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8. 胡乱な人
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結局その日は、あたしが本邸に行くことはなかった。
爽希さんは外でビジネスディナーだと連絡があっただとかで、雲雀さんは自室で食事、土谷さんが運んでいって終わりということになったからだ。
あたしは土谷さんと、お昼を食べたのと同じ、キッチンのテーブルで、夕食を取ることになった。
どっちにしろ、あたしの契約では就業時間は九時から六時なので、その頃には時間外、本邸にいる必要のない頃ではある。
(なんだか、難しそうな家だなあ)
今日一日の不毛っぷりを考えると、食欲も失せる気がした。
でも、そんなのは一瞬だった。
食卓につき、いざ目の前に並んだものを見たら、がぜん気分があがった。
タラの芽とフキノトウの天ぷら。
鰆の煮つけに、ルッコラとアスパラガスのサラダ。
そしてあさりのみそ汁に、あおさとホタルイカの酢味噌和え。
そして極めつけは生のやつを使った筍ごはんだ。
いわゆる『旬の食材をふんだんに使い、手間暇かけて作った家庭料理』だ。
話に聞いたことはあるけど、実物を見るのは初めてだ。
感激するしかない。
しかも、味付けも盛り付けも絶品で、さすが、プロの家政婦さんだけある。
筍ごはんなんて、おかわりまでしてしまった。
「若い人はいいわね。そんなにおいしそうに食べてくれると、作り甲斐あるわあ」
土谷さんは笑う。
「雲雀ちゃんも、それくらい食べてくれればいいんだけど……」
(うっ……)
あたしは思わず、箸を止めた。
(雇い主より食欲旺盛っての、あんまりよくないのかな……)
土谷さんはそれにすぐ気づき、また、笑った。
「いいのよ、いいのよ。遠慮せず食べなさい。食費は私たちのぶんも込みでたっぷり貰ってるし、結局ご兄妹が食べるために買ったものの残りなんだし。ただ、そのうち一緒に食事するようなことになれば、雲雀ちゃんにもいい影響になるかも、ってちょっと思っただけよ」
「一緒に食事、ですか」
「そうそう。本当はそうなのよ。前の人も、最初のうちは爽希さんや雲雀ちゃんと一緒に食事取ってたの。揉めちゃったせいで、最後のほうはこっちで私と一緒に食べてたけど」
「土谷さんは向こうで一緒に食べないんですか」
ふとした疑問をぶつけてみる。
「私はまあ、給仕担当だからねえ……。ああ、それと、呼び方は名前のほう、志麻でいいわよ」
そう言われてみると、あれこれ世話しながらだと、土谷……いや、志麻さんこそ落ち着かないだろう。
こっちで食べるほうが、ぜんぜん気楽なのかもしれない。
「あの、じゃあ、私のことも棗って呼んでください」
「あら、ちょっと珍しい名前ね」
「母がつけてくれたんです」
そう、これは母さんが残してくれた、数少ない遺産のひとつだ。あたしはそう思っている。
「たっぷり食べて、たっぷり眠って、明日からに備えなさい」
志麻さんは、急に真顔になった。
たしかに、あの気難しい美少女の相手をするには、英気はたっぷり養っておいたほうがよさそうだった。
寝る準備を済ませ、ベッドに寝転がりながら日記アプリに今日の出来事をメモっていると、車の音が聞こえた。
ガレージからだ。
井沢さんが帰ってきたのだろう。
時計を見ると、十時を過ぎている。
こんな時間まで付き合わされて大変だなあ、なんて思っていると、バタンとドアの開く音が続いて聞こえた。
あたしの勘違いじゃなければ、この建物のドアだ。
(たしか井沢さんはガレージの横だかにある別棟に住んでるって言ってなかったけ……?)
