『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第2話 失われた歯車は、まだ気づかれない

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第2話 失われた歯車は、まだ気づかれない

 王宮舞踏会の翌朝。

 城内は、妙な空気に包まれていた。

 婚約破棄という一大事があったにもかかわらず、表向きは何事もなかったかのように業務が進められている。
 ――否、進められている「つもり」でしかなかった。

「……おかしいな」

 執務室で、若い文官が帳簿をめくりながら首を傾げる。

「この支出、承認印が足りない」

「それ、前はどうしてた?」

「ええと……」

 彼はしばらく考え込み、やがて小さく呟いた。

「……ランナバウト侯爵令嬢が、確認してから回していたはずですが」

 その名前に、室内の空気が一瞬止まる。

 誰かが、気まずそうに咳払いをした。

「……もう、いないんだよな」

「ええ。昨日、婚約破棄されたと……」

「じゃあ、この帳簿は?」

 答えは出ない。

 これまで「自然に回っていた歯車」が、どこで噛み合っていたのか。
 それを正確に把握している者は、誰もいなかった。

 ――それもそのはずだ。

 ベルトーネ・ランナバウトは、表に立つことを好まなかった。

 彼女は常に一歩引いた場所から、
 数字を整え、文書を正し、摩擦が起きる前に問題を処理してきた。

 評価されることもなく、
 功績として名前が挙がることもなく。

 ただ「王太子の婚約者」という立場に押し込められ、
 黙々と働いていただけだった。

「……まあ、なんとかなるだろ」

 結局、その場はそうして流される。

 誰も、この小さな違和感が、後に致命的な崩壊へ繋がるとは思っていなかった。


---

 一方その頃。

 ベルトーネは、すでに王都を離れていた。

 豪奢な馬車ではない。
 必要最低限の荷だけを積んだ、簡素な車。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、彼女は静かに息をついた。

「……本当に、終わったのね」

 婚約破棄の夜。
 あれほど注目を浴びたにもかかわらず、不思議と心は凪いでいた。

 怒りも、屈辱も、涙もない。

 あるのは――解放感。

 王太子妃としての立場。
 常に誰かの期待を背負わされ、発言一つにも気を遣う日々。

 それらが、一夜にして消えた。

「……肩が軽いわ」

 そう呟き、自然と微笑がこぼれる。

 馬車の揺れに身を任せながら、これからのことを考える。

 領地へ戻り、帳簿を整理し、収支を立て直す。
 余計な社交も、意味のない夜会もない。

 静かで、穏やかな生活。

 ――それだけで、十分だった。

「お嬢様」

 御者が声をかけてくる。

「この先で、道が混んでいるようです」

「事故かしら?」

「ええ、隣国の商隊が立ち往生しているとか」

 隣国。

 その言葉に、わずかに興味を引かれる。

 これまで、王国の内側に閉じ込められていた。
 国境を越えるなど、考えたこともなかった。

「回り道はできる?」

「可能ですが、少々時間が……」

「構いません」

 ベルトーネは即答した。

「急ぐ理由はありませんから」

 その決断が、
 彼女の運命を大きく変える一歩になるとも知らずに。


---

 同じ頃、王宮では。

「どういうことだ?」

 アーヴェル王太子が、苛立ちを隠さず声を荒げていた。

「この契約、なぜこんなに不利なんだ!」

「そ、それは……」

 文官が言葉に詰まる。

「以前は、ランナバウト侯爵令嬢が内容を精査されていましたが……」

「またその名前か!」

 王太子は机を叩いた。

「もう関係ない女だ!」

 だが、苛立ちの原因がどこにあるのか、彼自身も理解できていなかった。

 契約が滞る。
 帳簿が合わない。
 会議の結論が、なぜかまとまらない。

 それらすべてが、
 ひとりの「地味な令嬢」によって支えられていたなどと、想像もしていない。

「……フローラは、まだ来ないのか」

 彼は、新たな聖女候補の名を呼ぶ。

「彼女なら、私を支えてくれるはずだ」

 その言葉に、周囲の者たちは視線を逸らした。

 ――本当に、そうだろうか。

 答えを知る者は、もう王宮にはいない。


---

 馬車は、ゆっくりと進む。

 ベルトーネ・ランナバウトは、まだ気づいていなかった。

 自分が抜けた場所に生じた「空白」が、
 どれほど大きなものだったのかを。

 そして。

 その空白を埋める者が、
 隣国公爵アルベリク・フォン・グラーフであることを。


---
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