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第一章 バネッサ・リッシュモンは、婚約破棄に怒り怯える悪役令嬢である
第九話 悪役令嬢、勘違いを加速させる
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「うっきゃっ……ッ!」
犬とも猿ともつかない鳴き声があがる。
問いかけられたバネッサは、顔が真っ赤だ。
「お嬢様、すごい声が出ましたが?」
「うっ、るしゃいの、で、すわよ……!」
彼女は驚きすぎて、涙まで浮かべていた。
「落ち着いてください。こんなときまで、人を見下ろす姿勢を保ってらっしゃるのは尊敬いたしますよ」
「なんでっ、貴方はそんなに冷静なのですか! き、きすっ、ですわよ??」
恥じらうようなバネッサは、あのときを思い出したのか、へなへなと座り込む。
「そういえば、失神されたんでしたね。でしたら、そこまで覚えているはずも……失礼しました」
「うるさいーーですーーのー! 覚えてますもの!」
「階段の踊り場で、息を奪われるほど、濃厚な口付けを交わしたと? 力が抜けて、涙が零れて。殿下に支えられなければ立っていられなかった、と伝え聞いております」
メイドは、監視役から報告にあった文章を引用した。あまりに淡々というから、年若いバネッサはたじたじだ。
「言わないでくださいまし!!」
「事実でしょう?」
バネッサが動きを止める。ほつれた縦ロールが、はらりと首に滑った。
「……分かりませんの」
大きな部屋に消え入りそうな言葉だ。
「わたくし……あれがほんとに起こったことか、自信がありませんのよ……」
薄いペールピンクの爪が、頬に触れる。瞳を伏せて、部屋の片隅へ視線を落とす。
「ずっと、殿下とキスしたい、と思ってきましたの……。でも急にあんなことになって……、てっきり婚約破棄されてしまいますと、怯えてましたのに」
ぽつりぽつりと、本心を語り出す。彼女は、このメイドに恥ずかしいところも嫉妬心を剥き出しにしたところも見せてきた。だから、こうやって悪役令嬢らしくない、弱音を言えた。
「いくら私が殿下をお慕いしようとも、殿下は……素っ気ない態度をとるばかりで。キスどころか。殿下に触れられるのも、子どもの頃ぶりですし」
シーツにノの字を書く。バネッサが切なげだ。
「何より、殿下……とっても怒ってらっしゃいましたわ」
彼女は、エドワードが浮かべていた笑みを思い出す。めったに感情を出さない彼が、目を細め、口角をあげていた。そこには、青い炎を思わせる静かな熱量があった。
バネッサは、ずっと殿下を見てきたけれど、あんな真に迫る表情は初めてだ。
「本当に、殿下が怒りをあらわにしたのですか?」
「そうですわ……じゃないと、『思い知らせてあげますよ』なんて言わないでしょう?」
「……『絶対に僕と結婚してもらいますから』とも、言われたはず、ですが……」
メイドは、主に訂正を入れる。
「それは、言われましたけど」
興奮と歓喜で処理落ちしていたが、恋する乙女は「結婚」という単語を聞き逃すわけがない。
「……どうせ、立場のせいですわよ。公爵家と王家の関係を深めるためには、婚姻が必要ですもの」
足を引き寄せ、膝を抱える。自分で言ったことに傷付いて、バネッサは小さくなった。
「……ほら、お嬢様。紅茶を淹れますから、」
メイドは、そっと声をかける。長年の付き合いでしか分からないが、その声には気遣いが込められていた。
主を慰めようと、ワゴンを引っ張ってくる。茶器を取り出して、準備を始めた。手慣れた彼女はお茶を蒸らしながら、肩にブランケットを掛ける。
「『婚約破棄されてしまいますのぉ……!』と叫んでいた元気さを取り戻してください」
「空元気ですわ……貴方が思い出させるから悪いのよ」
「そうですね、悪うございました」
ぴったり四分蒸らした紅茶を差し出す。
バネッサは、無言で手を伸ばした。深く香る茶葉が、バネッサの鼻孔をくすぐる。
「でも、お嬢様。普通、好いてもいない女にキスする男はいないと思いますよ。相手が、あの殿下であるならなおさら」
「……殿下は、……わたくしのこと、あいしてくださって、いる……?」
バネッサは、信じられないことを聞いたようだった。カップを持ったまま固まって、瞬きを三度する。
「まさか、そんなことありませんわよ」
紅茶を一口含む。その温もりは、殿下のキスと似ていた。
優しいミルクの味が、バネッサを落ち着かせる。カップを置いた。
「あのキスは……そう――」
彼女は神妙な顔で呟く。
「別れの餞別だったのですね……」
バネッサは、この世の終わりに直面したように倒れ込む。
「……バネッサ、さま……」
メイドは、言いよどむ。
主が無邪気にキスを喜んでいたなら、伝えようと思っていたことがあるのだ。
エドワード殿下が、結婚式の準備を押し進めている。
そう伝えて、バネッサを喜ばせようとしていた。
だが、ここまで落ち込んでいるなら、自分が何を言っても意味がない。メイドがそう判断する。
