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退陣
六.不審の参謀
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少し前。
本堂から官兵衛が出てきた頃、雨はあがっていた。杖をつきながら階段の一番下の段まで降りたところで官兵衛が指笛を鳴らす。すると官兵衛の前に図体のでかい男がすっと立ちはだかり、跪く。
「わしを背負って御座所へ走れ。」
無言の男は跪いたまま、官兵衛に背を向ける。官兵衛が男の背に乗り、男が立ち上がるところで目の前から一人の小兵が駆けてくるのに気付く。小兵は男の前で跪き、告げる。
「安国寺恵瓊殿がお越しになっていますが、いかがいたしましょう。」
官兵衛は眉を顰める。
「安国寺の坊主じゃとぉ。こんなときにぃ・・・。」
安国寺恵瓊は毛利方の交渉役である。大柄の体格だが、声の響きは心地よく、穏やかな面持ちで怒りの表情は決して見せない。頭の回転が早く、次々と妥協らしき案を示しながらも、のらりくらりと毛利に有利に事を運んでみせる。
(曲者じゃな。)
というのが官兵衛の講評だが、秀吉方の交渉役である官兵衛も負けず劣らずの曲者である。官兵衛は熟考する。
(夜中じゃぞぉ。何しに来よったんじゃ・・・。もしかして大殿の訃報を受けたか。じゃとすると厄介じゃのぉ。簡単にわしらの要求をのむとも思えんし・・・。何を企んどる。)
小兵が催促の眼差しで官兵衛を見上げると、官兵衛は応える。
「えぇい、分かった。御座所でわしが会う。筑前殿には告げんでええ。」
小兵は一礼し、来た道を走り戻った。官兵衛を背負った男も御座所に向かって走り始める。
毛利家は元就の時代に大内氏を、輝元の時代に入って尼子氏を滅ぼし、安芸を中心に長門・周防・備後・石見・出雲を領する大大名である。元就の死後の毛利家は、仁の輝元、武の吉川、智の小早川による『毛利両川体制』を敷いていて、官兵衛は兼ねてからこの仕組みに感心していた。
(見事じゃ。敢えて分かりやすく一族皆に役割を与える。皆が役割を弁えているからこそ、いざというとき皆が一枚岩になれる。主人が全てを持っていると勘違いすれば、播磨や備中のように内から乱れる有様じゃ。)
しかし秀吉がますます中国進出を進めると、もはや毛利は敵として色濃くなり、感服などしていられなくなった。あるとき、官兵衛が毛利勢の分析・評価を講釈すると、
「水軍が要じゃな。奴らに欲しいもん与えりゃぁ、こっちのもんじゃわい。」
と秀吉はあっさり見抜いた。水軍が欲しいのは銭ではない。銭が稼げる自由である。秀吉はそのことを当然のように知っていた。陸で毛利方と戦を続ける一方で、秀吉は瀬戸内処処の水軍に工作をしかけた。”工作”といってもあちこちで政と関わりなく商いの話を拡げただけである。しかしそれだけで、いつしか水軍の方から喰いついてくる。細かな駆け引きは多少あれど、個別の交渉成立は難しいことではなかった。結果、秀吉は瀬戸内水軍の大半を織田方につけることに成功した。こうして戦局は秀吉の優位になっていくが、秀吉はこうも毛利を評した。
「戦は負ける気はせんが、勝ってもこの地を治めるのは難儀そうじゃなぁ。西へ行くほど、百姓らは銭で転ばんようになっちょう。案外と毛利殿は百姓らぁに好かれちょるわぁ。」
続けて、
「できりゃあ、敵にしたくないのぉ。何とかこっちにつかせる手立てはないかのぉ。」
とも漏らした。それは信長の意に反することだったので、秀吉が毛利と手を結ぶ動きをとることはこれまでなかったが、敵の良いところも見抜いて褒め称える秀吉に官兵衛はいっそう共感した。
そして今宵、御座所へ向かう最中、官兵衛は考える。
(さて、今の毛利は水軍を筑前殿に抑えられて兵糧の運び入れが滞っておる。その上、清水が餓死寸前じゃから、一刻も早く和議を結んで、勢力の立て直しを図りたいはずじゃ。そんな毛利が大殿の訃報をすでに掴んでいるとすると、どう出るか・・・。吉川なら交渉などせず、がむしゃらに攻めればよいと考えよう。しかしこの辺り一帯はすでに沼と化している。攻め取ったとしても兵の損失は大きいはずじゃ。もはや今年の年貢が望めぬこの地をそうまでして奪い取っても利などない。小早川ならそう考えそうじゃ。となると・・・援軍が来んことをぬけぬけと明かしながら『三日やるからここを退け。さもなくば攻める。』とか云って臨むんが得策じゃろう。坊主は交渉じゃなく、脅迫しに来たのかもしれん。じゃがそん刻は、わしらとしては腹立たしいが・・・、脅しに屈するしか手立てはなかろう。)
官兵衛の瞳に御座所の陣幕が映り込む。
(大殿のことをまだ知らんとなればどうか・・・。援軍をまだ信じてるならば、五国の譲渡はやむを得んじゃろう。必死に清水の命乞いをしてくるか。今となってはこちらは清水の首などどうでも良いんじゃが、突っぱねるか、承けるか、・・・。いずれにしてもこちらは密かに退く支度をするだけじゃがの。それにしてもなぜこんな夜中に来たんかが分からん。)
御座所の陣幕の前まで辿り着き、男は官兵衛を背から降ろす。
