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9. ぎこちない朝食
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次の日の朝は、目覚ましより早く起きた。
なんだかんだ言って、我ながらけっこう緊張しているらしい。
時計を見ると、六時前だ。
空気はまだ冷たく、ベッドにもぐったままでいたほうが快適なのはわかってはいたけど、あたしは起きて、勝手口から外に出てみることにした。
日が出かけている薄明るい街は、ものすごく静かで、まるでゴーストタウンのようだ。
飲みすぎて路上で正体をなくしてうずくまる人も、始発を待ちながら騒ぐ学生も見当たらない。
高級住宅地っていうのは、本当に色々なものが整然としてるんだな、なんて感心してしまった。
感心して周囲を見回していると、坂をちょっとおりたところに、まるで浮かび上がっているように見える一角があった。
コンビニだ。
そこだけ灯りが煌々とついている。
店構えこそ、このあたりの環境にあわせているのかレンガ造り調の渋いものになっているけど、まごうことなきお馴染みのチェーンのコンビニだ。
あたしは突然、見慣れた風景を見たい欲求に駆られた。
部屋に戻ってサイフ代わりのスマホを取り、改めて小走り気味になりながら向かう。
(まさかコンビニが、懐かしい風景になる日が来るとはなぁ)
わずか一日で情けなくはあったけど、欲求には逆らえない。わくわくしながら、足を踏み入れた。
眠そうな顔をした中年の男性がレジのなかにある椅子に座っている。
たぶん、オーナー自ら接客しているのだろう。
客は、ひとりだけいた。
スポーツドリンクを選んでいるし、服装がいかにも、という感じで、おそらく早朝ランニングの帰りと思えた。
爽希さんよりはすこし年上に見える男性で、清潔感ある髪型や、背筋がしゃっきり伸びてる様子が、いかにもエリートサラリーマンという感じだ。
(さすが高級住宅地)
あたしは、もう何度繰り返したかわからない言葉を、またもや心のなかで反復する。
あたしはお気に入りのチョコレートのポケットサイズの袋を取ってから、小さな店のなかをぐるっと回った。
なにが置いてあるのか把握しておきたかったし、なにより、今までさんざっぱら見慣れていたものを見ていると、不思議と心が落ち着く。
会計を済ませ、外に出ると、もうすっかり明るくなっていた。
朝食前に行儀が悪いとは思いつつも、あたしはチョコレート菓子を口に放り込みながら、ゆっくりと坂道を戻った。
部屋に戻ると、上のキッチンからは、もう物音がし始めていた。
買ってきたものを部屋に置き、あたしは階段をあがって、キッチンに顔を出した。
「おはようございます」
ガス台に向かってる背中に声をかける。
ホームベーカリーの機械からは、パンの焼き上がる、いい匂いが漂ってきている。
「あら、おはよう。早いのね」
「志麻さんこそ」
「まあ、それが仕事だから」
笑いながら、フライパンのオムレツをひっくり返した。
まあ実際、あたしより志麻さんのほうが、仕事の拘束時間は断然長い契約になってるのだろう。
ただ、こういう、住まいと職場が同じだと、どこまではっきり勤務時間を区切るのか難しそうではある。
そういう意味では、別棟にしてくれているのは、区切りをある程度つけられるので、いい待遇といえるのかもしれなかった。
「手伝います」
「いいのよ。職務外でしょ」
「でもやりたいんです」
「あら、そう。助かるわ。じゃあ、そこに置いてあるお皿、広げてくれる」
「はい」
(もしも)
(もしもお母さんが、あたしがこの歳になるまで生きていてくれたら)
(こんなふうに、お手伝いをする日が来たのかな)
そんな、考えてもしかたのないことが急に頭に浮かんできて、あたしはあわてて思考を止めた。
運んでいくためのワゴンの一番上にある、大きなトレー。
棚から出してある食器のセットを、そこに並べる。
縁が花柄の白い陶器のセットで、上から見るとまるでたくさんの花輪が並んでいるみたいで、それだけでも華やかだった。
志麻さんはそれぞれの皿に手早くオムレツとサラダを盛りつけたが、もうひとりぶん、作業台の上にあるシンプルなデザインの皿にも同じものを載せた。
「これは井沢さんのぶん。あっちで配膳してるあいだに食べに来るから。私たちはご兄妹の食事が終わってから。お腹、平気?」
「大丈夫です」
それぞれ違うタイミングで取る食事の世話なんて、すごい。さすがプロの家政婦さん。
