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<水無瀬葉月>

スケッチブックと、ペン

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 遼平さん。

 目の下にひどい隈が出来てる。
 ところどころに無精ひげも伸びて心なしか痩せて見える。
 本気で心配してくれてたんだ。

――――――――――――――――――――――――――――

 僕のことを。

 僕なんかを。

 ぼ――――、僕、こそ、ありがとう……。

 心配してくれてありがとう。
 傍に居てくれてありがとう。
 体に傷をつけてまで、きたなくないって言ってくれてありがとう。


(遼平さん、だいすき)


 声に出そうとしたけど声が出なかった。

 あれ?

 力が足りなかった?

 もう一度、声を出そうと喉の奥に力を入れたのだけど駄目だった。

 どうして?

「葉月?」

「りょ――、へ――、さ」

 必死に声を振り絞る。生まれて事の方出したことがないぐらいの大声で叫んでいるつもりなのに、喉から出る声は聞き取るのが精いっぱいなほどに小さかった。

「どうした? 喉が痛いのか? 無理をするな」

 喉は痛く無い。
 普段と何も変わらない。
 どうして声が出ないんだろう?

「どうかなさいましたか?」

 すぐに看護師さんが来てくれた。


(こえが、出ないんです)
 必死に訴える。
 看護師さんはすぐにお医者さんを呼んでくれた。














 診察してもらった結果、喉に異常はなかった。


 恐らく心因性のものだろうとお医者さんが言った。
 強いストレスが原因なのではないか、と。明日、精神科で詳しい診察を、と。


 心因性? 強いストレス?

 どうして!?


 あの家から助けて貰って、やっと遼平さんのところに帰ってこれたのに、どうして今更ストレスで喋れなくなるんだ!?

 隣には遼平さんが立ってる。

 見上げるのが怖い。
 遼平さんはどう思ってるだろう。

 まるで、帰って来たからストレスで声が出なくなってしまったみたいじゃないか。
 遼平さんに対するあてつけだと思われてもおかしくない。
 襲われた僕を助けてくれた。目が覚めるまでずっと傍に居てくれた。腕に傷をつけてまで僕は汚くないって言ってくれた。

 僕にたくさん優しくしてくれた人の隣にやっと帰ってこれたのに、どうして喋れないんだ……!?

 怒られるのが怖い。遼平さんを傷つけるのが怖い。失望されるのが怖い。


 遼平さん、ごめんなさい……!

 遼平さんの大きな掌が僕の頭に乗った。
 びくりと体が跳ねあがる。

「とうとうここまで幸せが溜まっちゃったのかな?」

 遼平さんが僕の前にしゃがみ込んで、僕の心配などまったく的外れだと言わんばかりの笑顔を見せてくれた。

「ホテルに泊まった時に言ってたろ? 喉まで幸せが溜まったみたいで声が出てこないって。とうとう頭まで幸せが溜まっちゃったのかもな。葉月の体と心が「喋りたいよー」ってなるまで、しばらくお喋りはお休みだな」

 大きな体で抱いて背中を優しく撫でてくれた。

「ごめ――さ………」

「謝るな。葉月はとてもいい子だから頑張り過ぎちゃったんだよ。これからはゆっくり休もうな」

 顔を撫でる掌に甘えて目を閉じた。










 声が出ないのは辛かったけど、嬉しいこともあった。

 遼平さんと二人で病室に帰り、ドアを開く。
 ウサギのヌイグルミが真っ先に目に飛び込んできた。

「ぴょ――――!!」


 ぴょん太だ! ぴょん太が居た!! ぴょん太、ぴょん太、どうして!?

 遼平さんを振り返る。

(どうしてぴょん太がここに!? 売られたはずなのに!)

 声は出なかったけど伝わったようで、遼平さんは言った。

「リサイクル店で見つけたんだよ。ずーっと葉月を呼んでたんだぞ。な、ぴょん太」

『遼平君? 葉月君はどこ?』

「ここに居るよ。今はちょっと声が出ないけどな」

『声が出ない……? 葉月君、会いたかったよー』

 僕も会いたかった。良かった、良かった……!

