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【8】消える愛

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 日常はとても素晴らしい。
 そう思うのに、ぐったりとベッドに倒れ込むように寝転んだアリアドネは、もやっとしたものを胸に抱えていた。

 確かステュアートは、半月後に祖国へ帰ると言っていた。
 そろそろその半月が経とうとしているのだ。

(あんなに真剣に頼まれたのに……)

 断ってしまったことで、アリアドネは罪悪感に苛まれていた。
 アリアドネの気持ちはまだラティスにある。だから、他の男と結婚など考えられない。
 ましてや、アリアドネには《夫に愛されたい》という理想があるのだ。
 だから、何か事情があるにせよ利益だけを求めているようなステュアートの頼みは、聞けなかった。

 口では惚れていると言ってくるステュアートだが、それは対外的に必要な口実でしかないことは明白だったし。

 アリアドネは、ごろんと寝返りを打つ。

 考えすぎて疲れてしまった。
 あの一件以後、『好みじゃない』と伝えた時の衝撃を受けたようなステュアートの表情ばかり思い出してしまう。
 やはり正直に伝えず、もう少し別の理由をつければ良かったかもしれない。

(もう、考えたくないのに…………代わりの花嫁はちゃんと見つかったかしら……)

 それなら安心なのだが、とステュアートが新しい花嫁をもらったところを想像して罪悪感を和らげていると。
 ふと、ドアを叩く音がした。
 来客のようだ。
 アリアドネは夜着の上に分厚いガウンを羽織って、ドアの前に立つ。
 警戒するに越したことはないので、ドアを開く前に誰なのか確認をする。

「俺だよ、アリアドネ」
「ラティス?」

 ぎょっとしてドアを開くと、憔悴した様子のラティスが立っていた。
 辺りはすでに夜闇に包まれていたが、今日は晴天のために星明かりで十分視界を確保できた。

「どうしたの?」
「ロックから聞いたんだ。最近、ぼうっとすることが増えたって。仕事大好きなアリアドネが、仕事に身が入らないなんておかしいよ」

 ロックというのはラティスの友人で、アリアドネの職場近くの見回りを担当している兵士だ。
 確かに最近、アリアドネはぼうっとすることが増えたが、それはステュアートに対する申し訳なさからくる良心の呵責で、答えのない解決方法を延々と模索してしまうからだ。
 けれどそれも、ステュアートが祖国に帰ってしまえば次第に治まるだろうと考えていた。

 それよりも――。

「ラティス、私は仕事が別に好きじゃないわ」

 生活費を稼ぐために、幼い頃培った技術を利用しているに過ぎない。
 あくまで生きるための手段であり、仕事そのものに生き甲斐を見出しているわけではないのだ。

 ラティスはきょとんとすると、同情するような視線を向けてくる。

「そんなに強がらないで。俺はアリアドネが今の仕事を切望してたことを、よく知ってるんだ」
(だからそれは、生活のためなのよ)

 女一人で生活することが、それも後ろ盾や身元保証人のないアリアドネが生きていくことが、どれほど大変か。
 今の仕事を懸命にこなしているのは、生きていくため――その一言に尽きるのに。

 これまで、アリアドネはラティスに弱音を吐くことがなかった。
 心から悲しんだり嘆いたり、そういった姿を見せたことがなかったことで、ラティスはアリアドネが今の仕事を楽しんでやっているように思っていたのだろう。

「そんなに、アリアドネが傷つくなんて思わなかったんだ」
「ラティス?」
「俺が結婚するって知って、ショックだったんだね」
「……え?」

 ぽかんとしてしまった。

(確かにショックだったけれど……今は、それほどでもないわ)

 振られたあの日、ステュアートに出会ったことでやってきた非日常が、アリアドネの悩みを変えてしまった。
 振られて落ち込んでいたのに、結婚を断ったことに対する申し訳なさで自責の念を感じるようになっていたのだ。
 そもそもラティスの結婚は仕方の無いことだ。
 長年彼を愛していたけれど、これはもしかしたら、家族愛のようなものだったのかもしれない。

