吉備大臣入唐物語

あめ

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第三章『野馬台詩』

野馬台詩 6

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 頭が痛くなるほどの称賛の嵐からやっと抜け出した真備は、ふっと息を吐いて空を見上げた。もうすっかり夜だ。暗くてよくわからないが、先程まで輝いていた月や星が見えないところをみると、空には雲がかかっているらしい。真備は色々な官吏達から声をかけられたが、正直さっさと帝王宮殿を抜け出したかったのでやんわりと全て断ってきた。
 外に出た瞬間、どっと疲れが押し寄せた。しかしそれよりも早く仲麻呂に会いたい。彼はこの功績をどう評価してくれるのだろう。神仏の力を借りたとはいえ、仲麻呂に頼らずに試練を突破できたことは真備にとって嬉しかった。いつも彼に頼ってしまっていた自分を情けなく思ったこともあったのだ。
 しかし、今回の件を通して真備は少し自信がついた。日本の神仏が力を貸してくれたことで、自分が日本の遣唐使として改めて認められた気がしたこだ。だからこそ、仲麻呂と共に故郷を話をしたいと思った。だからこそ、同郷の彼に会いたかった。

 真備は未だに宮殿の裏道で待ってくれているであろう仲麻呂の元へと足を早めようとした。しかし、突然背後から声がかかったので足を止める。
「真備殿」
 驚きつつ後ろを振り返った真備は、そこにいた人物を見て眉を顰めた。そこにいたのはあの主導的立場にいた役人であった。彼は真備に向かって人の良さそうな笑みを浮かべると、こちらに歩み寄り頭を下げる。
「先程の野馬台詩の解読、お見事でございました。私共々、皆感銘を受けておりましたよ」
 彼はにこやかに目を細める。真備はそれを胡散臭そうに見つめながらも、突然近づいてきた意図を必死に探ろうとする。彼も真備の様子に気がついたのか、「ああ、自己紹介がまだでしたね」と言いながら背筋を伸ばしてこちらを見据えた。
「初めまして。私は李林甫りりんぽと申します。次から次へと難題を仕掛けてばかりで、貴方からすればあまり良い印象はないでしょうね」
 真備はその通りだと言ってやりたくなったが、不思議と敵意が感じられないことに気づいて首を捻る。
 それにその言葉。まるで自分が首謀だということを自白しているような口ぶりではないか。
「なぜ私が貴方に声をかけたのか不思議に思っておられるのでしょう?」
 図星をつかれて真備は少々たじろいだ。それと同時に彼の切れ長な目が不思議な光を含む。
「私は貴方に忠告をしにきたのです。いや、正直貴方に謝りたかったのもありますね」
「謝る? それに忠告とはどういうことです?」
 初めて口を開いた真備に、李林甫は少し目線を外した。そして些か沈黙をつくった後、どこかもったいぶったような口調で語り始める。
「我々は、貴方を囮として利用致しました。まずはその事についてお詫び申し上げます」
「······は?」
 囮だと?   真備は突然すぎる言葉に拍子抜けした。一体自分は何のための囮だったというのか。李林甫は疑問を読み取ったのか、そっと目を閉じて話を続ける。
「優秀な日本人が必要だったのですよ。我々は皇帝陛下のめいでとある物の怪を追っていましてね。どうやら白村江の戦《いくさ》の際に無念の死を遂げた日本人の死霊らしく、しばらく前からあの高楼に住み着いては都の住人に悪さをしていたようなのです。そのため一年ほど前から僧侶などをあそこに送り込んで死霊の退治を計画していたのですが、尽く上手くいきませんでした」
 真備は眉を顰めた。そんな話、仲麻呂から聞いたことは無い。第一、それではなぜ僧侶でもない仲麻呂や自分があの高楼に送り込まれたのか説明がつかなくなる。
 すると、李林甫は真備の心を読んだかのように言葉を続けた。どこか優しげな瞳を向けながら。
「実は二ヶ月ほど前、その話を聞いて我々の元を阿倍仲麻呂という日本人が訪ねてきたんです」
 真備はその名前に思わず身体を強ばらせた。
「彼は白村江の際に活躍した阿倍比羅夫あべのひらふという将軍の孫だと語りましてね、もしその死霊が本当に日本水軍の兵士ならば、私がどうにか出来るかもしれない、と力添えをしてくれることになったんです」
 確かに彼は阿倍比羅夫の孫だ。
 真備は次第にその話にのまれていった。仲麻呂は閉じ込められたと語っていたのだから、協力したと言っている李林甫の話とは矛盾が生じる。しかし、李林甫の話はあながち間違いではなさそうに思えてきた。
 それに今思えば、なぜ仲麻呂と李林甫が出会ったのか。そして彼はどういう経緯で高楼に閉じこめられたのか。
 以前一度だけ、仲麻呂にそれを問うたことがあった。しかし、あの時は言葉を濁すばかりで何も語ってはくれなかったではないか。真備はそれに気がついて李林甫に真剣な目を向ける。

 もしかしたら、仲麻呂が教えてくれなかった出来事をこの男が教えてくれるかもしれない。
 真備が考え込んでいると、その心を知ってか知らずか、李林甫はさらに淡々と続けた。
「我々は彼の優秀さを知っておりましたから。もちろん、彼に高楼の幽霊退治······というよりは幽霊への説得をお願いし、高楼へと出向いて貰いました。しかし······」
 そこで言葉を区切ると、李林甫は突然俯く。真備はそれを不思議に思って、彼の顔へと目を向けたが、そこでぎょっとしたように目を丸くする。
 彼の目に、涙が溜まっていたのだ。
「彼は、それ以来全く姿を見せなかったのです。そのため、我々は必死に彼を探しました。すると······」
「······すると?」
「高楼の近くに、彼の亡骸が」
「え?」
 真備は思わず息を止めた。

 仲麻呂は既に死んでいる?
 そんな馬鹿な、だって彼は······。

 鬼として生きているのだから。

 心臓がとくりと跳ねるのを感じた。今まで信じていた話が崩れてゆく感覚にくらくらと目眩がする。これ以上聞くと息が詰まりそうだ。
 でも、何故だろう。続きが気になって仕方がない。早く続きが聞きたい。
 真備はそんな心の乱れに思わず眉を寄せた。
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