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第43話 愛するひとの元へ

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 結婚式が終わってから、母の容体は急に悪化した。まるで、もう思い残す事がないと言うかのように。

 それでもまだ会話が出来ていた時、母は自分の死期を悟ったように、私に言った。

「私が死んだ後の事は、お前に余計な事を吹き込んだ男に任せてある。だからお前は、何も心配しなくていい」

 余計な言葉を吹き込んだ男……おそらく写真の君の事だろう。私に、母の病気を教えてくれた、母の右腕。
 あの日の事も結局、母は把握していたのだろう。でも、母の言い方からすると、彼がクビになるような事はなかったようで、安心した。

「分かりました。全てあの方にお任せします」

 私がそう返すと、母は満足そうに頷いた。

「アステ、お前にもう私は必要ない。長いようで、あっという間だった。これでもう、思い残す事はないよ」

 それが、母が私に残した最後の言葉だった。

***

 ほとんど意識の戻らない母は、それでも時折目を覚まして、私に声をかけてくる。

「ああ……そこにいるのね……リズ」

 私ではない、違う人の名前で。

 その名を私は、記憶の中から必死で探し、ようやく引っ張り出す事ができた。

 リズ。母の妹。そして、私の生みの母。人間と駆け落ちし、そして事故で亡くなってしまったひとの名前だ。

 私はそのひとの事を、一度たりとも母から聞いた事がなかった。名前だけの実母が、母の死の間際になって、ようやく私の中で輪郭を持ち始めた。

 母は、ただただ妹との思い出だけを、過去から今へとなぞるように語った。

 リズが生まれた日、その可愛さにありえないほど心躍った事。きょうだいの中で、自分を一番に慕ってくれ嬉しかった事。リズと離れがたく、自分に来た縁談を全て断り続けた事。幼い少女だったリズが、まるで大輪の花を咲かせるように美しい女性へと成長していった事。

 そして、そんな妹に、いつの間にかきょうだいへの愛情以上の気持ちを抱いてしまった事。

 妹への感情に苦しんだ母は、家族の誰にも告げず、家を出る事を決心したのだと、そして、その時の苦しみを吐露しはじめた。

「家を出て……女ひとり生きて行こうと思った……どうやって生きていけばいいかなど知りもしなかったのに……でもあのままお前のそばにいたら……辛くて死にそうだったのよ……本当の妹を……姉妹の愛で片付けられないような目で見てしまう自分が……怖かった」

 そして、家を出ようとした日の事を、まるで罪を告白するかのように語り始めた。

「誰にも言わず……黙って家を出るつもり……だったのに……お前だけは気づいて……出て行こうとする私を……止めたね。嬉しかった……でも……私がお前に抱く狂った愛情を……これ以上お前に……見せたくはなかった……泣いて縋るお前を突き飛ばして……家を飛び出してしまった……本当にすまなかった……リズ」

 母の目から、涙がこぼれた。

「今でも……お前をいちばん愛しているよ……リズ……私の……可愛い……」

 その瞬間、母の手から力が抜けていく。呼吸が少しずつ浅くなり、上下していた胸の動きも、とうとう止まってしまった。

「母様……」

 覚悟はしていた。ひとの死を見るのも、初めてではない。だが、自分の家族が死にゆく姿を目の前にするのは初めてだ。

 その瞬間、私の中の感情というものが凍りつき、悲しみも、苦しみも感じられなくなる。受け止めきれないほどの感情から、心を守ろうとしているようだった。

 私は、蘇生行為をすべきか迷った。でも、母の顔を見て、私は悟った。

 全ての重荷から解放されたような、優しい笑顔。

 このひとを、これ以上この世に引き留めてはいけないのだ。だって、やっと、愛するひとの元へと行けるのだから。

 私は、母の胸の鼓動がない事、呼吸が止まっている事、そして脈が触れない事を、時間をかけて確認していく。
 そして、母に話しかけた。

「母様、少しだけ、ひとりにしてしまう事を許して。主治医を呼ぶわ」

 私は部屋を出て、執事に母が息を引き取った事を説明し、そして主治医を呼んでくれるように頼む。正式に死亡を確認するのは主治医の仕事だ。

 そして、母の右腕であるあの男性にも連絡をしてくれるよう頼んだ。

「どうかお気を落とさずに……誰か、側に居させましょうか?」

 執事の気遣いに、私は首を横に振った。

「私は大丈夫。母の部屋にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」

 執事は頭を下げると、慌ててその場を去っていった。

「大丈夫……私は大丈夫よ……」

 そう小さく、まるで呪いでもかけるよう自分に言い聞かせながら、私は母の部屋へ戻った。

 もう冷たくなってしまった母の手を握る。あんなに凛々しかった母の手の小ささに、初めて気づく。

 私の頭に、死の直前の、母の告白が蘇る。

 狂った愛情、そう母は言った。

 でも、愛を告げる事もせず、相手の前から姿を消すなど、それこそ本当に相手を愛しているからこそできることではないのか。それが狂っているなどと言うのなら、何が正しい愛だと言うのだろう。

 それどころか、母は、愛する妹が残した子供を、未婚のまま養子に迎えた。誰も引き取ろうとしなかった混血の子供など、見なかった事知らなかった事にして、そのまま平穏に過ごせただろうに。

 母は、私を見るたびに悲しそうな顔をしていた。きっと、私の中に、愛する妹の面影を見ていたのかもしれない。断ち切ったはずの思いを呼び覚ます存在。それでも母は、私には理解できていなかったけれど、母なりの愛し方で育ててくれた。

 失って初めて気づく事ばかりだ。そしてもう、本当にそうだったのかを確かめる術もない。

 でも、私が母の娘としていられた事に、間違いなどなかった。それだけは、確信を持てた。

「母様……ありがとう。私はもう、ひとりで生きていけるから。これからは、リズとともに、あなたの幸せのためだけに過ごして……」

 届くか分からない。でも私は、そう言わずにいられなかった。
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