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四章 たった一人の最愛は 下
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拓斗が戸惑った様子で走り去っていく沙羅を見て、立ち尽くしている親友へと視線を戻した。理樹は背中の向こうで、ただ遠ざかっていく遅い足音を聞いていた。
告白をもっと強く断れる方法がある。
ハッキリと拒絶してしまえばいい。
理樹は、長く生きた前世の経験からそれを知っていた。
リチャードは悪党みたいな貴族で、結婚する前の十代前半の頃から女の扱い方には長けていたし、その知識も経験も豊富だった。
『お前には興味がないんだ』
『俺は、お前が好きじゃない』
けれど『嫌いだ』といったことさえ、理樹は沙羅に対して口にしたことはなかった。
そんなこと、出来る筈がないからだ。
西園寺は多分、こちらが迷って動けないでいることに気付いたのだろう。それを察したうえで、運動場で二回目に顔を合わせた時に、あんなことを言ったのかもしれない。相談があるのなら乗るよ、と。
言えるわけがない。今の俺は冷静ではないのだ。
そうでなければ、誰が眠れない夜を過ごすというのだ。
理樹は、静かに鞄を拾い上げた。それから、拓斗を通り過ぎて部室を目指した。
しばし迷いを見せた拓斗は、ひとまずは労うように「……ナイスな救出劇だったぜ」と声を抑え気味に言って、彼の後を追うように部室に入った。冷房機の電源を入れて、しっかりと扉を閉める。
「なぁ理樹、俺はとやかくいうつもりはなかったんだが……一緒にある程度過ごして、お前も彼女が良い子だってことは分かってるだろ?」
先程から無言を貫いている親友の背中に向かって、拓斗はそう声をかけた。
理樹は足を止めず、中央にある、四つの勉強机が一つの大きなテーブルを作っている席へと足を進める。
「俺としてはさ。沙羅ちゃんがいい子なのを分かっていて、なんであんな可愛くて一途な子の告白を受けてやらないのかなぁ、とか最近は少し思うところもあってさ…………。だってさ、うちの学校じゃ小動物みたいに可愛い美少女で、お前には勿体ないくらい一途で、性格も良いじゃん?」
そう言った拓斗は、ふと「言葉だけ並べると、ホントなんであの子が理樹に惚れたのか分かんなくなってきたな」と悩ましげに眉を寄せた。
テーブルの上の適当な位置に鞄を置いたところで、理樹はそれを見下ろしながら、こう呟いた。
「…………生まれ代わりって、信じるか?」
小さな声でそう口にしたら、後ろにいる拓斗が「はぁ?」と声を上げた。
理樹は構わず、独り言のように、なんとなくそれを口にした。
「……ひでぇ男がいたんだ。奴は成り上がりの貴族で、婚約破棄されると噂されていた伯爵令嬢に近づいて、破棄されるなんて知りもしなかったと彼女を慰めた。そうして結婚を申し込んでお飾りの妻にしようとして、惚れて……女は最後の最後に静かに泣いて『どうして出会ってしまったんだろう』って言って、泣いたまま死んでいったんだ」
最期の言葉は、途切れ途切れだった。けれど、自分が結婚後に彼女に抱いた『結婚までの理由と行動』への罪悪感から、彼女が言わんとする言葉がそれであるような気がした。
他に、どんな文章があるのかは浮かばなかったからだ。
彼女は心清らかで、小さな幸せの一つ一つを噛み締めて神に感謝するような、そんな女だった。その性格を考えるに、恐らくは初めて父や兄たち以外に知った男性として、幼馴染の婚約者も愛していたのだろうと思った。
それなのに、彼女の一番目の婚約者であった男は、他の美しい女に夢中だった。それを利用して、リチャード・エインワースは、まんまとその婚約破棄後の新たな婚約者に収まったのだ。
リチャードだってすぐに気付いた。結局のところ、サラ・グレイドが悪役令嬢なんていう事実はどこにもなかった。
正規の婚約者を横からぶんどった男爵令嬢は悪くないという、はじめから仕組まれ用意された舞台の中で、相手のろくでもない男は多くの友人に祝福されて結婚した。それを冷静に外から見ていた少数派は、その真実にはとっくに気付いていた。
しばらくの沈黙のあと、拓斗が「あのさ」とぎこちなく口を開いた。
