、囚人服の上着を着ている僕でさえじわじわ忍び寄ってくる夜気の肌寒さに鳥肌立つのを防げなかった。下着一枚のロンはさぞかしこたえていることだろう。
 などと呑気な会話をしている最中に、脳裏を閃光が走る。気絶する直前の自分が何をしようとしていたか、だれを追おうとしていたか、まったく唐突に思い出したのだ。 
 「ロン、質問がある。リュウホウを見なかったか?」
 「?だれだそれ」
 詰問口調で訊ねられ、ロンが怪訝な顔をする。そうだ、ロンはリュウホウのことを知らない。不吉な胸騒ぎが復活した僕は、舌を噛みそうになりながら続ける。
 「身長150センチ前後、推定体重45キロ。細身で貧弱な体躯。気弱そうな細面で歩き方がどこかおぼつかない囚人をこの周囲で見かけなかったか?」
 「そんな奴東京プリズンには腐るほどいるぜ。それにお前、大事なこと忘れてねえか?俺はお前と同じでたった今目覚めたばかりなんだ、最初からここにいたわけじゃねえ。そんな不審な囚人が通りかかったとしても気付くわきゃねえだろ」
 ロンの言い分は正しい。疑義を挟む余地もない正論だ。僕は黙って引き下がるしかなかった。そして頭を働かせ、優先順位を決定する。リュウホウの行方ももちろん気になるが、この状況で最優先されるべきなのは僕の身の安全だ。どうしてこうなったかという前後の状況は不明だが、現在ぼくはロンと同じ手錠でつながれて逃走を妨げられている状態だ。
 前述したとおり、砂漠の寒暖差ははげしい。夜は氷点下まで冷え込むのが砂漠の自然現象だ。このまま屋外に放置され、凍死するのはぞっとしない。
 「―こうして手錠でつながれたまま僕と君の死体が発見されたら、文字通りの手鎖心中だな」
 「手錠でつながれて野郎と無理心中なんて酸っぱすぎて反吐がでてくるぜ」
 ロンは日本の伝統芸能に造詣が深くないらしく、僕の皮肉を額面どおり受け取ってしまったようだ。まあ、その点に関してはまったく同感なので反論する気はないが。
 「じゃあひと思いに殺してあげよっか」
 「!」
 驚いて顔をあげる。
 目の前で足音が止む。ズボンのポケットに指をひっかけて正面の闇にたたずんだ小柄な少年は、底抜けに無邪気な口調で唄うように続ける。
 「僕、いいクスリ持ってるよ。安楽死なら任せてよ、打ってぽっくり覚めたら天国ってね」
 ようやく暗闇に慣れた目に赤毛で童顔の少年が映る。
 リョウだった。
 「―お前が俺たちを拉致ったのか?」
 リョウの姿を認めたロンが押し殺した声で唸る。
 「そんな馬鹿な、不可能だ。腕力で劣る君が意識を失った僕たち二人をここまで運べるはずがない」
 脳裏でふくらんだ疑問をそのまま音声化する。リョウはにこにこと笑いながら答えを明かす。
 「半分正解、半分不正解ってところかな。実行犯は別にいるけど、クロロフォルムを貸したのはまぎれもなく僕だし。君たちをここまで運んできたのは別人」
 「どこだ、そいつら。ぶっとばしてやんねえと気が済まない」
 「できるの?その格好で」
 ポケットに手をつっこんだまま、上体を前傾させて忍び笑うリョウ。手錠で拘束されたロンの顔が怒りに紅潮する。好奇心旺盛な猫のような足取りで僕らのもとへと歩み寄ったリョウは、底意地の悪い笑みを含んだ目でしげしげと僕らを見比べる。
 「―どうして僕らをさらったんだ?」
 冷静さを欠いたロンが暴発する前に、動揺を糊塗した口調でリョウの真意を問いただす。リョウは謎めいた笑みを浮かべたまま、膝を軽く屈めた中腰の姿勢で僕の目を覗きこむ。
 表向きは人に媚びているが、その本性は損得の打算で動く商人以外の何者でもないシビアな目。
 「メガネくんが教えてくれたんじゃないか、レイジの弱点はロンだって」
 ちらりとロンの方に流し目を送り、リョウが笑みを広げる。驚いたロンが僕の横顔を凝視する。「どういうことだ」と小声で耳打ちしてきたロンを無視し、いくつかの思考過程を踏んで明解な結論に辿り着く。
 僕らが拉致された件には主原因としてレイジが関わっているらしい。
 詳細を問いただそうと口を開きかけた僕をさえぎったのは、こちらへと殺到してくる大勢の人間の気配。全体重をかけた足裏で砂利をすり潰す耳障りな足音、夜気を震動させて三半規管に伝播された片言のざわめき。リョウの後方20メートルでうごめいているのは黒山の人だかり。集団で接近してきた彼らの姿を目の当たりにし、ロンが絶句する。
 「リョウ、お前……」
 リョウの背後へと押し寄せてきた集団を見つめ、叫ぶ。
 「北棟のスパイだったのか!」
 ぼくらを包囲するように半円の陣を敷いたのは、肌の色と瞳の色からして異なる人種の少年たち。その殆どが病的に白い肌と日本人離れして彫り深い顔をしている。総じて肌の色素が淡白なのは日照時間が短い地域で生活を営んでいた祖先の遺伝だろう。
 「スパイってひどいなあ。彼らは単にぼくのお客さんだよ」
 悪びれたふうもなく肩をすくめたリョウがおどけた顔で笑い、すぐうしろを振り返る。
 リョウの背後にいたのは、癖のない銀髪を肩で切り揃えた均整のとれた体躯の少年。否、少年というより青年と言ったほうが正確だろう。過不足なく引き締まった長身は抜群にスタイルがよく、揃いの囚人服を着た無個性な集団の中に埋没しても真っ先に人目を引く。夜闇に紛れて顔の造作までは把握できないが、爬虫類めいた瞳の冷たさが心を寒くさせる。
 「ねえ、サーシャ」
 「その通り。このアバズレは金さえ払えばブタのケツの穴でもなめる根っからの守銭奴だ。私はこのアバズレを利用して、分不相応な地位に君臨しているあのいやらしい混血児を排斥しようとしたまでだ」
 甘ったるい猫なで声で機嫌をとったリョウの頭を撫でながら、サーシャと呼ばれた少年がこちらを見る。
 
