おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

10-1

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 けれど帰る場所は一つしかなかった。まだ真冬の太陽が昇る前にようやく辿り着いたマンションの部屋の前でどうしたらいいのか逡巡して、けれどあまりの疲労と寒さ耐えきれずそっと鍵を差し込んだ。

 ゆっくりゆっくり、音がしないよう慎重に回すが、思いのほかするりと動き音も立てずに止まる。

「え?」

 鍵がかかっていないのを物語る動きに隆則は慌てた。几帳面な遥人は絶対に隆則が家にいても鍵を閉めるし、開けたままの状態になどしたことがない。なにかあったのだろうかと心配しながらもなるべく音を立てないようにドアを開けるのは後ろめたさが残っているから。どんなに下肢をすっきりさせても泣いて心を軽くしても、罪悪感は拭えない。きっと眠っているだろう遥人を起こさないよう、抜き足差し足で忍び込む。

 合わせる顔がないからとにかく慎重に音を立てないよう扉を閉めた。はずだった。

 リビングからバタバタと足音がしてすぐに廊下へと繋がるガラス扉が開いた。

「五十嵐さんっ!」

「な……んで?」

 寝ているはずの遥人が青白い顔ですぐ前まで駆け寄り、当たり前のように無駄に細い腕を掴んだ。

「なんでって……こんな寒い中急に出ていったら心配して当たり前でしょ……手もすごく冷たい」

 逆に握り込んでくる遥人の指先の熱は今までにないほど熱い。それだけ自分が冷え切っていると感じるよりも火傷しそうに熱くて怖い。流れ込んでくる熱量がそのまままた若葉に栄養がいきぐんぐんと心を覆いつくしていくのがひたすら怖かった。

 離して。

 その一言は口から零れず喉仏につっかえて言いたいことすべてを押しとどめる。

 怖いくせに嬉しい。けれどこの先はもうない。どんなに根を張り巡らせ茎を伸ばし続けてもどうにもならないのに。ただ遥人がいなくなった後もこの感情は続き今までよりも苦しくなるばかりだ。

「中に入ってください、五十嵐さんがいつ帰ってきてもいいように温かくしてしてありますから」

 あんな恥ずかしいところを見られたはずなのに、遥人の様子に変わったところはない。むしろ仕事明けの世話をするときのように甲斐甲斐しく手首を掴んだまま靴を脱がせてくる。遥人が綺麗にしたスニーカーは長い時間歩き続けたせいで僅かに汚れてしまったのに、それを見ても表情も態度も変えない。

(いや……じゃないはずないよな。水谷君は責任感が強いだけだ)

 雇用主が突然飛び出したから優しくしているだけ。そう何度も心の中で唱え続ける。これ以上根も茎も伸びないように。ガラスの扉が開くと廊下とは全く違った心地よく湿気を含んだ空気が隆則にまとわりついた。本当にいつでも帰ってきていいように部屋を暖めながら、彼の定位置となっている廊下側の扉に近いダイニングテーブルの椅子に掛けて待っていたのだろう、普段は彼に与えた部屋でやっているはずの次の試験用のテキストが広げられている。僅かでも物音がしたらすぐに迎えようとしてくれたのか。

 心配を掛けさせてしまった。五月にある二度目の試験を学業と並行しながらやらなければならない遥人は帰省する時間だって惜しくてここに残ることを選んだのだ。

(邪魔をしてしまった)

 助けようと思っていたはずなのに、余計な気苦労をかけさせてしまっている。やっぱり自分は一緒にいないほうがいい。けれどこんな年末に彼を放り出す選択肢もない。どうしたらいいのだろうか。

 リビングの真ん中で俯いたまま動かない隆則をそっと促し、ほぼ使っていないソファに腰かけさせる。

「どこに行っていたんですか? そんな薄着で出たら風邪ひくじゃないですか……しかもこんな時間まで」

 初めての責めるような口調に驚いて顔を上げれば、真っすぐにこちらを見つめる瞳は怒りを宿していた。どれだけ心配をかけさせるんだと言っているようでまた慌てて俯く。

「ごめん……」

 謝る以外の言葉が出てこない。責任感の強い彼のことだ、自分が覗いてしまったから逃げ出したのだと思ったのだろう。もしかしたら勉強もあまり進まなかったのかもしれない。

 公認会計士試験がどれだけ難しいものかはよくわからない。だが三回も試験がありその結果では就職先が変わってくると聞けば、彼にとってどれほど大切な時期なのかは理解していた……つもりだった。試験を終え大学を卒業するまではと考えていたのに、これから先どうすればいいのかわからない。

