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後編
しおりを挟む「母さん、今日は俺が荷物を持つから安心して沢山買いなよ」
15歳になった息子は最近頼もしくなった。
ある日息子は真剣な顔をして言った。
『母上もうこの家を出ましょう。あれはもうただの獣に成り下がった男です。俺もあと数年すれば働けます。だからもう無理に笑わないでください。俺が母上もメリアも守ります』
子供だと思っていた息子は私が思うより子供ではなかった。
この3年で本当に逞しくなった。
もう家を出ようと決めた日、子供達は私に付いてくると言った。夫には『離縁してください』とメモとサインを残し、お父様にも誰にも何の相談もせず勝手に家を出た。お父様は帰ってこいと言ってくれた。けど街で暮らすと決めた。
息子に言われたからではない。もう私が限界だった。3年我慢した。でも3年しか我慢出来なかった。彼の妻の顔を取り繕う事も、もうどうやって笑っていたのかさえも分からなくなった。
自分が自分でなくなるような、何かが壊れていくような、そんな毎日をもう過ごせなかった。
お茶会で誰かに噂されるのも、誰かに笑われるのも、それを笑顔で耐えるのも、もう限界だった。誰の顔も見たくない。誰の声も聞きたくない。
貴族という身から離れたかった…。
私達は家を出て家族3人街で暮らしている。3年も経てば生活も安定してきた。初めはお父様に援助してもらいながら、今はその援助も断った。
元貴族が街で働く、初めは好奇の眼差しに、敬遠され働く事もままならなかった。嫁入りの時に持ってきた宝石を売ろうと入った商会で優しい会長夫人と出会った。
『宝石を売るくらいならこれを売りなさい。高く買ってあげるから』
夫人は私の薬指にいつの間にか馴染んでいた指輪を指さした。
あの人から貰った物は全て置いてきた。宝石もドレスも。持って出た物は嫁入りの時に持ってきた私の荷物だけ。
嵌めている事すら忘れるほど馴染んだ薬指の指輪を外し机に置いた。違和感が残る薬指を何度も触った。
『こんなものさっさと売っちゃえばいいのよ。このお金で美味しいものをお腹いっぱい食べなさい。お腹がいっぱいになったら今度はぐっすり眠りなさい。
案外人生なんとかなるものよ』
売った指輪の金額以上のお金が封筒に入っていた。人の優しさに枯れていたはずの涙が溢れていた。
その後多く入っていたお金を返そうと商会へ行き、『こっちも商売人なんだからたまたま計算間違いで多く渡していたとしても、返せなんてそんな無粋な真似はできないわ。でもそうね、貴女の気がすまないと言うのならここで働いてくれない?』その日のうちに商会で雇ってもらった。優しい会長夫妻や優しい従業員達と毎日楽しく働いている。
「母さん早く早く」
「待ってショーン」
『ドン』と肩が当たった。
「すみません」
私は頭を下げた。鼻をくすぐる忘れもしないあの甘ったるいあの香り。
息子に笑いかけていたまま下げた笑顔がふっと消えた。私は勢いよく顔を上げあの香りの主をじっと見つめた。
「知り合いか?」
「いや、知らない人だ」
「なら行くぞ」
「ああ」
私はずっと見つめていた。
「まだ見てるぞ、お前の客だった人じゃないのか?あぁ最近は女じゃないか、あの人にご執心だもんな」
「お、おい!」
「ようやく本気で愛せる人が現れたって言ってたじゃないか。俺には考えられないけどな。でも女好きのお前がまさかお…」
香りの主は辺りをキョロキョロと見渡しご友人の口を押えた。
「こんな所で言うな」
「これでも俺は喜んでいるんだぞ?ようやくお前が幸せにしたい奴が現れてなによりなにより。幸せなんだろ?」
「まあな」
照れているその姿をご友人は茶化すように笑っている。
そして香りの主も笑っている。
そうね貴方はいつだったか言っていたわ。『女は汚い。人のものを平気で奪う。奪われた人の気持ちも何も考えない。綺麗に着飾ってもその中身は醜い獣だ』
私は貴方にとって初めから女ではなかったの?
そういう世界があるとは聞いていたわ。それにあの甘ったるい香り、今思えば女性はあまり好まない。
そう、香水というよりは香のような、蝋のような…、少し燻された煙のような匂いが混ざっていた。
香りの主が去ったのに今も私の鼻に残るあの香り。
貴方は誰かを幸せにしたいんじゃなくて、誰かに幸せにしてもらいたかったの?
そしてその相手は私ではなかった。
貴方が見ていたものは何?
貴方は傷つく母親しか見ていなかった。
私が傷つくなんて思ってもいなかったのよね?
母親の涙は何度も見たんでしょうね。
でも私の涙は一度も見ていない。
私は隠れて泣いていたもの。
あの狭い物置部屋。唯一私になれる場所。
私は何度も声を殺して泣いていたのよ?
貴方に残るあの吐き気のする甘ったるい香り。
貴方に残るあの真っ赤な花。
貴方は夫の顔をして父親の顔をして、でも中身は醜い獣だったのね。
貴方が言う女性と貴方と、どちらが醜い獣なのかしら。
それともお相手?
ただの男になろうが醜い獣になろうが、もう私とは関わりのない人。
「母さん?」
「ごめんなさい、もう大丈夫。さぁ今日はショーンがいるから沢山買うわよ」
甘ったるい香りの主が消えていった人混みとは反対の、商店が立ち並ぶ街の中に私と息子は笑顔で入っていった。
完結
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