とは思ったが、そういえば昼間のお礼を言いそこなったことを思い出した。
(一応、言っておこうかな)
あたしはパジャマの上から、膝まであるカーディガンを羽織り、部屋を出た。
廊下は暗かったけど、階段を登ろうとしている人影が見えたので、声をかけた。
「井沢さん」
ただ、意表をついたかっこうになってしまったらしい。
驚いたのか、背中がビクっと揺れた。
「あ、ごめんなさい、びっくりさせて……」
謝っている途中で言葉が止まる。
振り返ったのが、爽希さんだったからだ。
今度はあたしがびっくりしてしまった。
「なんで……?」
思わず、言ってしまった。
いやべつに、ここだって爽希さんの家ではあるんだから、当然、いてもいいんだけど。
(なにもわざわざこんな裏口みたいなところから入らなくても)
そう思って、言っちゃったんだ。
「こちらのほうが色々と都合がいいんで、あまり表玄関は使わないんです。起こしてしまってすみません」
(あんな立派な玄関わざわざ作っといて、それか……)
とは思ったけど、今度はさすがに口には出さない。
「いえ、まだ寝てなかったんで……。井沢さんかと思ったんです」
「ああ、彼なら自分の部屋に戻りましたよ。用があるなら……」
「いえ、急ぎじゃないので、大丈夫です。失礼しました。おやすみなさい」
あたしは部屋に戻ろうと、背中を向けた。でも。
「雲雀には会われましたか」
追いかけてくるように、質問が飛んできた。
「はい。でもあんまり、気に入ってもらえなかったみたいです」
あたしはつい、正直に言ってしまった。
だって、初日から自分を大きく偽ったってしょうがない。
下手に取り繕っても、すぐに破綻するだろう。
「そうですか」
ただ、爽希さんは、特に意外そうでもなかった。
「彼女は、誰のことも気に入らないんです。なんとか騙し騙しやっていってください」
(……んん?)
雇われの身でなんだけど、どうも他人行儀な言い方に聞こえる。
そういえば雲雀さんは雲雀さんで、スパイがどうとか言ってなかったっけ。
(兄妹仲、悪いのかな)
(でも本当に悪いのなら、わざわざ人は雇わないか)
謎だ。
「でも、雲雀さんってお名前、素敵ですね」
あたしは話題を変えることにした。
「名前……? 素敵……?」
あれ、なんだか怪訝そう。
考えたこともない、といった雰囲気だ。
「そ、そうですか」
「鳥の雲雀は、朝の象徴とか、晴れた日……『日晴り』が語源だなんて言われてるらしいです。なんだか未来志向を感じるお名前ですよね」
思わず取るに足りない豆知識をべらべら喋ってしまったが、爽希さんはそれをどうやら面白がってくれたようだった。
「そんな謂れのある鳥だとは、知りませんでした」
感心した表情でこちらをじっと見つめる。
そこで気分がよくなったあたしは、つい調子に乗って続けてしまった。
「爽希さんも素敵なお名前です」
すると、目に見えて顔が曇った。
「そうでもないですよ。子供の頃はアイスみたいな名前だ、ってよくからかわれました」
(ああ、まあ、たしかに)
子供にありがちな発想だ。
でも。
「でも、爽っていう字、爽やかってだけじゃなくて、たしか、夜明けという意味もあるんですよね。夜明けの希望……、すごく願いのこもったお名前に思えます。雲雀さんとも、なんだか共通してるし」
あたしはけっこう、人の名前について考えるのが好きだ。
自分の名前に、というか名づけてもらったことに、思い入れが強いからかもしれない。
「本当にそう思いますか?」
「ええ。名付けた方の愛情を感じます」
これは、嘘偽りない感想だ。
ただ、爽希さんの反応はといえば、さらに戸惑っているようだった。
「……あなたは、不思議な人ですね」
爽希さんが唐突に言った。
「え、どういうことですか」
「なんだか、あまり雲雀に同情していないようだ」
(同情……。同情、ねえ)
「あたし、あの……」
「はい」
「けっこう、世間で言うところの『不幸な生い立ち』で」
「ああ……」
爽希さんは、あたしが次になにを言おうとしているのか、きちんと待ってくれた。
そんなことない、なんていう無駄なフォローは入れてこなかった。
話しやすくて助かる。
「だから、けっこう同情される立場でもあったんです」
「なるほど」
「だから気づいたんです。同情することが、相手を見下す隠れ蓑になってることがあるって」
