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第六章 アメリア その三
遠征
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「戦にまではならないと思うので安心して待っていてください」
出立の前日、セドリックはそうアメリアに言って笑った。
今回の出兵は、あくまでノートン領主の背後にいるソルベンティア国が攻めてきた場合の備えのためだ。
領主が勝手に行った侵攻なら、領主の首のみ差し出させて収めるつもりだ。
サラトガ騎士団が国境まで出張ってきたと知ってなお、ソルベンティア国が侵攻してくるとは思えない。
出兵の準備で忙しい最中でも、セドリックはアメリアとの時間を出来るだけ確保してくれていた。
戦にはならないだろうと予測しているためそれほど長い遠征になるとは思わないが、それでも、向こう一、二ヶ月は帰って来れないかもしれない。
だからアメリアもまた、夜間学校の勤務を休んで遠征の準備を手伝っていた。
そして出立前夜はいつもよりさらに長い時間を晩餐に割き、その後もお茶を飲みながら歓談の時間を持った。
皆の前ではセドリックを見送ることが出来ないアメリアと、二人きりの壮行会をするためだ。
「どうかご無事で」
晩餐を終えて部屋まで送ってくれたセドリックに、アメリアが小さな袋を手渡した。
見れば、手作りの守り袋のように見える。
「これは、貴女が?」
「はい、私が作りました。中には、司祭様からいただいた翡翠が入っております。私も礼拝堂で祈りを捧げてまいりました」
この王国の神話には、翡翠に神力が宿るという言い伝えがある。
人の念を移しやすいとも。
そして、袋にはサラトガ公爵家の紋章が刺繍してあった。
「でも貴女はたしか…、刺繍が苦手だったと思うが」
セドリックがポツリとこぼした言葉を聞いて、アメリアの頬が赤く染まった。
以前ハンカチに刺繍したカブトムシを、セドリックから象と間違えられたことがあったからだ。
「…練習したんです。私だって、少しは上達しますわ」
「そうですね。本当に上手になられた」
セドリックは袋を大事そうに両手で包み込むと、自分の額に押し当てた。
その姿を見ていたら、何故かアメリアの胸の奥がギュッとなった。
『戦にはならないから大丈夫』
そんなことを聞かされていたって、実際のところは蓋を開けてみるまでわからない。
いざ戦になったとしてもセドリックは指揮官だから前線には出ないと言われたって、本当のところは誰にもわからないのだ。
「本当に…、無事にお帰りくださいね」
アメリアはセドリックの額にある両手を、さらに自分の両手で包みこんだ。
「…はい、もちろん」
セドリックは顔を上げて微笑んだ。
「帰ってきたら、貴女に聞いて欲しいことがありますから」
翌朝、セドリックはサラトガ騎士団を率いて国境へ向かった。
アメリアはそれを、教師エイミーとして数人の生徒たちと一緒に見送った。
堂々とした雄姿に、人々は皆喝采を贈っている。
そして、夫が出征するというのに見送りにも現れない公爵夫人を、皆呆れ、蔑んでいる。
当然の非難だと思うが、それでもなお身分を偽ったままの弱い自分を、アメリアは心底嫌悪した。
強くなりたい、でもなれない。
そのジレンマは、セドリックがこうして出征することによってさらに大きくなっていた。
やはり彼には、陰ひなたになって支え、癒してくれる女性が必要だと思う。
そして、安心して任務を果たせるよう、後継が必要なのだとも。
(この戦が終わったら閣下に離縁を申し出よう。そして私のわがままを聞いていただこう)
それが、お互いにとって一番良い選択だとアメリアは思う。
セドリックも帰ってきたら話があると言っていたが、案外似たような話なのかもしれない。
彼だって、いい加減アメリアの扱いには困り果てているのだろうから。
◇◇◇
セドリックが国境に向かった後、アメリアはいつもの生活に戻った。
エイミー先生として夜間学校の教壇に立ち、孤児院運営に追われる毎日。
ただ、今回の遠征が終わるまでは用心のためにと、護衛を増やされ、行動も狭い範囲に制限された。
そして仕事の合間に少しでも時間が空くと、アメリアは公爵邸敷地内の礼拝堂に通った。
もちろん、セドリックと兵たちの無事を祈るためである。
セドリックの弟マイロは、兄の代わりに留守を任されている。
本当はマイロも国境について行きたくて兄に願ったのだが、「おまえは留守を頼む」とセドリックに諭されてしまったようだ。
まだ十六歳のマイロはこれから出征する機会も訪れるだろうから初陣を焦ることはないと言われたのだが、その兄は僅か十七歳で先鋒隊を率い、しかも勝利したのだから、あまり説得力のある話ではない。
出征から1ヶ月が過ぎても、セドリックが帰ってくる気配は全くなかった。
その間ほぼ毎日のように伝令がやってくるが、状況は停滞しているらしい。
開戦を避けるための話し合いが続けられているが、なかなか上手くいっていないようなのだ。
数日に一度はセドリックからアメリアへの手紙が届く。
中身は簡素なものであったが、アメリアを安心させようとするセドリックの気遣いが感じられる手紙だ。
アメリアは申し訳ないと思いながらも、その手紙を心待ちにするようになっていた。
そして彼女もまた、こちらの様子を伝える返事を書き送っていた。