(あぁ、でも、そうね。確かにここ最近、仕事に身が入っていなかったわ)

 ラティスに対する苦しみはもうないのに、ステュアートのことはなぜか頭から離れないのだ。
 ふとしたときに、結婚を断った際の彼の愕然とした表情を思い出しては、胸を痛めているのである。
 アリアドネは、ぎゅっと目を閉じて首を横に振った。

「ラティスは関係ないわ」
「アリアドネ、やっぱり結婚してからも俺と会おう」

 ぐっと顔を上げて、決意をしたように拳を握りしめてみせるラティス。
 そんな彼を唖然と見つめながら、アリアドネは小首を傾げた。

 彼は一体、何を言っているんだろうか。

「結婚後も俺と会おう。それなら寂しくないよね?」
「待って、意味がわからないわ。それに、これからも大勢でなら会おうって言ったじゃない」
「そうじゃない、二人きりでだよ。アリアドネは俺が守ってあげなきゃ駄目なんだから、何も遠慮しなくていいんだ」
「……何を言ってるの?」

 ラティスはアリアドネの前では、兄貴分のように振る舞う時がある。
 けれど、今回の態度は行き過ぎだ。

「俺の結婚が嫌なんだろう? 心配しなくてもこっそり会えばいいから」

 ラティスが手を伸ばしてきたのを見て、咄嗟にサッと後ろに避けた。

「やめて!」

 思いのほか大きな声が出てしまって、慌てて小さく「ごめんなさい」と謝った。
 そんなアリアドネにラティスは目を細めて、朗らかな笑みを浮かべる。

「ああ、やっぱり結婚するのが嫌なんだね。本当に心配しなくてもいいって。なんなら、証拠を見せるよ」
「証拠……?」

 なんの証拠なのか。
 ラティスの言っている意味がわからず、アリアドネは言葉にできない焦りを覚えた瞬間、ぐいっとラティスがアリアドネとの距離を詰めた。
 驚いている間に、身をかがめて顔を近づけてくる。

 すぐ近くにラティスの顔が迫っていて、キスされるのだと察した。
 ゾワッと気持ち悪さが湧き上がる。
 避けないと、と思うのに身体が硬直して動かない。

 怖い。
 怖くて気持ち悪くて、身体の奥がぎゅっと潰れてしまいそうになる。

「あなた図々しいのでは、ないですか――!!!」

 ラティスの頬に靴がめり込み、顔をひしゃげさせながら、ラティスは身体ごと横に吹っ飛んだ。
 がっつりと目を開いて見ていなければ、一瞬にして目の前からラティスが消えたように見えたかもしれない。

 アリアドネは、ふらっとよろけた。
 肩にぬくもりが触れてハッと顔を上げる。

 ステュアートが、人を殺しそうなほど冷ややかな目でラティスを睨んでいた。
 状況から、ステュアートがラティスの顔面を蹴りつけたのだと理解したけれど、大神官がそのようなことをしてもよいのだろうかと不安になってしまう。

(……ご自身の立場も顧みずに、助けてくださったの……?)

 ステュアートはアリアドネの身体を支えながら、ラティスに言い放った。

「勘違いも甚だしい! アリアドネさんはあなたの『あそこ』を愛しているだけだというのに!」

 ふんっと胸を張って声を張り上げるステュアートに、アリアドネは固まった。

(あそこ? あそこって何? まさか、男性のアレのこと?)