 先刻僕はレイジを指して「暴君」と表現したが、あれは間違いだ。訂正しよう。

 本当の暴君とは、今僕の目の前にいるこの男のことだ。
 薬物使用の常習犯なのだろうか、頬骨ばかりが尖って肉がそげおちた頬には病的な死臭が漂い、神経質そうに尖った顎はすべての人間を見下しているかのように傲慢な印象を与える。
 彼の祖先は類人猿ではなく、爬虫類ではないだろうか?
 そんな馬鹿げた妄想を抱かせるほど、銀髪の男は冷たく無機質なアイスブルーの目をしていた。ネズミを狩った猫を褒めるかのように、洗練された手つきでリョウの赤毛を撫で付けていたサーシャが改めてこちらを見る。
 僕とロンを等分に見比べていた視線がやがてロンの顔へと固定され、感情の窺えない声でサーシャが呟く。
 「お前があのいやらしい混血児の友人か?」
 「―いやらしいいやらしいって、俺も混血児なんだけど」
 挑発的な口調でロンが返す。サーシャは薄い唇の端をめくりあげ、「なるほど」とひとりごちた。
 「どうりで下品な顔をしてるわけだ」
 「下品」と斬り捨てられたロンがあからさまに気分を悪くする。手錠で拘束されていなければ後先も考えずサーシャに殴りかかっていたことだろう。サーシャがこちらを向き、落ち着き払った声で誰何する。
 「お前も混血児か?」
 「―さあな。戸籍上は両親ともに日本人と記載されているが、詳しいことはわからない」
 回りくどい言い方にロンが眉をひそめる。サーシャはしげしげと僕の顔を眺めると、ごく当たり前の口調で結論する。
 「日本人か。それではお前の血も汚れているな」
 なんだこの男は。
 さらりと銀髪を揺らして振り向いたサーシャが、演説台に立ったカリスマ政治家さながら両手を広げ、淘淘と自らの主張を述べる。
 「この世界でいちばん優れた人種はだれだ?この世界でいちばん美しく気高い人間はだれだ?第二次世界大戦でユダヤ人を迫害したゲルマン民族か?違う。四千年の中華思想に支えられた黄色い肌の猿どもか?違う。第二次ベトナム戦争にのりだして国の予算をひたすら浪費しているプロテスタントの道化どもか?もちろん違う」
 おそらく、サーシャが率いる集団の構成員には一人残らず大国ロシアの血が流れているのだろう。いずれ劣らぬ白い肌をした少年たちを従者のように侍らせたサーシャが、恍惚と潤んだ目を虚空に馳せて宣言する。
 「この世界で最も気高く美しく優れた人種……それは、ロシア人だ」
 そして、一転して屑でも見るように辛辣な目で僕とロンを射殺する。
 「それ以外は屑だ。地球の食糧事情を悪化させるだけの害虫にひとしい存在は今すぐ死に絶えるべきだ、それが何かの間違いでこの世に生を受けた下賎で卑しいお前ら混血児の義務で宿命だ」
 たしかにこの傲慢さは、北の大国の皇帝が生まれ持つものだろう。 
 僕がその場からはなれることはおろか耳すらふさげないのを百も承知で、悪意と偏見に満ち満ちたいちじるく偏った思想を垂れ流されて辟易する。サーシャの周りの少年たちが彼の言葉に心酔しているらしいのも不愉快だ。
 従順な聴衆に気をよくしたらしいサーシャがさらに過激な主張を展開しようとするのを強引にさえぎり、矛盾点をつく。
 「君の言葉には矛盾があるな。君は今『混血児は今すぐ死に絶えるべきだ』と独善的に断言したが、混血嫌いを自認する君のグループに日露の混血児が複数含まれているように見受けられるのは何故だ?」
 「愚問だな」
 サーシャが笑った。背筋が寒くなるような笑みだ。
 「そこの黒髪」
 「は、ハイ!」
 サーシャが指を鳴らして従者のひとりを呼ぶ。犬のように駆けてきたのは特徴のない顔をした黒髪の少年。周囲の囚人と比べ肌の色が黄色人種に近く、目と髪が黒いことから東洋の血が混ざっているのは明白。息を弾ませて駆けてきた黒髪の少年を興味なさそうに一瞥し、淡々とサーシャが言う。
 「1763年に即位したロシア皇帝ピョートル三世は大変な愛犬家として知られた。いや、愛犬家という言葉は正しくないな。彼は多くの犬を飼っていたが、その犬を狭い部屋に閉じこめ餌もろくに与えず虐待していたという」
 「?」
 前後の文脈をまったく無視した知識を披露され、僕とロンは顔を見合わせた。主人を恐れる飼い犬のように卑屈な目をした少年が愛想笑いで口を開く。
 「何の用で、」
 「すか」と言い終えることはできなかった。 