めそめそしだす主を観察しながら、ポケットの中の報告書を握りつぶした。
この状態のバネッサに、殿下がヴェイル家に向かったなんて言えない。
犬とも猿ともつかない鳴き声があがる。
問いかけられたバネッサは、顔が真っ赤だ。
「お嬢様、すごい声が出ましたが?」
「うっ、るしゃいの、で、すわよ……!」
彼女は驚きすぎて、涙まで浮かべていた。
「落ち着いてください。こんなときまで、人を見下ろす姿勢を保ってらっしゃるのは尊敬いたしますよ」
「なんでっ、貴方はそんなに冷静なのですか! き、きすっ、ですわよ??」
恥じらうようなバネッサは、あのときを思い出したのか、へなへなと座り込む。
「そういえば、失神されたんでしたね。でしたら、そこまで覚えているはずも……失礼しました」
「うるさいーーですーーのー! 覚えてますもの!」
「階段の踊り場で、息を奪われるほど、濃厚な口付けを交わしたと? 力が抜けて、涙が零れて。殿下に支えられなければ立っていられなかった、と伝え聞いております」
メイドは、監視役から報告にあった文章を引用した。あまりに淡々というから、年若いバネッサはたじたじだ。
「言わないでくださいまし!!」
「事実でしょう?」
バネッサが動きを止める。ほつれた縦ロールが、はらりと首に滑った。
「……分かりませんの」
大きな部屋に消え入りそうな言葉だ。
「わたくし……あれがほんとに起こったことか、自信がありませんのよ……」
薄いペールピンクの爪が、頬に触れる。瞳を伏せて、部屋の片隅へ視線を落とす。
「ずっと、殿下とキスしたい、と思ってきましたの……。でも急にあんなことになって……、てっきり婚約破棄されてしまいますと、怯えてましたのに」
ぽつりぽつりと、本心を語り出す。彼女は、このメイドに恥ずかしいところも嫉妬心を剥き出しにしたところも見せてきた。だから、こうやって悪役令嬢らしくない、弱音を言えた。
「いくら私が殿下をお慕いしようとも、殿下は……素っ気ない態度をとるばかりで。キスどころか。殿下に触れられるのも、子どもの頃ぶりですし」
シーツにノの字を書く。バネッサが切なげだ。
「何より、殿下……とっても怒ってらっしゃいましたわ」
彼女は、エドワードが浮かべていた笑みを思い出す。めったに感情を出さない彼が、目を細め、口角をあげていた。そこには、青い炎を思わせる静かな熱量があった。
バネッサは、ずっと殿下を見てきたけれど、あんな真に迫る表情は初めてだ。
「本当に、殿下が怒りをあらわにしたのですか?」
「そうですわ……じゃないと、『思い知らせてあげますよ』なんて言わないでしょう?」
「……『絶対に僕と結婚してもらいますから』とも、言われたはず、ですが……」
メイドは、主に訂正を入れる。
「それは、言われましたけど」
興奮と歓喜で処理落ちしていたが、恋する乙女は「結婚」という単語を聞き逃すわけがない。
「……どうせ、立場のせいですわよ。公爵家と王家の関係を深めるためには、婚姻が必要ですもの」
足を引き寄せ、膝を抱える。自分で言ったことに傷付いて、バネッサは小さくなった。
「……ほら、お嬢様。紅茶を淹れますから、」
メイドは、そっと声をかける。長年の付き合いでしか分からないが、その声には気遣いが込められていた。
主を慰めようと、ワゴンを引っ張ってくる。茶器を取り出して、準備を始めた。手慣れた彼女はお茶を蒸らしながら、肩にブランケットを掛ける。
「『婚約破棄されてしまいますのぉ……!』と叫んでいた元気さを取り戻してください」
「空元気ですわ……貴方が思い出させるから悪いのよ」
「そうですね、悪うございました」
ぴったり四分蒸らした紅茶を差し出す。
バネッサは、無言で手を伸ばした。深く香る茶葉が、バネッサの鼻孔をくすぐる。
「でも、お嬢様。普通、好いてもいない女にキスする男はいないと思いますよ。相手が、あの殿下であるならなおさら」
「……殿下は、……わたくしのこと、あいしてくださって、いる……?」
バネッサは、信じられないことを聞いたようだった。カップを持ったまま固まって、瞬きを三度する。
「まさか、そんなことありませんわよ」
紅茶を一口含む。その温もりは、殿下のキスと似ていた。
優しいミルクの味が、バネッサを落ち着かせる。カップを置いた。
「あのキスは……そう――」
彼女は神妙な顔で呟く。
「別れの餞別だったのですね……」
バネッサは、この世の終わりに直面したように倒れ込む。
「……バネッサ、さま……」
メイドは、言いよどむ。
主が無邪気にキスを喜んでいたなら、伝えようと思っていたことがあるのだ。
エドワード殿下が、結婚式の準備を押し進めている。
そう伝えて、バネッサを喜ばせようとしていた。
だが、ここまで落ち込んでいるなら、自分が何を言っても意味がない。メイドがそう判断する。
めそめそしだす主を観察しながら、ポケットの中の報告書を握りつぶした。
この状態のバネッサに、殿下がヴェイル家に向かったなんて言えない。
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