できたてのパンに、向こうで切るらしくパンナイフを添え、中段にはバターとジャム、調味料。
下段に飲み物類のピッチャーやポットを載せると、いよいよ出発だ。
「あの、私もついていっていいですか」
訊いてみると、志麻さんは驚いたようだった。
「お手伝いしたいんです」
「いいのよ、そんなこと」
「でもあの……」
あたしは一所懸命に口実を考えた。
「いったん、この家の一日のスケジュールの、全体を知っておきたいんです。なにかあったときに、対処もしやすくなりますし。どうか、今日だけ」
まあこれは、まるっきり口から出まかせというわけでもない。工場勤めのときに身につけた知恵でもある。
「そう? じゃあ……。沖津さんて、仕事熱心なのねえ」
志麻さんは呆れと感嘆が入り混じったようなことを言ったけど、あたしの申し出を受け入れてくれた。
本邸のテーブルには、もうすでに兄妹が揃っていた。
対面式で座り、特に会話をするでもなく、爽希さんはタブレットを、雲雀さんはスマホをそれぞれにいじっている。
なんというか、団欒、という言葉には、程遠い雰囲気だ。
志麻さんは手際よく、ワゴンから食事を運び二人の前にオムレツの皿、切ったトースト、オレンジジュース、ベリー類を載せはちみつをかけたヨーグルトを置いた。
あたしもそれを手伝っていると、雲雀さんが不思議そうに訊いてきた
。
「どうしてあなたが手伝ってるの」
「ええと、一日の流れをだいたい把握しておきたくて、あたしが無理矢理頼んだんです。志麻さんは被害者ですので、叱ったりしないでください」
「被害者」
あたしの言い方がおかしかったのか、雲雀さんは目を見開いたあと、プッと吹き出した。
爽希さんが、弾かれたように顔を上げる。
驚いたみたいだ。
「あ、朝から騒いですみません」
あたしはそう詫びて、急いで志麻さんが待機している、部屋の隅の簡易キッチンに退避した。
そこではすでに、食後のコーヒーを作り始めているところだった。いい香りがあたりに立ちこめている。
「ねえ、勤務時間が始まったら」
ふいに、雲雀さんが声をかけてきた。
「沖津さん、散歩につきあってくれない」
「はい」
あたしは振り向き、なにげなく答えた。
でも、横にいる志麻さんが目を見開いたのと、また爽希さんが顔を上げたのを見て、なにやらこれはかなり珍しいことなんだと気づいた。
なんだかんだ言って、我ながらけっこう緊張しているらしい。
時計を見ると、六時前だ。
空気はまだ冷たく、ベッドにもぐったままでいたほうが快適なのはわかってはいたけど、あたしは起きて、勝手口から外に出てみることにした。
日が出かけている薄明るい街は、ものすごく静かで、まるでゴーストタウンのようだ。
飲みすぎて路上で正体をなくしてうずくまる人も、始発を待ちながら騒ぐ学生も見当たらない。
高級住宅地っていうのは、本当に色々なものが整然としてるんだな、なんて感心してしまった。
感心して周囲を見回していると、坂をちょっとおりたところに、まるで浮かび上がっているように見える一角があった。
コンビニだ。
そこだけ灯りが煌々とついている。
店構えこそ、このあたりの環境にあわせているのかレンガ造り調の渋いものになっているけど、まごうことなきお馴染みのチェーンのコンビニだ。
あたしは突然、見慣れた風景を見たい欲求に駆られた。
部屋に戻ってサイフ代わりのスマホを取り、改めて小走り気味になりながら向かう。
(まさかコンビニが、懐かしい風景になる日が来るとはなぁ)
わずか一日で情けなくはあったけど、欲求には逆らえない。わくわくしながら、足を踏み入れた。
眠そうな顔をした中年の男性がレジのなかにある椅子に座っている。
たぶん、オーナー自ら接客しているのだろう。
客は、ひとりだけいた。
スポーツドリンクを選んでいるし、服装がいかにも、という感じで、おそらく早朝ランニングの帰りと思えた。
爽希さんよりはすこし年上に見える男性で、清潔感ある髪型や、背筋がしゃっきり伸びてる様子が、いかにもエリートサラリーマンという感じだ。
(さすが高級住宅地)
あたしは、もう何度繰り返したかわからない言葉を、またもや心のなかで反復する。
あたしはお気に入りのチョコレートのポケットサイズの袋を取ってから、小さな店のなかをぐるっと回った。
なにが置いてあるのか把握しておきたかったし、なにより、今までさんざっぱら見慣れていたものを見ていると、不思議と心が落ち着く。
会計を済ませ、外に出ると、もうすっかり明るくなっていた。