 なによりも、今遥人が何を思っているのかが気になって心が縮む。彼の名を呼びながら自慰をしていたと気付いているのかいないのか、それすらわからなくて身動き一つとれずにいる。

「謝って欲しいんじゃありません。ここは五十嵐さんの家なんですから出ていかなくてもいいじゃないですか。しかもこんな時間まで何をしていたんですか」

 丁寧語なのに怒気が強い。元々低い声がさらに低くなり、リビングの床を這い上がってくるような空気の震わせ方だ。あまり怒られることに慣れていない隆則はそれだけで竦み上がった。

「えっと……」

 家を飛び出してから六時間も何をしていたのかを詳細に言わなければならないのだろうか。なるべく詳細を伏して言おうと頭を動かすが、あまりも疲れ切った身体へ栄養が回りすぎているため、必要な糖分が頭に与えられず普段以上に思考が鈍る。そのうえ寒い中を歩き続けてきたせいで異様に疲れてもいた。

「○○から歩いて帰ってきて……」

「なんでそんな遠いところからっ」

「指定されたから……」

「指定? なんのですかっ」

 遥人の声がどんどんと低く鋭くなり、隆則は敵に囲まれたウサギのようにガタガタと震えながら小さくなった。

「でっ、デリヘルのっ」

 ピクンと遥人の眦が吊り上がったが隆則は気付かない。

「デリヘル? なんでそんなの呼ぶんですか!」

「すっきりすれば変な気を起こさなくていいと……」

 小さくなりすぎて余計に頭の動かなくなった隆則は尋問を受けているような感覚でただ訊ねられることに答えるばかりとなった。

「どんな気を起こすつもりなんですか」

「き……君をおかずに……とか」

「……もしかしてそのデリヘルって女の子じゃない、とか?」

「そっそうです!」

 完全に立場が逆転しているのも気づかないままひたすら怯え続ける。しかもどんどんと質問内容が危うくなっていることに気づかないままほぼ一問一答となっていた。

「あれ、俺をおかずにしてたということですか!」

「ごめんなさいっ」

「それで、デリヘルと何をしてたんですかっ」

「うっ後ろからしてもらいました」

「五十嵐さんはしてもらうほうなんですかっ」

「ゲイのネコでごめんなさいっ」

「なんで俺をおかずにしたんですかっ!」

「好きになってごめんなさいっ!」

「俺のことが好きなのに他の人に抱かれたんですかっ」

「君が気持ち悪がると思って……嫌われたくなくて……」

 あんなに泣いたはずなのに、怖くて悲しくて、またポロリとなみだが流れ落ちる。少し伸びてしまった髪が隠してくれることを祈りながら、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。嫌われたくない。蔑まれたくない。今までした恋と同じように恋の蕾を散らせたくない。だから必死で隠してきたのだ。でもまた同じことの繰り返しだ。きっと気持ち悪がって罵倒されるに違いない。同じゲイにだって受け入れられない自分だ、ノンケの彼がこんな存在を気持ち悪がるに決まってる。

 ポロリ、ポロリと後を追うように涙が流れ落ちる。

「なんで俺が嫌いになるんですかっ」

「水谷君みたいにカッコいい奴がゲイなわけないし、俺みたいなの好きになってくれるはずないっ」

 言葉にして一層自分を傷つける。けれどこれが現実で事実だ。自分に優しくしていたのは雇用主だっただけでゲイなどと知っていたら彼は果たしてこの援助を受け入れただろうか。

 想像しなくてもわかる、応えは否だ。誰だってそんな危険な場所に身を置きたいはずはない。知らなかったからこそ、遥人はここでの仕事を引き受けてくれたのだ。面倒な一回り以上も年上の、おじさんの面倒を。

 涙を零しながら弱々しく笑う。

「俺が出てくから、君はここにいてくれていい。大学卒業するまで助けようって決めてるから……」

「なにバカなこと言ってるんですかっ!」

「でも嫌だろ……ゲイと一緒に住むなんて」

 しかも彼に抱かれる想像までしたのだ。気持ち悪いに決まってる。

「だから気にしないでこのままここにいて」

 勉強だって大変だろう、以前のようにアルバイトで生活費を稼ぎながらの勉強は無理に決まっている。対して隆則はスマートフォンとパソコンとネット環境さえあればどこでだって生きていける。ならこれが一番合理的なんだ。

「できるだけすぐに出ていくから……」
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