「抱っこしないのか?」

 抱っこ……?
 抱っこしたい。
 本物のウサギと同じもふもふに触りたい。

 ドキドキする。

 熱した鍋にでも触るかのように、おそるおそる指を近づける。
 消えないよね?
 遼平さんにも見えてるんだ、大丈夫だよね?

 触るのが怖い。

 つん。と指先で突く。
 消えない。

 掌で頭を撫でる。

 ふわりとした感触がした。


 消えない…………!


 ベッドの上に転がったまま、ゆらゆら揺れて、『葉月君』と僕の名前を呼んでくれた。

 ぴょん太、ぴょん太…………!!

 たまらず抱きしめて頬擦りした。
 よかった、本当によかった!
 会いたかったよぴょん太……!!

『葉月君―すきー』

 え!?
 いきなり好きって言われてどぎまぎしてしまう。

「おい、葉月。ぴょん太に好きって言われたぐらいで顔を赤くするな」

 だ、だって、だって、好きって。

「言っておくが俺の方が葉月を好きだからな。大好き大好き愛してる」
『遼平よりもぴょん太の方が葉月君のことが好きだー! 好き好き大好きー!』

 うぅ、やめてほしい。心臓麻痺になりそうです。

 せめて名前ぐらい呼びたいな。
 息を大きく吸って声を絞り出す。

「ぴょ――た――」

 ぴょん太はゆらゆら揺れた。

『無理しちゃメッー、だよ。うんって言いたいときは、ぴょん太の右手をギュってして』

 右手をギュ?
 言われるがまま握りしめる。

『違う時は、左手をギュー。それで、ぴょん太とお話ししよう』

 そんな機能もあったんだ。ありがとうぴょん太。右手をぎゅってして、「うん」を伝えた。

 遼平さんにぴょん太。失くしたものが全部戻ってきた。
 なのに、どうして、僕は声を出せないんだろう。

 ストレスなんて無いはずなのに。


☆☆☆


「お休み、葉月」

 僕はベッドに、遼平さんは付添い用の簡易ベッドに横になる。
 ベッドからはみ出る長身が妙に懐かしかった。

 寝て、起きたら、声が出るようになってるんじゃないかな。

 そう期待したんだけど、次の日も僕の声は出てくれなかった。

 朝一で本格的に診察をしてもらった。
 遼平さんと離れ筆談でカウンセリングも受けた。


 その結果わかった事だけど、僕の心には傷があるんだって。
 声が出ないのも幻覚や幻聴もそれが原因だった。

 傷……。

 胸に触れる。当然表面には傷なんて無い。
 幻覚や幻聴だけじゃなく大声が怖いのも言葉が上手く出ないのも、全部、心の傷が原因なんだって言われた。

 家に居て、辛いことはいっぱいあったけど、僕は、殴られたわけでも蹴られたわけでもない。
 お腹が空いて辛いってこともあまりなかった。
 それなのに心に傷があるだなんて。
 僕は本当に弱い人間だなぁ……。自分が情けない……。

「質問はあるかい? 水無瀬君」
 お医者さんの言葉に首を振る。ただ、一つだけお願いがあった。

 『幻覚や幻聴のことは陸王さんに教えないでください』。と、手元のボードに書いた。

 僕はこの期に及んでもまだ、自分の頭がおかしいと遼平さんに知られたくなかったのだ。

 遼平さんと二人きりの時なら、叫び声を上げる勢いで頑張れば小さな小さな声が出るものの、先生や看護師さん相手だと全く駄目だった。
 驚くことに、くしゃみの声さえ出なかった。
 点滴も無くなり、ご飯を食べられるようになり、午後には退院していいって先生が言った。

 診察室から出ると遼平さんが待っててくれてた。

「じゃーん。売店でスケッチブック買って来たぞー。ウサギさんのペンも一緒にな。これ、ちょっとぴょん太に似てるだろ?」

 十色以上の色があるせいで、マジックみたいに太い多色ボールペン。

 上についたマスコットは遼平さんの言う通りぴょん太そっくりだった!
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