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前篇:夢の通ひ路

第四十四話 其の一

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 細かな装飾の施された立派な唐櫃からひつの中に、紙の束や巻物が数え切れないほど入っていた。壁を囲むように置かれた棚の中にも書物が所狭しとある。おそらく、そこに入りきらないものを唐櫃に入れたのだろう。
 その一つを遠慮がちに手に取ると『古今和歌集』の歌が、また一つ取ると『竹取物語』の内容の一部が書かれていた。他のものにも、同じように歌や物語が記されているのだということは中を見ずとも分かった。

「そなたに礼をしたいと考えたのだが、我はそなたのことをよう知らなんだ。そなたが物語を好きだということだけは知っていたので、喜ぶか分からぬが……」

 そう言って姫宮が私に見せたのは、彼女の部屋の隣にある塗籠の中に置かれた棚と櫃、その中身だった。しばし私が呆然としたのも仕方ないことだと思う。
 目の前は、突然(私にとっての)宝の山が現れたのだ。例えれば、金銀財宝を全部詰め込んだ船のようなものである。しかも一つ二つではない、棚も櫃も合わせればかなりの数だ。
 姫宮の許しを得て、『古今和歌集』をぱらぱらとする度に、胸がわくわくとすることを止められない。

 この時代の書物に、こんなにも沢山お目にかかることができるなんて!!
 なんという幸せだろう、ああ、幸せすぎる……

「……やはり、これでは礼にならぬな」

 何を勘違いしたのか、姫宮しょんぼりとした様子でそう言い、塗籠ぬりごめを出ようとしたので、私は慌てて首を横に振った。全くの逆だ。無感動だったのではなく、感動に打ち震えて声も出なかったのだ。

「姫宮様、これ以上の褒美はございませんわ!」

 思わず彼女の両手をぎゅっと握って言うと、姫宮は「そ、そうか」と若干引き気味に口角を上げた。



 ――話は少し前に戻る。

 そう、ほんの少し前まで、私は五条院の前庭でプチ宴に参加していた。メンバーは言わずもがな、畏れ多くも、院、宮、姫宮の三人である(他、お付きの女房達が数十名)。

 姫宮が文で私を急ぎ呼んだのは、この宴の一員に私を加えるためだったらしい。五条院に参じた時には既にそれは始まっていて、宮の笛の演奏もその一環だったということなのだが……、なぜそんな、そうそうたる顔ぶれに私が混ざることになったのかというと、これまた少し説明を必要とする。

 この時代の宴というと、月の宴だの、藤の宴だの、管弦の遊びだの、とにかくまあ色々とあるわけなのだけれど、中身はほぼ現代と同じ。いわゆる、飲めや食えや歌えや(※和歌や漢詩などの方)の宴会だ。今回のものはそのどれにも該当しない。五条院の前庭で行う、限られた数名だけの宴――というよりは、ピクニックに近いものである。

 なんでも、姫宮がなんとか外を歩けるようになり、院や宮との家族の絆を取り戻しつつあることを祝おうと院が提案し、あれよあれよという間に日時や詳細が決まったらしい。宮が言うには、宴をきっかけに、院が姫宮との距離を更に縮めたい、楽しい思い出を作りたい、という明確な目的があったそうで、そこまでは、なるほど私も理解ができた。
 内々だけのピクニックを行うならば、(院がいる以上)警備もしっかりしている五条院の前庭でというのも頷けるし、院の主導なら、プチ宴といいつつもやたら豪華なのも理解できる。今時期は紅葉が美しいし、何より過ごしやすい気温だ。外でそういった催しを行うのはロケーション的には最高だとも思う。

 ちなみに宮は、「姫宮とのことは時間をかけるべきで、余りいてはいけない」と院を一応諫めたそうなのだが、院は聞く耳持たずに上機嫌で実行。姫宮とのすれ違いを解消できたことが、父として、よほど嬉しかったのだろう、とのこと。この辺りは、宮が苦笑いをしながら話していた。
 姫宮のもう一人の兄上である帝は、さすがに内裏を動くことはできないので、それ以外の家族三人という面子というわけだ。

 問題は、その家族団らんになぜ一人だけ左大臣家の私が呼ばれたかということだった。
 これがまた驚いたのだけれど、院も宮も、姫宮までもが望んだからというのだ。どうも、家族の絆を取り戻せた第一人者は私、ならば私を招かないという選択肢はあり得ない、ということで満場一致したんだとか。

 確かに私は、形式上は宮と結婚しているし、彼の妻である。全くの部外者というわけではないのだけれど…… それにしたって、このメンバーと宴というのは、いささかどころではない緊張感があった。まさか皆様方の前で失態を見せるわけにはいかない。いつもの睡魔も、この時ばかりはどこへ行ったのか、とにかく寝落ちしなかったことだけは良かったと心底思う。

