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第一部 再会
71、出立
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リーリヤは出発の準備を始めた。
百年前に旅した時は、どんなものが必要だったかと思い出しながら鞄につめていく。大体のものは現地で調達するつもりなので、荷物は少なかった。
大事なものは角である。太さはそれほどでもないが長さが両腕を合わせたくらいのものなので、かなりかさばる。これを背負っていくとなると不便なので、物体を小さくする魔術を扱える貴人に頼みに行くことにした。
「本当に行くんですか、リーリヤ……」
げっそりした顔でそれについて来るのは菫のイオンだ。リーリヤは頑固だから止めても無駄だと知っている彼は、あれこれ言ってこなかったが賛成もしていないようだった。
容易にやり遂げられることではないというのはリーリヤも重々承知している。女王の元へたどり着くのも大変だが、彼女が協力してくれる保証もないのだから賭けであった。
だが、今から心配したところでどうにもならない。他に方法が思いつかないのだから、駄目だった時にまた考えればいいだろう。そうやってリーリヤはこれまでの人生を過ごして、どうにかなっている。能力が低いのに不安ばかり人並み以上に抱えていては、身動きが取れなくて余計に失敗してしまうと学んでいた。
「外に出たら、ついでに造花についても調べてみますよ」
気は進まないが、見なかったことにはできないのだ。宮殿の中では情報が集りにくいが、人の国でなら噂も聞けるだろう。
「くれぐれも危ないことには首を突っ込まないでくださいよ。いや、虫の女王に会いに行くのがすでに命がけなんですけど……。ジェード殿下があなたの護衛をしてくださるというのが唯一の慰めです」
とはいえ、ジェードがいても全ての懸念は払拭されないらしいイオンは、ため息ばかりついている。
「元気を出してください」
「あなたはもう少し心配してください」
魔術で物を小さくできる霞草公フォスキーアのところへやってきたリーリヤは、折れて壊れた角と、もう一つのものを机にのせた。それは、黒薔薇の蕾だった。
このまま宮殿に彼を置いていけない。リーリヤがいなくなれば、誰かがこの蕾を密かに処分してしまうかもしれないからだ。
黒薔薇は新種で、一応貴人として扱われているが後でやって来たことや力が安定していな事情があり、族長の義務は負っていない。よって敷地外には出られる。野放しにしていると危険なのでここで保護していたのだ。
「黒薔薇は、女王陛下に献上した花を見たがっていたのです。なので、見せてあげようかと思いまして」
蕾のままでいたとしても、黒百合との思い出がある宮殿にいるのが、つらいのかもしれない。
あの花を見せれば何かが好転するなどという期待は持っていない。だが、今のところ黒薔薇にしてやれることが他にないのだ。こちらの都合でこの世界に彼をとどめておいたのだから、叶えられる願いは叶えてやらなければ。
リーリヤは蕾の表面を撫でた。
「私、黒百合と話をしたことがあるのです。あの方は寡黙でしたけど、黒薔薇のことになるとたまに話してくれました……」
宮殿の外の庭で昼寝をする黒薔薇のそばに、黒百合がいた。黒百合は、自分がいなくなる未来を予期していたのかもしれない。度々力が暴走しかけるので苦しんでいて、体の異変を感じていたのだろう。
「黒薔薇は私が離れても咲いていられるだろうか」
と黒百合が言うので、リーリヤは返答に窮していた。黒百合にべったりな黒薔薇は、彼がいなければ錯乱するのが目に見えていたからだ。
「ねえ、白百合公。私、黒薔薇にはずっと咲いていてほしいんだ。もしかしたら、あの子にこの世界はとても居心地が悪いのかもしれない。けれど、散って消えてしまうなんてもったいないよね。すごく綺麗な薔薇だから。勝手な願いだっていうのはわかってる。でも、あの美しい花の子がこの世界に咲き続けていることは、私の慰めになるんだよ」
そう言って笑った黒百合の顔が、リーリヤは忘れられなかった。黒薔薇は散らせません、とリーリヤは声に出さずに黒百合に誓ったのだ。黒百合はもういなくなったとしても、彼の望みはまだ地上に残っている。
悲しみを重ねたくはない。黒薔薇は、黒百合にとって唯一の花なのだ。
リーリヤの話を聞き終えた霞草は、黙って角と蕾に術をかけた。どちらも親指ほどに縮んでいる。元の大きさに戻すのには魔力が必要だが、リーリヤ程度の力でも可能だと説明を受ける。
「お気をつけて、白百合公。黒薔薇公の心が少しでも慰められることがありますように」
小さく愛らしい花を思わせる容姿の霞草は、いたわるように小さくなった黒薔薇の蕾を眺めていた。
* * *
宮殿を離れて各地へ向かう花の貴人は十人。赤薔薇や白薔薇、菫も選ばれていた。故郷や近隣の一族に状況を説明し、様子を見る。これを各族長が代わる代わる行う予定で、族長が顔を見せることによって少しでも動揺をしずめるのが狙いだ。だが、太陽の光が揺らぐことなど長らくなく、それが花の国にどれほど影響を与えるかはまだわからない。
宮殿からの移動は空を飛ぶ船を使う。
支度を終えたリーリヤとジェードは、宮殿内で最も広い露台に来ていた。ここは船の発着所としても使われる場所だ。
数人の貴人達が空に手をかざしていた。
空中に無数の植物の蔓や蔦が出現し、巨大な船をそこに編んでいく。絡まり、結びつき、蕾ができて花が咲き、実がなる。
これに貴人達が乗り込み、途中からはそれぞれ別の場所へと小舟で行くのだ。
