【完結】燃えゆく大地を高潔な君と~オメガの兵士は上官アルファと共に往く~

秋良

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第二章

35. 自分のため、皆のため

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「どう、して……ですか……?」
「どうしてって、お前さん、二回も前触れなくぶっ倒れてるんだぞ? おそらくだが、体が抑制剤自体に拒否反応を起こしてる可能性も高い。だから、まずはいったん体から薬を抜いたほうがいい。死にたくなきゃ、薬が抜けるまでは何であれ抑制剤はとるな。緊急薬もやめとけ。市販のやつが入手できても俺が許可するまで禁止だ」

 かろうじて疑問を返したレオンスに理由を告げた医師の目は真っ直ぐだった。
 間延びした口調も、いつの間にか六割減といった具合で、いかにも的確な診断を下す真剣な医師のそれであった。

 無論、医者の言うことは聞くべきだ。けれども——けれども、だ。
 レオンスには素直に首を縦に触れない事情がある。

「で、ですが……俺、今月の終わり頃には発情期が来る予定で……」

 レオンスの発情期は予定であればあと一ヶ月もない。
 新薬の服用を中止されたとして、それまでに市販の抑制剤が手に入れば最悪はどうにかなる。予定外のヒートさえ起きなければ、発情期でない限り薬を飲まずとも、ただの人と同じように生活はできるのだ。だが、発情期が来てしまえば、何であろうとも抑制剤を飲まないわけにはいかないだろう。市販の抑制剤があればそれを。なければ、今ある新薬を服用するほかはない。
 抑制剤無しで発情期を迎えるオメガほど、役に立たないものはないのだから。

 抑制剤を何の服用もせずに発情期を迎えるなど、レオンスにとっては恐怖だ。
 フェロモンの分泌を抑えられず、自分の意思とは関係なく無秩序にアルファやベータを誘惑する。そして本能のままに、誘引したアルファやベータを貪り食う。情欲に濡れ、溺れ、己の体が満たされるまで止まることなく相手を喰らいつくす。

 もしそうなってしまったらと思うと、ゾッとした。
 心の通っていない相手との性交に抵抗があるレオンスにとって、少なくとも発情期中は何が何でも抑制剤は服用したい。

「俺……抑制剤を使わないなんて……」
「レオンス、いいから聞け」

 頭を真っ白にして呆然とするレオンスに、クロードは医師の顔をして、首を横に振る。

「薬を抜いてる間に迎える発情期中は、隔離できる場所をきちんと用意する。アルファもベータも近づかないようにして、期間中のやりとりはオメガのやつらに任せる。いいか? お前さんの身の安全はきちんと保障する。いや、ここの隊長に保障させる」
「…………身の安全って、それは……有り難い、ですけど……」

 真っ白な頭に、クロードの医師としての判断が嵐のように入ってくる。
 オメガのレオンスが抑制剤を使わずにヒートを迎えたら、誰彼構わずに欲を満たしてくれる相手を誘惑してしまうだろう。それを防ぐ方法として、レオンスを隔離できる場所を用意してくれるという提案は、状況としては正しい判断だ。
 だが、その状況を思い描けば描くほどレオンスは慄然とした。理性をなくして、雄を求める自分の姿は想像するだけで吐き気がする。

「それに、もしレオンスが望めるようなら、今からでも相手を見つけておくのもいい。抑制剤無しでヒートに挑むんだ。かなり負担はでかいはずだ。お前さんは考えたくもないだろうが、医者としてはそっちを勧める。でも、それが嫌って心情も理解できる。だから、必ず相手を作れ、なんて無理強いはしない。お前さんが望んだ場合に選べばいい」

 レオンスがなおも抵抗を見せていることに、クロードは何かと察してくれたのだろう。
 心を通じあわせていない相手との性交を求めていないと、シモンにもクロードにも明確に言葉で伝えたことはないはずだ。しかし、シモンには配属された初日での自己紹介の際に、相手はいないが気遣いは無用だと伝えているし、この要塞内にレオンスの相手がいないことは大っぴらに話されていないだけで誰もが周知の事実のため、クロードも想像はつくだろう。

(きっと最大限、譲歩してくれてるんだよな……)