「それ、漫画とかゲームとか、夢の話か……?」
「………………」
理樹は、親友に背を向けたまま黙っていた。
拓斗は悩ましげに視線をそらし「よく分かんねぇけど、俺としてはさ」と鞄を机の上に置いて言葉を続けた。
「本気で好きだと言ってくれてる子には、中途半端な態度を続けるよりも、ハッキリさせてやった方がいいと思うんだ。相手は真剣なんだからさ、お前も、一度くらい真面目に考えた方が――」
真面目に考えろ。
そう告げる言葉が聞こえた瞬間、理樹の中でこれまでずっと我慢していた何かが決壊した。この十一年間、悩まされなかったことはなかった感情が爆発し、気付けば彼は怒りを露わに拓斗を怒鳴りつけていた。
「『真面目に考えろ』だって!? 俺だって真剣に考えてる!」
いつだって真面目に、ずっと真剣に向き合っている。だからこそ、これ以上の態度と言葉でハッキリさせてやることも出来ないでいるのだ。
初めて目の前にする怒り狂う様子に気圧された拓斗が、一歩後退した。理樹だって、これは八つ当たりだと分かっていた。
それでも、何よりも真剣に考えているからこそ、それを否定されるという逆鱗に自分を抑えることが出来なくて、理樹は荒れ狂う心に心臓が切り裂かれるこの痛みを吐き出すように、拓斗の胸倉を乱暴に掴んだ。
「お前に何が分かる!? 愛していたんだッ、俺は夫婦となった彼女を、いつしか妻と彼女を心から愛していたんだよ!」
嫌いだなんて、記憶がないとしても彼女本人に言えるはずがないのだ。
嘘であったとしても、悪党のよう貴族であった彼にも、それだけは口に出来なかった。
同じ魂を持って、同じ顔をして、この世界でようやく手に入れた幸福な家族のもとで生き、苦しみも寂しさも知らずに笑う幸福な娘に、そんなこと言えるはずがない。
「愛する人を失って数十年を生きる絶望が分かるか、これが夢であったらどんなにいいかと、自分の死を願っても数十年も生きた苦しみを知っているか!」
「理樹、お前ちょっと落ち着――」
「泣かせて先に死んだ妻が目の前にいて、前世の記憶が戻って、それで冷静でいられると思うかッ? 俺は妻となった彼女に恋をして、愛して、共に生きて」
喉まで膨れ上がった感情に呑まれ、一瞬言葉が詰まった。
「………………彼女が俺の、全てだったんだ」
どうにか絞り出そうとした声も震えた。理樹は、拓斗の胸倉を掴む手を小さく震わせて、ゆっくりと視線を落とした。
どうして出会ってしまったんだろう?と彼女は言った。
俺だって、どうして彼女を選んでしまったのだろう、と思った。
俺はひどい男だ。あのまま何しなければ、彼女は自分から愛する運命の人を見付けられたかもしれない。
その別の誰かを選んでいれば、彼女はその男と愛する幸せな人生を送って、泣くこともない最高の幸せの中で、最期を迎えることが出来たのではないだろうか。
そんな想いばかりが過ぎった。俺は、彼女の運命ではなかった、と。
俺は自分のことしか考えていなくて、そうやって彼女を選んだのだ。彼女は優しい女性だったから、婚約者となった俺を愛する努力をして、そうやって一番目に想った誰かの次に愛してくれたのだろうか、と考えたりもしてしまう。
どうして前世の記憶なんて戻ったのだろう。
戻るのなら、時間を逆行させて欲しかった。
どうせならゲームでよくある話のように、あのクソみたいな貴族の男が過ごした時間を遡り、記憶がある状態であの日に戻して欲しい。
彼女に初めて声を掛ける前の日から、全てをやり直したい。
そうしたならば、俺は、声なんてかけない選択をするだろう。
今度こそ、彼女が最期に未練のような涙を流さない、幸せな人生を送って欲しいと思った。五歳の頃に記憶が蘇ってすぐ、心からそれを願って、同じ過ちを繰り返してなるものかと心に決めたのだ。
愛してた。今でも愛してる。
たった一人の最愛の女性だった。
忘れられるはずがない、だって彼女は俺の、大切な妻だった――
口の中で呟いたら、思わず涙がこぼれ落ちた。理樹はどうにか堪えようとしたが、熱くなった目頭を押さえても、指の隙間からボロボロとこぼれ出て止まってくれなかった。
既に胸倉を掴んでいる片手は、指先で押すだけで簡単に解けるくらいに緩んでいた。拓斗は、目の前で静かに肩を震わせる理樹を見て、しばらく掛ける言葉が見付けられなかった。