◇◇◇
そうして一月半程経ったある日のこと。
とうとう、戦が始まったとの報せが入った。
出立の前日、セドリックはそうアメリアに言って笑った。
今回の出兵は、あくまでノートン領主の背後にいるソルベンティア国が攻めてきた場合の備えのためだ。
領主が勝手に行った侵攻なら、領主の首のみ差し出させて収めるつもりだ。
サラトガ騎士団が国境まで出張ってきたと知ってなお、ソルベンティア国が侵攻してくるとは思えない。
出兵の準備で忙しい最中でも、セドリックはアメリアとの時間を出来るだけ確保してくれていた。
戦にはならないだろうと予測しているためそれほど長い遠征になるとは思わないが、それでも、向こう一、二ヶ月は帰って来れないかもしれない。
だからアメリアもまた、夜間学校の勤務を休んで遠征の準備を手伝っていた。
そして出立前夜はいつもよりさらに長い時間を晩餐に割き、その後もお茶を飲みながら歓談の時間を持った。
皆の前ではセドリックを見送ることが出来ないアメリアと、二人きりの壮行会をするためだ。
「どうかご無事で」
晩餐を終えて部屋まで送ってくれたセドリックに、アメリアが小さな袋を手渡した。
見れば、手作りの守り袋のように見える。
「これは、貴女が?」
「はい、私が作りました。中には、司祭様からいただいた翡翠が入っております。私も礼拝堂で祈りを捧げてまいりました」
この王国の神話には、翡翠に神力が宿るという言い伝えがある。
人の念を移しやすいとも。
そして、袋にはサラトガ公爵家の紋章が刺繍してあった。
「でも貴女はたしか…、刺繍が苦手だったと思うが」
セドリックがポツリとこぼした言葉を聞いて、アメリアの頬が赤く染まった。
以前ハンカチに刺繍したカブトムシを、セドリックから象と間違えられたことがあったからだ。
「…練習したんです。私だって、少しは上達しますわ」
「そうですね。本当に上手になられた」
セドリックは袋を大事そうに両手で包み込むと、自分の額に押し当てた。
その姿を見ていたら、何故かアメリアの胸の奥がギュッとなった。
『戦にはならないから大丈夫』
そんなことを聞かされていたって、実際のところは蓋を開けてみるまでわからない。
いざ戦になったとしてもセドリックは指揮官だから前線には出ないと言われたって、本当のところは誰にもわからないのだ。
「本当に…、無事にお帰りくださいね」
アメリアはセドリックの額にある両手を、さらに自分の両手で包みこんだ。
「…はい、もちろん」
セドリックは顔を上げて微笑んだ。
「帰ってきたら、貴女に聞いて欲しいことがありますから」
翌朝、セドリックはサラトガ騎士団を率いて国境へ向かった。
アメリアはそれを、教師エイミーとして数人の生徒たちと一緒に見送った。
堂々とした雄姿に、人々は皆喝采を贈っている。
そして、夫が出征するというのに見送りにも現れない公爵夫人を、皆呆れ、蔑んでいる。
当然の非難だと思うが、それでもなお身分を偽ったままの弱い自分を、アメリアは心底嫌悪した。
強くなりたい、でもなれない。
そのジレンマは、セドリックがこうして出征することによってさらに大きくなっていた。
やはり彼には、陰ひなたになって支え、癒してくれる女性が必要だと思う。
そして、安心して任務を果たせるよう、後継が必要なのだとも。
(この戦が終わったら閣下に離縁を申し出よう。そして私のわがままを聞いていただこう)
それが、お互いにとって一番良い選択だとアメリアは思う。
セドリックも帰ってきたら話があると言っていたが、案外似たような話なのかもしれない。
彼だって、いい加減アメリアの扱いには困り果てているのだろうから。
◇◇◇
セドリックが国境に向かった後、アメリアはいつもの生活に戻った。
エイミー先生として夜間学校の教壇に立ち、孤児院運営に追われる毎日。
ただ、今回の遠征が終わるまでは用心のためにと、護衛を増やされ、行動も狭い範囲に制限された。
そして仕事の合間に少しでも時間が空くと、アメリアは公爵邸敷地内の礼拝堂に通った。
もちろん、セドリックと兵たちの無事を祈るためである。
セドリックの弟マイロは、兄の代わりに留守を任されている。
本当はマイロも国境について行きたくて兄に願ったのだが、「おまえは留守を頼む」とセドリックに諭されてしまったようだ。
まだ十六歳のマイロはこれから出征する機会も訪れるだろうから初陣を焦ることはないと言われたのだが、その兄は僅か十七歳で先鋒隊を率い、しかも勝利したのだから、あまり説得力のある話ではない。
出征から1ヶ月が過ぎても、セドリックが帰ってくる気配は全くなかった。
その間ほぼ毎日のように伝令がやってくるが、状況は停滞しているらしい。
開戦を避けるための話し合いが続けられているが、なかなか上手くいっていないようなのだ。
数日に一度はセドリックからアメリアへの手紙が届く。
中身は簡素なものであったが、アメリアを安心させようとするセドリックの気遣いが感じられる手紙だ。
アメリアは申し訳ないと思いながらも、その手紙を心待ちにするようになっていた。
そして彼女もまた、こちらの様子を伝える返事を書き送っていた。
◇◇◇
そうして一月半程経ったある日のこと。
とうとう、戦が始まったとの報せが入った。
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