爽希さんは、目を見開いた。
「だからそれに気づいてからは、安易に同情しないように、気をつけています。あと私の基準からすると、雲雀さんはそもそも、気の毒がられるような立場の人じゃないように思えます」
(ああ、言っちゃった……)
あたしはすぐに後悔した。
言った内容じゃない。
生意気と取られてもおかしくないような、はっきりとした喋りをしてしまって。
(やっちゃったなあ)
で、爽希さんの反応はというと。
なぜか、急にぬっと手を差し出してきた。
握手をしようとしてる、と気づくのに、数秒かかってしまう。
その手を無言で握り、ちょっとのあいだ見つめあった。
なんでそんなノリになったのかはよくわからなかったけど、爽希さんの手は温かかった。
ただ、薄着でいたせいか、くしゃみが出てきた。
それであたしは手を引き、もう一度改めて挨拶をしてから、部屋に戻った。
爽希さんは外でビジネスディナーだと連絡があっただとかで、雲雀さんは自室で食事、土谷さんが運んでいって終わりということになったからだ。
あたしは土谷さんと、お昼を食べたのと同じ、キッチンのテーブルで、夕食を取ることになった。
どっちにしろ、あたしの契約では就業時間は九時から六時なので、その頃には時間外、本邸にいる必要のない頃ではある。
(なんだか、難しそうな家だなあ)
今日一日の不毛っぷりを考えると、食欲も失せる気がした。
でも、そんなのは一瞬だった。
食卓につき、いざ目の前に並んだものを見たら、がぜん気分があがった。
タラの芽とフキノトウの天ぷら。
鰆の煮つけに、ルッコラとアスパラガスのサラダ。
そしてあさりのみそ汁に、あおさとホタルイカの酢味噌和え。
そして極めつけは生のやつを使った筍ごはんだ。
いわゆる『旬の食材をふんだんに使い、手間暇かけて作った家庭料理』だ。
話に聞いたことはあるけど、実物を見るのは初めてだ。
感激するしかない。
しかも、味付けも盛り付けも絶品で、さすが、プロの家政婦さんだけある。
筍ごはんなんて、おかわりまでしてしまった。
「若い人はいいわね。そんなにおいしそうに食べてくれると、作り甲斐あるわあ」
土谷さんは笑う。
「雲雀ちゃんも、それくらい食べてくれればいいんだけど……」
(うっ……)
あたしは思わず、箸を止めた。
(雇い主より食欲旺盛っての、あんまりよくないのかな……)
土谷さんはそれにすぐ気づき、また、笑った。
「いいのよ、いいのよ。遠慮せず食べなさい。食費は私たちのぶんも込みでたっぷり貰ってるし、結局ご兄妹が食べるために買ったものの残りなんだし。ただ、そのうち一緒に食事するようなことになれば、雲雀ちゃんにもいい影響になるかも、ってちょっと思っただけよ」
「一緒に食事、ですか」
「そうそう。本当はそうなのよ。前の人も、最初のうちは爽希さんや雲雀ちゃんと一緒に食事取ってたの。揉めちゃったせいで、最後のほうはこっちで私と一緒に食べてたけど」
「土谷さんは向こうで一緒に食べないんですか」
ふとした疑問をぶつけてみる。
「私はまあ、給仕担当だからねえ……。ああ、それと、呼び方は名前のほう、志麻でいいわよ」
そう言われてみると、あれこれ世話しながらだと、土谷……いや、志麻さんこそ落ち着かないだろう。
こっちで食べるほうが、ぜんぜん気楽なのかもしれない。
「あの、じゃあ、私のことも棗って呼んでください」
「あら、ちょっと珍しい名前ね」
「母がつけてくれたんです」
そう、これは母さんが残してくれた、数少ない遺産のひとつだ。あたしはそう思っている。
「たっぷり食べて、たっぷり眠って、明日からに備えなさい」
志麻さんは、急に真顔になった。
たしかに、あの気難しい美少女の相手をするには、英気はたっぷり養っておいたほうがよさそうだった。
寝る準備を済ませ、ベッドに寝転がりながら日記アプリに今日の出来事をメモっていると、車の音が聞こえた。
ガレージからだ。
井沢さんが帰ってきたのだろう。
時計を見ると、十時を過ぎている。
こんな時間まで付き合わされて大変だなあ、なんて思っていると、バタンとドアの開く音が続いて聞こえた。
あたしの勘違いじゃなければ、この建物のドアだ。
(たしか井沢さんはガレージの横だかにある別棟に住んでるって言ってなかったけ……?)