「…………理樹、それ、マジな話なのか?」
拓斗は遅れて我に返ると、ひとまず落ち着けよと慌てて、親友の涙を止めることから始めることにした。
告白をもっと強く断れる方法がある。
ハッキリと拒絶してしまえばいい。
理樹は、長く生きた前世の経験からそれを知っていた。
リチャードは悪党みたいな貴族で、結婚する前の十代前半の頃から女の扱い方には長けていたし、その知識も経験も豊富だった。
『お前には興味がないんだ』
『俺は、お前が好きじゃない』
けれど『嫌いだ』といったことさえ、理樹は沙羅に対して口にしたことはなかった。
そんなこと、出来る筈がないからだ。
西園寺は多分、こちらが迷って動けないでいることに気付いたのだろう。それを察したうえで、運動場で二回目に顔を合わせた時に、あんなことを言ったのかもしれない。相談があるのなら乗るよ、と。
言えるわけがない。今の俺は冷静ではないのだ。
そうでなければ、誰が眠れない夜を過ごすというのだ。
理樹は、静かに鞄を拾い上げた。それから、拓斗を通り過ぎて部室を目指した。
しばし迷いを見せた拓斗は、ひとまずは労うように「……ナイスな救出劇だったぜ」と声を抑え気味に言って、彼の後を追うように部室に入った。冷房機の電源を入れて、しっかりと扉を閉める。
「なぁ理樹、俺はとやかくいうつもりはなかったんだが……一緒にある程度過ごして、お前も彼女が良い子だってことは分かってるだろ?」
先程から無言を貫いている親友の背中に向かって、拓斗はそう声をかけた。
理樹は足を止めず、中央にある、四つの勉強机が一つの大きなテーブルを作っている席へと足を進める。
「俺としてはさ。沙羅ちゃんがいい子なのを分かっていて、なんであんな可愛くて一途な子の告白を受けてやらないのかなぁ、とか最近は少し思うところもあってさ…………。だってさ、うちの学校じゃ小動物みたいに可愛い美少女で、お前には勿体ないくらい一途で、性格も良いじゃん?」
そう言った拓斗は、ふと「言葉だけ並べると、ホントなんであの子が理樹に惚れたのか分かんなくなってきたな」と悩ましげに眉を寄せた。
テーブルの上の適当な位置に鞄を置いたところで、理樹はそれを見下ろしながら、こう呟いた。
「…………生まれ代わりって、信じるか?」
小さな声でそう口にしたら、後ろにいる拓斗が「はぁ?」と声を上げた。
理樹は構わず、独り言のように、なんとなくそれを口にした。
「……ひでぇ男がいたんだ。奴は成り上がりの貴族で、婚約破棄されると噂されていた伯爵令嬢に近づいて、破棄されるなんて知りもしなかったと彼女を慰めた。そうして結婚を申し込んでお飾りの妻にしようとして、惚れて……女は最後の最後に静かに泣いて『どうして出会ってしまったんだろう』って言って、泣いたまま死んでいったんだ」
最期の言葉は、途切れ途切れだった。けれど、自分が結婚後に彼女に抱いた『結婚までの理由と行動』への罪悪感から、彼女が言わんとする言葉がそれであるような気がした。
他に、どんな文章があるのかは浮かばなかったからだ。
彼女は心清らかで、小さな幸せの一つ一つを噛み締めて神に感謝するような、そんな女だった。その性格を考えるに、恐らくは初めて父や兄たち以外に知った男性として、幼馴染の婚約者も愛していたのだろうと思った。
それなのに、彼女の一番目の婚約者であった男は、他の美しい女に夢中だった。それを利用して、リチャード・エインワースは、まんまとその婚約破棄後の新たな婚約者に収まったのだ。
リチャードだってすぐに気付いた。結局のところ、サラ・グレイドが悪役令嬢なんていう事実はどこにもなかった。
正規の婚約者を横からぶんどった男爵令嬢は悪くないという、はじめから仕組まれ用意された舞台の中で、相手のろくでもない男は多くの友人に祝福されて結婚した。それを冷静に外から見ていた少数派は、その真実にはとっくに気付いていた。
しばらくの沈黙のあと、拓斗が「あのさ」とぎこちなく口を開いた。
「それ、漫画とかゲームとか、夢の話か……?」
「………………」
理樹は、親友に背を向けたまま黙っていた。
拓斗は悩ましげに視線をそらし「よく分かんねぇけど、俺としてはさ」と鞄を机の上に置いて言葉を続けた。
