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28-01 恋心という証明

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道化師クルーン、切り落とすんだ」
道化師クルーン、締めるんだ。きつく、息が止まるまで」

道化師クルーン


 彼に名前はなかった。けれど彼はいつも、どこまでも暗く血生臭い場所でそう呼ばれていた。


 そんな地獄から救い出されたのは唐突だった。けれどそのときに抱いた感慨も、特になかった。
 彼の心はとうの昔に壊れてしまっていたから。


「重度の解離性同一症……回復は恐らく……」
「だろうね。ひどいときには数分おきに言動が変わる。これは確かに、”道化師“だな」


 目の前の気怠げな三十代くらいの男性はそう言った。くたびれたスーツを着ているというのに、彼のまとう空気はどこか常人とは違って、目が離せないような不思議な魅力があった。


「よし、今日から君はスタールだ。僕と一緒に訓練しよう、君ならば一流の諜報員になれるだろうさ」
「え、長官正気ですか!? まず彼に必要なのはメンタルケアで……」
「はいはい、そういうのいいから。あのね、この子は特別なんだよ」
「特別……?」


 意味が分からないとでも言いたげな医者に、くたびれた男マシェットは穏やかな微笑を浮かべて言った。



「神様の血を受け継いだ子、なのさ」



 その日からスタールはマシェットの元で訓練を行った。

 彼がスタールに求めたのは、人格の分裂を止めることではなかった。生まれてくる人格を自分の意思でコントロールし、記憶や価値観すらも思いのままに作り替えてしまう。まさに人智を外れた技術だった。
 誰もが馬鹿げた夢想だと笑った。しかし彼は、スタールという名前を得た若き諜報員は、およそ一年の訓練でそれを成し遂げてしまったのだ。

 彼は誰にでもなれるようになった。まるでスイッチ一つで心を切り替えられるロボットのように、自分とはまったく別存在の、違う記憶、異なる経験、多様な価値観を持った別人に。


「それじゃあ、次は諜報員としての訓練だ」


 スタールの成長は目覚ましかった。一を教えれば十を理解し、たった一度の訓練でことごとくを自分の技術とした。そのうえ自分の心が壊れているのにも関わらず、他人の心を容易く見透かせるようになっていった。


「今日から君は一人前だ。我が機関の諜報員として、立派に務めを果たしてくれよ?」
「はい、長官」


 完全無欠な諜報員は、そこであっさりと誕生したのだ。誰もが羨むような功績を次々と叩き出し、あまりにも有能な諜報員『隣人』という呼称で呼ばれるようにもなった。

 しかしそんな彼にも、大きな悩みがあった。


「任務完了……」


 完璧に任務をこなしていた彼は、任務を終えるたびに人格を元の“スタール”に切り替える必要があった。しかしその切り替えによって、“スタール”はしばしば別人格の影響を強く受けるようになった。

 それは至極当然な理由からだ。

 主人格である”スタール“の役目は、機械的に任務に相応しい別人格を作り上げることだけだった。そのせいか彼には定まった価値観もなく、好悪もなく、個人的なこだわりなんてものもなかった。そのころの“スタール”は、まっさらだったのだ。

 だが任務のために作り出される人格は”スタール“とは比べるまでもなく、一人の人間だった。彼だけの価値観を持ち、彼だけの経験を有し、彼だけの感情を持っていた。

 だから人格の切り替えを行うたびに、”スタール“は不安定になった。頭の中で混ざり合う他人格の思考が、記憶が、”スタール“を大きく歪めてしまうのだ。


「……、任務、完了」


 それがひどく、恐ろしかった。混ざり合う感情を正そうと思考を巡らせるほどに、揺らぎは大きく、深く影響を及ぼした。
 本気で心を通わせたターゲットを始末したこと、本気で愛し合ったターゲットを裏切ったこと。そんな別人格の残滓が、泥のように心に沈澱していく。

 このままではまた自分が誰か分からなくなる。そして今の自分も消え去ってしまう。いつしかそんな不安に、“スタール”は脅かされるようになっていた。
 そのせいか彼は仕事に没頭するようになった。機械的に仕事を処理して、無駄な思考を止めてしまうことで、彼は”スタール”の揺らぎを止めていたのだ。


 けれど、そんな日常もまた、突然変わった。


「良かったら、お仕事早く終わらせて、外でケーキを食べに行きませんか?」
「……ケーキ?」
「はい。とっても美味しいんですよ」


 彼女は、ノイナはなんでもない、ただの顔見知りというだけだった。けれど彼女と初めて一緒にケーキを食べた日から、“スタール”の意識は大きく変化していった。


「先輩。今日もケーキ、食べに行きますか?」


 目的はケーキではなかった。一緒に行くことで見られる、彼女の表情だ。


「んんまぁ~い」


 幸せそうにケーキを頬張って、歓喜に満ちた声をあげる、ノイナ。
 彼女を見ていると、彼女に言われたあの言葉が嘘ではないのだと、そう思うようになっていった。


 ――好きなものがあるのは、幸せなことだと思いますよ


(幸せ……)


 彼女が好物を前にして幸せそうにするのを見ていれば、もしかしたら”スタール“にも分かるかもしれないと思った。なにかを好きになること、なにかを大切に思うこと、なにかを愛しいと感じることを。


(そうしたら、僕も……)

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