朝食前に行儀が悪いとは思いつつも、あたしはチョコレート菓子を口に放り込みながら、ゆっくりと坂道を戻った。
部屋に戻ると、上のキッチンからは、もう物音がし始めていた。
買ってきたものを部屋に置き、あたしは階段をあがって、キッチンに顔を出した。
「おはようございます」
ガス台に向かってる背中に声をかける。
ホームベーカリーの機械からは、パンの焼き上がる、いい匂いが漂ってきている。
「あら、おはよう。早いのね」
「志麻さんこそ」
「まあ、それが仕事だから」
笑いながら、フライパンのオムレツをひっくり返した。
まあ実際、あたしより志麻さんのほうが、仕事の拘束時間は断然長い契約になってるのだろう。
ただ、こういう、住まいと職場が同じだと、どこまではっきり勤務時間を区切るのか難しそうではある。
そういう意味では、別棟にしてくれているのは、区切りをある程度つけられるので、いい待遇といえるのかもしれなかった。
「手伝います」
「いいのよ。職務外でしょ」
「でもやりたいんです」
「あら、そう。助かるわ。じゃあ、そこに置いてあるお皿、広げてくれる」
「はい」
(もしも)
(もしもお母さんが、あたしがこの歳になるまで生きていてくれたら)
(こんなふうに、お手伝いをする日が来たのかな)
そんな、考えてもしかたのないことが急に頭に浮かんできて、あたしはあわてて思考を止めた。
運んでいくためのワゴンの一番上にある、大きなトレー。
棚から出してある食器のセットを、そこに並べる。
縁が花柄の白い陶器のセットで、上から見るとまるでたくさんの花輪が並んでいるみたいで、それだけでも華やかだった。
志麻さんはそれぞれの皿に手早くオムレツとサラダを盛りつけたが、もうひとりぶん、作業台の上にあるシンプルなデザインの皿にも同じものを載せた。
「これは井沢さんのぶん。あっちで配膳してるあいだに食べに来るから。私たちはご兄妹の食事が終わってから。お腹、平気?」
「大丈夫です」
それぞれ違うタイミングで取る食事の世話なんて、すごい。さすがプロの家政婦さん。
できたてのパンに、向こうで切るらしくパンナイフを添え、中段にはバターとジャム、調味料。
下段に飲み物類のピッチャーやポットを載せると、いよいよ出発だ。
「あの、私もついていっていいですか」
訊いてみると、志麻さんは驚いたようだった。
「お手伝いしたいんです」
「いいのよ、そんなこと」
「でもあの……」
あたしは一所懸命に口実を考えた。
「いったん、この家の一日のスケジュールの、全体を知っておきたいんです。なにかあったときに、対処もしやすくなりますし。どうか、今日だけ」
まあこれは、まるっきり口から出まかせというわけでもない。工場勤めのときに身につけた知恵でもある。
「そう? じゃあ……。沖津さんて、仕事熱心なのねえ」
志麻さんは呆れと感嘆が入り混じったようなことを言ったけど、あたしの申し出を受け入れてくれた。
本邸のテーブルには、もうすでに兄妹が揃っていた。
対面式で座り、特に会話をするでもなく、爽希さんはタブレットを、雲雀さんはスマホをそれぞれにいじっている。
なんというか、団欒、という言葉には、程遠い雰囲気だ。
志麻さんは手際よく、ワゴンから食事を運び二人の前にオムレツの皿、切ったトースト、オレンジジュース、ベリー類を載せはちみつをかけたヨーグルトを置いた。
あたしもそれを手伝っていると、雲雀さんが不思議そうに訊いてきた
。
「どうしてあなたが手伝ってるの」
「ええと、一日の流れをだいたい把握しておきたくて、あたしが無理矢理頼んだんです。志麻さんは被害者ですので、叱ったりしないでください」
「被害者」
あたしの言い方がおかしかったのか、雲雀さんは目を見開いたあと、プッと吹き出した。
爽希さんが、弾かれたように顔を上げる。
驚いたみたいだ。
「あ、朝から騒いですみません」
あたしはそう詫びて、急いで志麻さんが待機している、部屋の隅の簡易キッチンに退避した。
そこではすでに、食後のコーヒーを作り始めているところだった。いい香りがあたりに立ちこめている。
「ねえ、勤務時間が始まったら」
ふいに、雲雀さんが声をかけてきた。
「沖津さん、散歩につきあってくれない」
「はい」
あたしは振り向き、なにげなく答えた。
でも、横にいる志麻さんが目を見開いたのと、また爽希さんが顔を上げたのを見て、なにやらこれはかなり珍しいことなんだと気づいた。
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