「本気で好きだと言ってくれてる子には、中途半端な態度を続けるよりも、ハッキリさせてやった方がいいと思うんだ。相手は真剣なんだからさ、お前も、一度くらい真面目に考えた方が――」
真面目に考えろ。
そう告げる言葉が聞こえた瞬間、理樹の中でこれまでずっと我慢していた何かが決壊した。この十一年間、悩まされなかったことはなかった感情が爆発し、気付けば彼は怒りを露わに拓斗を怒鳴りつけていた。
「『真面目に考えろ』だって!? 俺だって真剣に考えてる!」
いつだって真面目に、ずっと真剣に向き合っている。だからこそ、これ以上の態度と言葉でハッキリさせてやることも出来ないでいるのだ。
初めて目の前にする怒り狂う様子に気圧された拓斗が、一歩後退した。理樹だって、これは八つ当たりだと分かっていた。
それでも、何よりも真剣に考えているからこそ、それを否定されるという逆鱗に自分を抑えることが出来なくて、理樹は荒れ狂う心に心臓が切り裂かれるこの痛みを吐き出すように、拓斗の胸倉を乱暴に掴んだ。
「お前に何が分かる!? 愛していたんだッ、俺は夫婦となった彼女を、いつしか妻と彼女を心から愛していたんだよ!」
嫌いだなんて、記憶がないとしても彼女本人に言えるはずがないのだ。
嘘であったとしても、悪党のよう貴族であった彼にも、それだけは口に出来なかった。
同じ魂を持って、同じ顔をして、この世界でようやく手に入れた幸福な家族のもとで生き、苦しみも寂しさも知らずに笑う幸福な娘に、そんなこと言えるはずがない。
「愛する人を失って数十年を生きる絶望が分かるか、これが夢であったらどんなにいいかと、自分の死を願っても数十年も生きた苦しみを知っているか!」
「理樹、お前ちょっと落ち着――」
「泣かせて先に死んだ妻が目の前にいて、前世の記憶が戻って、それで冷静でいられると思うかッ? 俺は妻となった彼女に恋をして、愛して、共に生きて」
喉まで膨れ上がった感情に呑まれ、一瞬言葉が詰まった。
「………………彼女が俺の、全てだったんだ」
どうにか絞り出そうとした声も震えた。理樹は、拓斗の胸倉を掴む手を小さく震わせて、ゆっくりと視線を落とした。
どうして出会ってしまったんだろう?と彼女は言った。
俺だって、どうして彼女を選んでしまったのだろう、と思った。
俺はひどい男だ。あのまま何しなければ、彼女は自分から愛する運命の人を見付けられたかもしれない。
その別の誰かを選んでいれば、彼女はその男と愛する幸せな人生を送って、泣くこともない最高の幸せの中で、最期を迎えることが出来たのではないだろうか。
そんな想いばかりが過ぎった。俺は、彼女の運命ではなかった、と。
俺は自分のことしか考えていなくて、そうやって彼女を選んだのだ。彼女は優しい女性だったから、婚約者となった俺を愛する努力をして、そうやって一番目に想った誰かの次に愛してくれたのだろうか、と考えたりもしてしまう。
どうして前世の記憶なんて戻ったのだろう。
戻るのなら、時間を逆行させて欲しかった。
どうせならゲームでよくある話のように、あのクソみたいな貴族の男が過ごした時間を遡り、記憶がある状態であの日に戻して欲しい。
彼女に初めて声を掛ける前の日から、全てをやり直したい。
そうしたならば、俺は、声なんてかけない選択をするだろう。
今度こそ、彼女が最期に未練のような涙を流さない、幸せな人生を送って欲しいと思った。五歳の頃に記憶が蘇ってすぐ、心からそれを願って、同じ過ちを繰り返してなるものかと心に決めたのだ。
愛してた。今でも愛してる。
たった一人の最愛の女性だった。
忘れられるはずがない、だって彼女は俺の、大切な妻だった――
口の中で呟いたら、思わず涙がこぼれ落ちた。理樹はどうにか堪えようとしたが、熱くなった目頭を押さえても、指の隙間からボロボロとこぼれ出て止まってくれなかった。
既に胸倉を掴んでいる片手は、指先で押すだけで簡単に解けるくらいに緩んでいた。拓斗は、目の前で静かに肩を震わせる理樹を見て、しばらく掛ける言葉が見付けられなかった。
「…………理樹、それ、マジな話なのか?」
拓斗は遅れて我に返ると、ひとまず落ち着けよと慌てて、親友の涙を止めることから始めることにした。
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