 リリアンの一件があったため、アリアドネはすぐに『あそこ』の意味に気づいて蒼白になる。
 しかし、頬を押えながらよろよろと立ち上がったラティスは、なんの事かわからなかったようで「あそこ……?」と呟いた。

 そもそも誰が乱入してきたのか、なぜ蹴られたのかわからないようで、ラティスはアリアドネとステュアートを交互に見つめた。

 ややあって怒りが湧いてきたのか、ラティスが顔を苛立ちで歪めた。

「意味わかんないこと言ってるけど、お前はなんだ? 部外者が話に入ってくるなよ!」
「部外者ではありません。私は、アリアドネさんと結婚する男ですから」
「はぁ!?」
「大体、さっきから聞いていれば、まるであなたがアリアドネさんに愛されているような口ぶりですね。いいですか、アリアドネさんが好んでいるのはあくまであなたの『あそこ』だけなのです!」
(見たこともないわよ!)
 
 まず大前提として、アソコアソコと連続で言わないで欲しい。
 そもそも、ステュアートはアリアドネのことを一体なんだと思っているのか。

(どうして今ここで、『あそこ』の話が出てくるの……?)

 羞恥から頬を赤くしたアリアドネを見て、ステュアートは失言に気づいたらしく、こほんと咳払いをした。

「……失礼。何が言いたいのかと言いますと、アリアドネさんは私と結婚することになっているのです。ですので、あなたのような勘違い男に付きまとわれては迷惑です」
「か、勘違い男……? アリアドネが結婚とか、嘘をつくな。そんな話聞いたことがない」
「嘘ではありません。アリアドネさんは、私ののこともとても可愛がってくださっているのです。あなただけが愛されているとは思わないでくださいね」
(違うわ、言い方を変えればいいってことじゃないのよ!)

 さらに頬を赤くさせるアリアドネだが、ステュアートはなぜかドヤ顔である。

「……息子? もしかして子連れなのか? すでに家族との顔合わせも終わってるって、こと……?」

 ラティスがこぼれんばかりに目を見張り、アリアドネを振り返った。
 その瞬間、彼は蒼白になる。

「アリアドネ、なんでそんなに照れてるの? 頬を赤くして……まさか、本当にこの男と……?」
「えっ!」

 確かにアリアドネは頬を赤くしているが、決してラティスが考えているような理由からではない。あまりにもステュアートが『あそこ』を連発したために、乙女の恥じらいとして赤くなっていたのだ。

「俺を裏切ったの?」
「ラティス、あのね――」
「アリアドネはずっと俺の傍にいなきゃ駄目なのに。俺だけを褒めて、俺だけを見てなきゃ駄目なのに……!」

 吠えるように叫んだラティスの言葉に、アリアドネは硬直した。
 息をつめて、ただラティスを凝視する。

 何を言っているのだろう、と鈍感なふりすら出来ないほど、ラティスの言葉は衝撃的だった。

(……私、ラティスにとって都合のいい存在だったんだわ)

 ラティスにとって、側で無条件に自分を褒めてくれる存在、それがアリアドネだったのだ。
 彼にとってアリアドネがそばにいる事が当たり前過ぎて、結婚したら離れてしまうなんてことすら、考えられなかったのだろう。
 なぜならば、ラティスにとってアリアドネはその程度の――家族どころか、意志のある人間とすら、思われていなかったのだから。