リーリヤとジェードも乗船することになっていた。この船で行くのが一番速いのだ。船で人の国を周り、虫の国まで行けたならあっという間に用事は済むのだが、長旅をするには魔力の消費が激しすぎるし、目立つことから危険が多くなってしまう。
船は花の国と人の国の境まで進み、そこからはイオンが小舟を出して二人を送る。
「こんなごたごたの中、私だけ長く国を離れるのは心苦しいのですが……」
編まれている船を見上げながらリーリヤは呟いた。危険な旅路ではあるが、宮殿も安全とは言い難い。そんなところに仲間を残していくのが気がかりだった。
とにかく、危険なのはテクタイトなのだ。彼が動き出した時、リーリヤはすぐには宮殿に戻れない。
皆無事で再会できればいいのだが、と見送りに出てきている貴人や侍従達をリーリヤは振り返る。自分の身に降りかかることであれば、まあ何とかなるだろうと気楽に構えていられるのだが、仲間のこととなるとそうもいかない。
彼らなら、何かあっても切り抜けてくれると信じてはいるのだが――。
そこでリーリヤは、柱廊を歩いてくる人物を見つけて息をのんだ。背筋を伸ばし、剣を腰にはいた白い影。しっかりとした足取りは、今も昔も変わらない。
自分の目が信じられなかった。
あらゆるものを拒み、長らく人前に姿を見せなかった離宮の貴人。その人が髪をなびかせて、確かにこちらへ向かってくる。
「睡蓮公アイル!」
リーリヤは睡蓮公のもとへと駆け出した。名前を耳にした者達が一様に驚いた様子で、走るリーリヤを目で追う。
睡蓮は白い仮面をつけて、顔の上半分を隠しているから表情はしかとわからなかった。けれど確かに睡蓮のアイルだった。
少しもくたびれたところがなく、顎を引いて立つ様は往年の戦士らしさを思い出す。剣と魔術を使って多くの争いをおさめてきた、道義を重んじる花の子の一人。
ただ懐かしくて嬉しくて、リーリヤは睡蓮へと満面の笑みを向けた。
「出て来てくださったのですね、睡蓮公!」
弱い陽光が、睡蓮の半身をぼんやりと白く浮かび上がらせていた。
口元はかつてのような優しい線を描いておらず、全くの無表情だ。声音も冷たく、それはいつか離宮で話した時と変わらなかったが、リーリヤは気にもならなかった。
――彼は、出てきてくれたのだ。
「君の言う飛来石の王子は私が見張っておこう。こちらのことは心配しなくてもいい」
黒薔薇の起こした騒動や、リーリヤが出立する話も彼は聞いているらしかった。
宮殿の守護者である彼が見ていてくれるというなら心強い。何より、全てを傍観しようと決め込んでいるらしかった睡蓮が、皆のために何かしようと行動を起こしてくれたのがリーリヤを感動させた。
やはり、彼は睡蓮公なのだ。変わるものもあれば、変わらないものもある。
見ると、月下美人が睡蓮に目を向けていた。月下美人の柔らかい表情は平素浮かべているものと全く変わらず、特別な感情は読みとれない。
睡蓮はというと、月下美人の方をまるで見ようとはしなかった。
彼の目線の先にいるのはジェードだった。仮面で視界が塞がれているようだが、ジェードを認識しているらしい。
顔をしかめるように、ほんの少しだけ薄い唇に力が入る。おそらく睡蓮は、ジェードを厳しい目で睨みつけているのだろう。
「人間は信用するな、白百合公リーリヤ」
それが最も重要な警告であるとでも言うような、低い声であった。押し殺そうとしている嫌悪と怒り、苛立ちが滲んでいる。
睡蓮公アイルは、リーリヤの返事を聞かずに背を向けて離れていった。
語り合いたいことはたくさんあったし、感謝も伝え切れていない。あなたが今ここに現れてくれたことが、どれほど私を元気づけただろう。
しかし出発の時は迫っていて、彼を追いかけるわけにもいかない。言わずとも伝わっていることを願い、リーリヤはジェードのところへと戻っていった。
するとジェードが「あれが睡蓮公か」と呟いている。珍しく露骨に不機嫌そうな顔をしている理由は、睡蓮から感じた敵意のせいか、喜んで駆け寄ったリーリヤの態度のせいか。
とにかく、リーリヤに言わせればジェードが妬かなければならない相手などいないのである。睡蓮も含めて、特別視している花はいない。なだめるようにジェードの腕に手で触れた。
船に乗り込む貴人達が、それぞれ準備を確認していた。天竺牡丹のギアルギーナが注意事項などを伝えている。
「あなたの願い、すぐに叶ってしまいそうですね」
見下ろすジェードに、リーリヤは微笑みかけた。
「私と旅をするという話です」
するとジェードも思い出したらしく、口の端で笑む。
夢想したような楽しげなものとはほど遠いが、それでも旅は旅である。
緑の大船が、くすんだ青空に浮かんでいた。船を構成している植物は、どの部分も艶めく夏の若葉のような生き生きとした色合いだ。ところどころに彩りを添えている花は幾種類もあり、黒や赤の実もたわわに実っている。
リーリヤにとって、ジェードは大切な存在になりつつあった。一日一日と、その思いは深まっていく。自分の中に新しく芽生えた何かに戸惑いながら、リーリヤはその正体を少しずつ確かめていた。いつか、名がつくであろう一つの想い。
翡翠の王子が、そばにいてくれる。彼が私についてきてくれる。
たった一つの宝石が、白百合の日々に光をもたらし、安息を与える。
「行きましょう、ジェード様」
「必ずお前を守り抜こう、白百合公リーリヤ」
使命を終えて帰ってくる。そう誓い、王子へ頷いたリーリヤは、彼と共に一歩を踏み出した。
〈第一部 了〉
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