 正直、目の前に並んだ素晴らしい膳の、おそらく味も素晴らしいであろう料理のことを何一つ覚えていない。盛り付けも、出された食材も。そもそも、私は膳のものを口にしたのだろうか…… いや、全く手を付けないとそれは失礼なのでいただいたのだろう。

 かなり極限の状態で出席していたということは、自分でも十分に分かっている。
 宴がお開きとなったところで、恐ろしく疲れていたのは、そういうことだろう。同じく姫宮も慣れぬことに相当疲れた様子であった。それを察した院が姫宮のことを案じて、宴が随分と短く切り上げられたことだけは幸いだった。

 宮がやたらとこちらを可笑しそうに、一方で時折心配そうにも見つめていたが、もはや会釈する余裕もなかった。その宮が宴終了時に私を捕まえるよりも少し先に、姫宮が「そなたは我と共に参れ、兄上とは夜に会えるであろう」などと私をぐいぐいと引っ張って部屋に行き、そのまま塗籠ぬりごめへ直行。
 今はここである。



「そなた、ほんに物語が好きなのじゃの」

 姫宮がぽそりと呟いたので、私は大きく頷いた。
 平安に生きる姫宮が分からないのは無理もないが、このひつごと現代に残っていたらと想像すると疲れも忘れて興奮してしまう。もう至宝どころではない代物になるはず!

 そんな、研究者としての血も騒ぐが、単純に書物が好きだというのもある。左大臣家にも様々な書物はもちろんあり、目覚めて寝たきりだった頃は自分の立場を忘れて随分と読みふけっていたものだ。
 左大臣家の『古今和歌集』や『竹取物語』も、姫宮の櫃の中身と内容は同じだが、すべてが同じということは絶対にない。印刷技術がなかった平安時代での書物の複製方法は、写本一択。一文字一文字、筆を執り、丁寧に写していたのだ。書き手によっては見え方も違ってくるし、それがまた味がある。たとえ同じ書き手でも、手書きの文字が機械のように正確な形をしているわけはなく、全く同じ書物が二つと存在しないから見ていて飽きない。
 そういう一見マニアックな楽しみ方を知っているのは、私が古典を研究してきたからなのだろう。


「それにしても姫宮様、これほどに多くの書物を一体どのように……」

 手に入れたのか、と聞きかけてやめた。
 院の可愛い一人娘である姫宮が、望めば手に入らぬものはなかっただろうし、姫宮は三の君と同じ病弱体質だ。寝たきりの暇を解消するには、書物はもってこいだ。ちょうど私もそうしていたのだから。
 口をつぐんだ私に、姫宮はフンと笑った。

「そなたの考えていることなど言わずとも分かるわ。確かに父上、兄上方が下さったものも多いが、母上が我に下さったものもある。昔、母上がよう読んで下さった」
「さようでございましたか。……あの、姫宮様、そのような思い出の深いお品に私が触れてもよいのでございますか?」
「構わぬ。大事なものは別へ移してあるので遠慮はいらぬ。そなたの気に入ったものがあれば持っていってもよい。左大臣邸にも書物はあるだろうし、気に入るものが見つかるか分からぬが」

 あるでしょうー……だって既に宝の山にしか見えない。唐櫃だって一、二個じゃない数がある。
 どれを手に取っても、私の興味を引き、好奇心を刺激するには十分なものばかりだ。さすが姫宮だけあって、有名どころはもちろんだが、マイナーな漢詩まで揃っている。

 よほど私の目はきららかに光っていたらしい。姫宮が呆れたようにため息をついた。

「なんじゃそなた、我と居るよりも楽しそうな顔をして」
「えっ。ま、まさか! そんなことはございませんわ」
「別によいわ。これは礼だからの」

 先ほどもそうだったのだけれど、やはり聞き流せず、彼女の最後の言葉が、つん、と引っ掛かった。
 私に対して明確に「姫宮のことをたのむ」と言った院ならばまだしも、姫宮自身がお礼をする理由などあるだろうか。いや、彼女がそう思う訳も分からないではないが、納得はできない。だって、私がしたくて勝手に動いていただけのことだ。お礼なんてとんでもない。

「……あの、姫宮様。先ほどからずっと気になっていたのですが、此度のこと、私は、姫宮様にお礼をしていただくようなことは何もしておりませんわ」
「何を言うておるのじゃ。我が父上や兄上と話せたのは、そなたがいたからではないか」
「いえ、私は姫宮様のお傍に仕え、こちらへ参る度に楽しくお話をさせていただいただけですもの。もしも姫宮様の中で何かが変わられたのだとしたら、それは私ではなく姫宮様がご自身でなさったことですわ」

 少しでも姫宮に自信を持ってほしいと思い言ったのだが、それは完全に失敗だったらしい。彼女はしょげた顔で俯いてしまったのだ。

「そなたは、こういうことは嫌いなのか? 我は、ただそなたに喜んでほしくて……」
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