この段階でも、まだ私は「来月払えばいいんじゃないの?」といった感覚でいた。
そんな私の様子を見て、X氏は「コラ! そんなわけないだろ! 大企業の論理が中小企業に通じると思うな! どんだけA社を含めた中小企業が資金繰りに困っているか、お前は想像もできないのか! A社はオレ達にとって大事なビジネスパートナーであり、あの会社がなかったら、オレらなんて何もできないんだよ! それなのに、10分もあればできる発注書の発行をしないとはなにごとだ!」とついに激怒した。
そしてすぐにA社のM社長に電話をかけ、こう言った。
「申し訳ありません。ウチの中川がまだ発注書を発行していませんでした。今すぐに発行させ、バイク便を往復便で出します。それから明日の朝管理部に掛け合って、なんとかするようにしますので……。この度は本当に申し訳ありません」
X氏がここまで平謝りしているのを見て、私はちょっとした手数を踏まなかったことが、とんでもない事態を呼び起こしたことにようやく気付いた。X氏は電話が終わった後、狼狽しながらこう言った。
「あの会社の資金繰りについて、オレはよくわかっている。優秀な会社だから仕事を色々出そうとはしているけど、イベント会社という業態自体がそこまで儲かるわけじゃない。今回の3000万円の仕事は相当大きい話で、もしかしたら彼らは、その下にいる会社やスタッフにすでにカネを支払っているかもしれない。ただでさえウチからの支払いは遅いので、それが1ヶ月遅れるということになったら、ヘタしたら数日以内に不渡りを出す可能性がある……。本当にヤバい……」
私は事の重大さに青ざめた。X氏はこう続けた。
「中川。もしかしたら、お前がA社を潰すことになったのかもしれないぞ……。発注書というのは、そこまで重いものなんだ。明日、管理部にかけあって、なんとかA社への特例を認めてもらうよう交渉するけど、正直どうなるか分からない。お前も明日は早く会社に来てくれ」
能天気、かつ苦労した経験のない2年目のバカ若手の浅はかさから、A社の従業員20名とその家族、さらにはその下請けの人々を路頭に迷わすことに繋がってしまうかもしれないのだ。
これはさすがに私も「やらかした……」と反省しきりだった。結局、X氏が管理部に頭を下げまくり、「こんなことは今年はこれだけにします。どうか処理をしてください」とお願いし、「特例」を認めてもらえた。以後、私は17日までには必ず経理処理の手続きをするようになった。
そんな私もいつしか会社を辞め、商流の末端であるフリーライターになった。しかし、ある程度仕事が増えてくると、ライターやカメラマン、イラストレーターに発注する側になってきた。その時、例えば私が雑誌の編集部から翌月末にギャラをもらう場合、外注先にはその10日前の20日に支払うことにしていた。それが発注主としての矜持だと考えていたのである。
ある時、一緒に地方出張に行ったカメラマンから、新幹線を降りたJR品川駅でこう言われた。
「中川さん、今日の仕事のギャラ、今もらえますか?」
これには、さすがにこう言うしかなかった。
「えっ? 支払は来月20日ですよ。オレだって発注主からギャラをもらえるのは来月30日なんですよ。今払うわけにはいきません」
すると彼は「オレは今日カネが欲しいんです。今日もらわないと困るんです! 今日仕事したんだから、今日ください!」と主張する。
この時、彼は何らかの支払いが滞っていたのだろう。私はこの日のギャラ10万円を即座に払うべく、駅構内のATMに行き、10万円をおろし、「納品書を後でお送りください」と伝えながら、「こいつとは一生仕事をしない」と決めたのだった。
仕事をするにあたって、A社に対する私の非常識過ぎる対応では「上流」を尊重するのではなく、「下流」の方を大事にすることこそが肝要なのだと実感したが、「下流」が理不尽なことを言った場合、容赦なく「切る」こともこの時学んだのである。