 実際に、笑みすら消えたアリアドネの態度に、ラティスは気付いていない。
 ただ自分のことを訴えてくる。

「俺は結婚するけど、アリアドネのことも大切にするよ。キスだって出来るし、抱こうと思えば抱けると思うんだ。そうされたいんだろう? だからずっと――」
「止めて!」

 アリアドネは声を荒らげた。
 その程度の気持ちで、アリアドネを傍に置き続けることが出来ると思われていたことが、屈辱だった。

「なぁ、俺のこと好きだろ? そっちの男より、俺にしといた方がいいって。ね、アリアド――」
「来ないでっ!」

 じりじりと近づいてくるラティスを蹴りつけた。
 顔を殴ってやりたかったけれど、素手で触ることすら気持ち悪くて嫌だったのだ。

 けれどアリアドネの非力な蹴りでは、ラティスは軽く眉を顰めただけで、吹っ飛ぶようなことはない。
 それどころか、逆上したように目を真っ赤にさせた。

 そのとき。

「あ、いたいた。大神官様、そろそろ準備に取り掛かりませんと――っ」

 カンカンと足音をたてながら階段を上ってきたアランが、ぴたりと動きを止めた。
 ステュアート、ラティス、アリアドネを交互に見て、目を瞬く。

「もしかして、修羅場ですか?」
「だ、だ、大神官!?」

 素っ頓狂な声を上げたのは、ラティスだった。

「まさか、今帝国に来てるフューリア教の……」
「フューリア教の大神官、ステュアートです。私に言いたいことがあるのならば、いつでもどうぞ」

 ステュアートが、これでもかというほど冷徹に告げる。

 ヒッ、と叫び声をあげたラティスは、真っ青な顔で走り去った。
 フューリア教の名前は、とてつもなく強大らしい。それはそうだろう。特に今回の大神官の訪問は、カーン帝国皇帝シグマが頼み込んでやっと決まった重要なものだ。

 もし国家の賓客である大神官の怒りを買ったとなれば、罰則程度では済まされない。ラティスが恐怖するのも当然だった。

 アリアドネはラティスの足音が完全に聞こえなくなると、静かに深いため息をついた。

 なんだか、とても疲れていた。
 恋と呼べる気持ちがこんなにもあっさり消えてしまうことが虚しくもあったが、今はとにかく、何も考えたくない。

「ええっと、これはどういう状況なんです……?」

 アランの声で我に返ったアリアドネは、慌ててステュアートを振り返った。

「あの、助けてくださってありがとうございました」

 向かい合って深々と頭をさげる。
 久しぶりに会うステュアートは相変わらず美しく、夜闇のなかでは銀糸のような髪が淡く発光しているようにすら見えた。
 アリアドネはこの半月、ステュアートに関する噂をいくつか聞いた。

 ステュアートはフューリア教でもっとも力のある大神官であり、見る者すべてを魅了する美貌を持っているという。
 神に愛されし選ばれた存在であり、その姿を見ただけで病が治ると嘯く者すらいた。

 実際に、目の前にいるステュアートは神秘的と言える美貌を持っている。
 優れているからこその苦労も多いのだろう、とアリアドネは目を細めた。

「ですが、どうしてここにいらっしゃるんですか?」

 たまたま通りかかったにしては、時間も場所もおかしい。
 もしかしてまた何か失せ物をして、探している途中なのだろうか。

 そんな考えが過ったが、ステュアートは軽く目を見張ったあとに苦笑を浮かべた。

「あなたをお迎えにあがりました」
「迎えって、もしかして結婚のことですか?」
「はい。……アリアドネさんは、本当は、私の妻になってくださるのでしょう? だから、迎えに来たのです」

 決定事項のように言われて、アリアドネは反発しようとした言葉を飲み込んだ。
 確かに半月間、ステュアートのことばかり考えていた。
 早くステュアートに妻が見つかりますようにと、誰にともなく祈りを捧げたほどだ。

 どうやらアリアドネの願いは虚しく、ステュアートは妻となる人物を見つけられなかったらしい。

――アリアドネさんは、本当は、私の妻になってくださるのでしょう? だから、迎えに来たのです。

 ステュアートの言葉を反芻して、アリアドネはぎゅっと拳を握り込む。
 ついさっき、まるで正義の使者のように颯爽と助けてくれたステュアートの姿を思い出す。

(いくら正直に生きていいって言われても、助けてくれた人を自分の都合だけで見捨てるようなことは、したくないわ)

 アリアドネは緊張でそわそわしながらも、深く息を吐き出した。

 例えお互いに愛し合っておらず、訳ありの契約結婚のような状態だとしても、アリアドネの心にいたラティスはもういないのだから、不義理には当たらないはずだ。
 結婚する予定もないのだし、この身が役に立つのなら――。

「ステュアート様。私でよろしければ、ステュアート様の妻にして頂けませんか」

 彼の妻として、この身を捧げよう。
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