 拳を受けた少年の顔が大きく仰け反り、歯が飛んだからだ。 
 「!」
 唖然とした僕らの前で、黒髪の少年が二・三歩よろめき、倒れる。蒙蒙と砂埃を舞い上げて転倒した少年の上に浴びせられるのは容赦ない蹴り。
 「妻のエカテリーナに頭のあがらないロシア皇帝のささやかな趣味は飼い犬を鞭打つことだった」
 僕は見た。
 地面にうつぶせた黒髪の少年を残虐に痛めつけるサーシャの口の端が、不自然に歪んだのを。
 表情筋の動かし方を知らない、爬虫類の笑顔。
 「私の趣味は汚らしい混血の犬をなぶって憂さを晴らすことだ。これらはその為だけに私の身の周りに侍らせてる無知な愛玩動物だ」
 サーシャは異常だ。
 レイジもサムライも異常だが、サーシャの嗜好はほとんど変態の域に達してる。折れた歯の間から大量の血を垂れ流した少年の顔を無造作にふみつけ、地面へと押し戻してからサーシャが顔をあげる。何の非もない仲間が痛めつけられているというのに、周囲の少年たちはだれ一人助けに入ろうとしない。何の行動も起こさず、ただ、彫り深い顔に微量の恐怖と圧倒的な畏怖を浮かべ、慄然と立ち竦んでいるだけだ。
 「いかれてやがる」
 ロンの声に振り向く。
 サーシャの仲間のように、恐怖に打ち負かされたわけではない。ロンの目にはただ、嫌悪感だけがあった。
 「―何?」
 酷薄な口元に笑みの残滓を漂わせ、ゆったりと振り向くサーシャ。狂気渦巻くサーシャの目を直線で捕らえ、ロンが言う。
 「レイジもいかれてるが、お前よりずっとマシだ。いいか、よく聞けよ北棟の皇帝気取り」
 手錠の鎖を引っぱって片ひざ立ったロンが、語気はげしく唾棄する。
 「あのやることなすことテキト―でいつもへらへら笑ってるクソったれたホモ野郎のが、お前の百兆倍人間として上等だ」
 心底軽蔑しきった表情で自分を睨みつけるロンに何を思ったか、それまでなぶっていた少年に急速に興味を喪失したサーシャがゆっくりとこちらにやってくる。緋毛氈を歩む皇帝の如く悠然たる足取りで間合いを詰めてきたサーシャに危機感が増幅、背中を冷や汗が流れる。
 「君は真性の馬鹿か?よく状況を見て相手を挑発しろ、へたしたら死ぬぞ」
 「お前こそ真性の馬鹿だな、日本人。挑発ってのは口が勝手に動くことだ、頭で考えてる暇なんかねえ」
 「人間なら理性で押さえろ、怒りを自制しろ。たしかに彼は不愉快きわまる最低の人間だが今この場で『君は不愉快きわまる最低の人間だ、一秒でもはやく蒸発して消えてくれ』と嘘偽らざる本音を吐露したところで状況が好転するのか?悪化するだけだろう」
 そう、悪化するだけだ。
 それを予測できない僕ではないのに、今の発言を至近距離まで迫ったサーシャに一語一句逃さず聞かれてしまったのは失態だった。
 「下賎な混血児の分際で私を愚弄する気か?」
 「下賎な混血児の分際でお前を愚弄する気だよ、エセ皇帝」
 僕が合理的説得を試みる前にロンが余計な一言を口にし、サーシャの瞳が氷点下で凍る。
 ロンの頭上に右腕を持ち上げるサーシャ。
 サーシャの袖口からすべりでたのは古風な鞘のナイフ。細緻な模様が彫りこまれた見るからに高給そうな代物で、油を染みこませたハンカチでよく磨きこまれているらしき鞘は輝かしい色艶をおびていた。手首を軽く撓らせ、ナイフを一閃。虚空を舞ったナイフを五指に握りこむと同時に流れるような動作で鞘を抜き放ち、鋭利な刃をさらす。
 手首が撓って返ってくるまでの一動作で鞘から抜刀したサーシャは、抜き身のナイフをロンの頬に這わせ、ささやく。
 「首を刎ねられたいか?反逆者」
 「レイジに対抗して皇帝名乗ってんならギロチンくらい用意しとけよ」
 この期に及んでもロンはまだ平静を装っていた。頬に固定されたナイフの感触に命の危険を感じているのは確かなようだが、皇帝という名の独裁者として権勢をふるうサーシャへの反発が一時的に死の恐怖を凌駕しているのだろう。
 永久凍土の目をした男がナイフに握力をこめ、ナイフの刃がロンの頬に沈んでゆく。
 「やめなよ」
 ナイフの背が1ミリほど皮膚に食いこんだところで、リョウがおっとりと声をかける。
 「そいつらは大事な人質だ、人質ってのは無傷で五体満足だからこそ脅迫材料になるんでしょ。ま、夜中ほっつき歩いててまきこまれたメガネ君は災難だけどしかたない。これからはじまるブトウ会を看守にチクられでもしたら、僕ら全員独居房送りだもんね」
 