(考えてもしょうがない。相手の出方を探って、できるだけ有利に進めるしかなかろう。)
本堂から官兵衛が出てきた頃、雨はあがっていた。杖をつきながら階段の一番下の段まで降りたところで官兵衛が指笛を鳴らす。すると官兵衛の前に図体のでかい男がすっと立ちはだかり、跪く。
「わしを背負って御座所へ走れ。」
無言の男は跪いたまま、官兵衛に背を向ける。官兵衛が男の背に乗り、男が立ち上がるところで目の前から一人の小兵が駆けてくるのに気付く。小兵は男の前で跪き、告げる。
「安国寺恵瓊殿がお越しになっていますが、いかがいたしましょう。」
官兵衛は眉を顰める。
「安国寺の坊主じゃとぉ。こんなときにぃ・・・。」
安国寺恵瓊は毛利方の交渉役である。大柄の体格だが、声の響きは心地よく、穏やかな面持ちで怒りの表情は決して見せない。頭の回転が早く、次々と妥協らしき案を示しながらも、のらりくらりと毛利に有利に事を運んでみせる。
(曲者じゃな。)
というのが官兵衛の講評だが、秀吉方の交渉役である官兵衛も負けず劣らずの曲者である。官兵衛は熟考する。
(夜中じゃぞぉ。何しに来よったんじゃ・・・。もしかして大殿の訃報を受けたか。じゃとすると厄介じゃのぉ。簡単にわしらの要求をのむとも思えんし・・・。何を企んどる。)
小兵が催促の眼差しで官兵衛を見上げると、官兵衛は応える。
「えぇい、分かった。御座所でわしが会う。筑前殿には告げんでええ。」
小兵は一礼し、来た道を走り戻った。官兵衛を背負った男も御座所に向かって走り始める。
毛利家は元就の時代に大内氏を、輝元の時代に入って尼子氏を滅ぼし、安芸を中心に長門・周防・備後・石見・出雲を領する大大名である。元就の死後の毛利家は、仁の輝元、武の吉川、智の小早川による『毛利両川体制』を敷いていて、官兵衛は兼ねてからこの仕組みに感心していた。
(見事じゃ。敢えて分かりやすく一族皆に役割を与える。皆が役割を弁えているからこそ、いざというとき皆が一枚岩になれる。主人が全てを持っていると勘違いすれば、播磨や備中のように内から乱れる有様じゃ。)
しかし秀吉がますます中国進出を進めると、もはや毛利は敵として色濃くなり、感服などしていられなくなった。あるとき、官兵衛が毛利勢の分析・評価を講釈すると、
「水軍が要じゃな。奴らに欲しいもん与えりゃぁ、こっちのもんじゃわい。」
と秀吉はあっさり見抜いた。水軍が欲しいのは銭ではない。銭が稼げる自由である。秀吉はそのことを当然のように知っていた。陸で毛利方と戦を続ける一方で、秀吉は瀬戸内処処の水軍に工作をしかけた。”工作”といってもあちこちで政と関わりなく商いの話を拡げただけである。しかしそれだけで、いつしか水軍の方から喰いついてくる。細かな駆け引きは多少あれど、個別の交渉成立は難しいことではなかった。結果、秀吉は瀬戸内水軍の大半を織田方につけることに成功した。こうして戦局は秀吉の優位になっていくが、秀吉はこうも毛利を評した。
「戦は負ける気はせんが、勝ってもこの地を治めるのは難儀そうじゃなぁ。西へ行くほど、百姓らは銭で転ばんようになっちょう。案外と毛利殿は百姓らぁに好かれちょるわぁ。」
続けて、
「できりゃあ、敵にしたくないのぉ。何とかこっちにつかせる手立てはないかのぉ。」
とも漏らした。それは信長の意に反することだったので、秀吉が毛利と手を結ぶ動きをとることはこれまでなかったが、敵の良いところも見抜いて褒め称える秀吉に官兵衛はいっそう共感した。
そして今宵、御座所へ向かう最中、官兵衛は考える。
(さて、今の毛利は水軍を筑前殿に抑えられて兵糧の運び入れが滞っておる。その上、清水が餓死寸前じゃから、一刻も早く和議を結んで、勢力の立て直しを図りたいはずじゃ。そんな毛利が大殿の訃報をすでに掴んでいるとすると、どう出るか・・・。吉川なら交渉などせず、がむしゃらに攻めればよいと考えよう。しかしこの辺り一帯はすでに沼と化している。攻め取ったとしても兵の損失は大きいはずじゃ。もはや今年の年貢が望めぬこの地をそうまでして奪い取っても利などない。小早川ならそう考えそうじゃ。となると・・・援軍が来んことをぬけぬけと明かしながら『三日やるからここを退け。さもなくば攻める。』とか云って臨むんが得策じゃろう。坊主は交渉じゃなく、脅迫しに来たのかもしれん。じゃがそん刻は、わしらとしては腹立たしいが・・・、脅しに屈するしか手立てはなかろう。)
官兵衛の瞳に御座所の陣幕が映り込む。
(大殿のことをまだ知らんとなればどうか・・・。援軍をまだ信じてるならば、五国の譲渡はやむを得んじゃろう。必死に清水の命乞いをしてくるか。今となってはこちらは清水の首などどうでも良いんじゃが、突っぱねるか、承けるか、・・・。いずれにしてもこちらは密かに退く支度をするだけじゃがの。それにしてもなぜこんな夜中に来たんかが分からん。)
御座所の陣幕の前まで辿り着き、男は官兵衛を背から降ろす。
(考えてもしょうがない。相手の出方を探って、できるだけ有利に進めるしかなかろう。)
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