とは思ったが、そういえば昼間のお礼を言いそこなったことを思い出した。
(一応、言っておこうかな)
あたしはパジャマの上から、膝まであるカーディガンを羽織り、部屋を出た。
廊下は暗かったけど、階段を登ろうとしている人影が見えたので、声をかけた。
「井沢さん」
ただ、意表をついたかっこうになってしまったらしい。
驚いたのか、背中がビクっと揺れた。
「あ、ごめんなさい、びっくりさせて……」
謝っている途中で言葉が止まる。
振り返ったのが、爽希さんだったからだ。
今度はあたしがびっくりしてしまった。
「なんで……?」
思わず、言ってしまった。
いやべつに、ここだって爽希さんの家ではあるんだから、当然、いてもいいんだけど。
(なにもわざわざこんな裏口みたいなところから入らなくても)
そう思って、言っちゃったんだ。
「こちらのほうが色々と都合がいいんで、あまり表玄関は使わないんです。起こしてしまってすみません」
(あんな立派な玄関わざわざ作っといて、それか……)
とは思ったけど、今度はさすがに口には出さない。
「いえ、まだ寝てなかったんで……。井沢さんかと思ったんです」
「ああ、彼なら自分の部屋に戻りましたよ。用があるなら……」
「いえ、急ぎじゃないので、大丈夫です。失礼しました。おやすみなさい」
あたしは部屋に戻ろうと、背中を向けた。でも。
「雲雀には会われましたか」
追いかけてくるように、質問が飛んできた。
「はい。でもあんまり、気に入ってもらえなかったみたいです」
あたしはつい、正直に言ってしまった。
だって、初日から自分を大きく偽ったってしょうがない。
下手に取り繕っても、すぐに破綻するだろう。
「そうですか」
ただ、爽希さんは、特に意外そうでもなかった。
「彼女は、誰のことも気に入らないんです。なんとか騙し騙しやっていってください」
(……んん?)
雇われの身でなんだけど、どうも他人行儀な言い方に聞こえる。
そういえば雲雀さんは雲雀さんで、スパイがどうとか言ってなかったっけ。
(兄妹仲、悪いのかな)
(でも本当に悪いのなら、わざわざ人は雇わないか)
謎だ。
「でも、雲雀さんってお名前、素敵ですね」
あたしは話題を変えることにした。
「名前……? 素敵……?」
あれ、なんだか怪訝そう。
考えたこともない、といった雰囲気だ。
「そ、そうですか」
「鳥の雲雀は、朝の象徴とか、晴れた日……『日晴り』が語源だなんて言われてるらしいです。なんだか未来志向を感じるお名前ですよね」
思わず取るに足りない豆知識をべらべら喋ってしまったが、爽希さんはそれをどうやら面白がってくれたようだった。
「そんな謂れのある鳥だとは、知りませんでした」
感心した表情でこちらをじっと見つめる。
そこで気分がよくなったあたしは、つい調子に乗って続けてしまった。
「爽希さんも素敵なお名前です」
すると、目に見えて顔が曇った。
「そうでもないですよ。子供の頃はアイスみたいな名前だ、ってよくからかわれました」
(ああ、まあ、たしかに)
子供にありがちな発想だ。
でも。
「でも、爽っていう字、爽やかってだけじゃなくて、たしか、夜明けという意味もあるんですよね。夜明けの希望……、すごく願いのこもったお名前に思えます。雲雀さんとも、なんだか共通してるし」
あたしはけっこう、人の名前について考えるのが好きだ。
自分の名前に、というか名づけてもらったことに、思い入れが強いからかもしれない。
「本当にそう思いますか?」
「ええ。名付けた方の愛情を感じます」
これは、嘘偽りない感想だ。
ただ、爽希さんの反応はといえば、さらに戸惑っているようだった。
「……あなたは、不思議な人ですね」
爽希さんが唐突に言った。
「え、どういうことですか」
「なんだか、あまり雲雀に同情していないようだ」
(同情……。同情、ねえ)
「あたし、あの……」
「はい」
「けっこう、世間で言うところの『不幸な生い立ち』で」
「ああ……」
爽希さんは、あたしが次になにを言おうとしているのか、きちんと待ってくれた。
そんなことない、なんていう無駄なフォローは入れてこなかった。
話しやすくて助かる。
「だから、けっこう同情される立場でもあったんです」
「なるほど」
「だから気づいたんです。同情することが、相手を見下す隠れ蓑になってることがあるって」
爽希さんは、目を見開いた。
「だからそれに気づいてからは、安易に同情しないように、気をつけています。あと私の基準からすると、雲雀さんはそもそも、気の毒がられるような立場の人じゃないように思えます」
(ああ、言っちゃった……)
あたしはすぐに後悔した。
言った内容じゃない。
生意気と取られてもおかしくないような、はっきりとした喋りをしてしまって。
(やっちゃったなあ)
で、爽希さんの反応はというと。
なぜか、急にぬっと手を差し出してきた。
握手をしようとしてる、と気づくのに、数秒かかってしまう。
その手を無言で握り、ちょっとのあいだ見つめあった。
なんでそんなノリになったのかはよくわからなかったけど、爽希さんの手は温かかった。
ただ、薄着でいたせいか、くしゃみが出てきた。
それであたしは手を引き、もう一度改めて挨拶をしてから、部屋に戻った。
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