 ブトウ会?
 リョウははっきりとそう口にした。舞踏会。ごく最近、その単語を聞いたことがある。

 『俺もおちおちできねえな。北国生まれのネズミは永久凍土も噛み砕ける歯が自慢だから、呑気に舞踏会の日を待ってたら全部の脚を齧られて王座が転覆しちまう。今晩、予行演習に出向くのも悪かねえな』

 呑気に舞踏会の日を待っていたら、全部の脚をネズミに齧られて王座が転覆する。
 だから、今晩予行演習に赴くのも悪くない。

 レイジは確かにそう明言した。―今晩なにかが起こる、と。
 
 「―招待状はたしかにレイジの手に渡ったんだな?」
 リョウに注意され、不承不承ナイフの刃をおさめたサーシャが無感動に聞く。頬を圧迫していたナイフの刃が取り除かれ、手錠でつながれた背中越しにロンが安堵した気配が伝わってくる。リョウは「もちろん」と大きく頷く。
 「かぼちゃの馬車が遅れてるのかな?エンペラーお待ちかねのシンデレラはそろそろ到着するはずだよ……ほら、きた」
 小走りに僕の横を駆け抜けたリョウがコンクリートの塀から身を乗り出す。反射的に立ち上がり、リョウと並んで下界を睥睨した僕の目にとびこんできたのは―……

 夜空を背にして単身こちらに歩いてくる、レイジの姿だった。
 
 レイジはいつもどおり笑っていた。いつもどおり、真意の読めない笑顔……
 「やばい」
 ロンが呟く。頬にナイフを押し当てられたときも揺るぎなかったその声が、恐怖にかすれて聞こえたのは気のせいだろうか。ごくりと生唾を嚥下したロンが、極限まで見開かれた目で眼下のレイジを凝視し、うわ言のように繰り返す。
 「レイジの奴、キレてる」
 僕にはわからない。レイジの笑顔は気持ち悪いが、それだけだ。過剰に殺気立っているわけでもない。こめかみに冷や汗を浮かべたロンの隣、コンクリート塀から身を乗り出した僕は、レイジが何か四角い物体を小脇に抱えていることに気付く。
 レイジの脇腹に目を凝らす。
 レイジが小脇に抱えていたのは、彼の房を訪ねたときベッドの上に投げおかれていた―……
 装丁の傷んだ、聖書。

 『知ってるか?レイジは本で人を殺せるんだぜ』

 バスの中で小耳に挟んだ無責任な憶測が、現実になろうとしている。
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