 レオンスも、軍人や戦地特有の交流の延長として、性交のお誘いを受けたことはある。ここには、いい年をした男が多く詰めている。下卑た誘いというよりは、本当に遊びの一つに誘うような気安さで、フリー同士仲良くやらないかという具合に声をかけられたのは一度や二度ではない。しかしその手の誘いには丁寧に断りを入れて、一切乗らなかったので、いつしか遊び相手にはならないと認識されていた。無理強いをする者も、揶揄する者も、この要塞にはいなかった。
 そういう事情を、シモンもクロードも察してくれているようだった。

 だからクロードが伝えている『判断』は、きちんとレオンスのことを考えてくれているものだ。それは十分に理解できる。十分理解はできているが、受け入れられるかどうかについては、心はかなりの時間を要していた。

「——シモンもそれでいいだろ?」
「そうだな…………、レオンスもそれで納得してくれればだが……」
「言っとくけど、本当に命にかかわるからな。可愛い部下を死なせたくないなら、医者の言うことは聞け。納得とか、そーいうんじゃない。当面の間、薬の服用は断じて許可できねーって言ってるんだ」
「……わかった」

 クロードの判断に逡巡の余地を見せかけたシモンだったが、命を引き合いに出されたことから重々しくも頷いた。誰もが羨みそうな男らしい美貌の眉は、深く皺が寄せられる。

 頭を整理するように一度目を閉じて、シモンはじっと黙っていた。
 レオンスは何か言葉を投げかけたかったが、もはや何を言っても自分に決定権がないことは理解していた。軍医の言うように「レオンスが納得できるか否か」はもはや議論の中にない。
 それに、クロードにも黙っていろと視線を送られてしまい、口を開くことができなかった。飄々とした印象が先に立つが、クロードもまたアルファなのだ。彼にとって威圧されればレオンスは何も言えなかった。
 だから、レオンスは美貌を持つ軍人の、その睫毛に縁取られた目蓋の裏にある深緑の光を思い出しながら、男の顔を見つめ続けることしかできずにいた。

(オメガは弱い生き物だ)

 こういうとき、自分の弱さをまざまざと見せつけられる。
 アルファに逆らえないオメガ。
 いや、今に関して言えば、アルファの彼らが言っていることは正しい。何も間違ってはいない。むしろ面倒なことになっているレオンスを助けるために適切な処理を施そうとしている。
 オメガという性に翻弄されて、一人では冷静な判断ができなくなっている自分が情けないだけだ。

 やがて、男はすぅっと静かに目蓋を上げた。そこには、やたらと気遣わしげでいて、それでいて確固たる意志を持った瞳があった。その瞳をレオンスに向けて、シモンは非情な内容を告げた。

「レオンス。クロードの言うように君のことを考えて、新薬、市販薬に問わず、全抑制剤の服用は当面の間禁止だ。それと……本来、隔離という対応はやるべきことではないと私も思うが、望まない結果を得たくない君の考えと、この要塞の情勢を考慮するとやむを得ない状況ではある。だから、抑制剤を飲まずして発情期を迎えることと、その期間は隔離されることを、どうか受け入れてほしい。これは命令ではなく、君個人への願いだ。……頼む」

 それは命令ではなく、願いだという。
 隊長であるシモンが命じれば済むところを、あえて『願い』として聞き届けてほしいと彼は言ってきたのだ。

 それが彼からの最大限の譲歩であり、レオンスを思いやってのことだというのは、さすがのレオンスでも気づいた。

「…………わかりました。俺も……望まぬ結果は、避けたいです」
「すまないな、レオンス」
「いえ。仕方がないこと、ですから」

 ——そう、これはどうしようもないことだ。

 レオンスがオメガなのは変えられないし、抑制剤を使わずに発情したオメガにアルファやベータが欲情してしまうのもどうしようもない。副作用だってレオンスの思い通りにできるものじゃない。命を天秤にかけて無理をするのは得策ではないことはレオンスが一番わかっている。
 要塞にいる皆のため、そしてレオンス自身のためにも、発情期中は隔離してもらうのが最善だ。

 人権という言葉を言うのであれば「隔離されたくない」「薬を飲まないのも受け入れられない」なんて発言のほうがどうかしてる。これは最大限の譲歩であり、シモンがレオンス個人を思っての判断であることを、レオンスは理解していた。

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