自分では対処できないことに相対した時、人はとても強いストレスを感じる。特に、相対した問題が自分には理解できないことで、それでも解決を義務付けられているとき、それは地獄だ。そのストレスにメンタルは削られ、対抗しようにも何もできず、問題は解決しない。
そんな袋小路の泥沼にハマったことのある人は、きっと少なくないのではないだろうか。
今日は、そんな最悪な環境から抜け出すためのお話をしたいと思う。
これは、まだ私が若い時の話である。
私が当時勤めていた会社は、とある化学製品メーカーを顧客としていた。
大口の顧客なだけあって、売り上げはまさにナショナルクライアント。年間の取引額は数億円を下らず、もたらす利益も莫大。
そんな社内外にとって存在感のある取引先であるがゆえに、当時勤めていた会社も営業部をはじめとして社内のスタープレイヤーを上から配置し、万全の体制でビジネスを進めていた。
当時そのスタープレイヤーの集まり、銀河系軍団とも言えるチームを率いるリーダーであった私の先輩は、組織のエースであり頼れるお兄ちゃん、いやお兄様的な存在であった。
容姿端麗、頭脳明晰、物腰やわらか、いい匂いもする。もはや何かしらの科学実験で誕生した生物兵器なのではないかと思うぐらい、完璧な人であった。
私と周囲のメンバーに至っては、その先輩のことを上司よりも慕うあまり、付き合い始めて半年以降は呼び名が「お兄たま」「閣下」「主(しゅ)」など、うなぎ上りに変わるほどであった。
最終的には、朝出社したら本人に向かって「主よ、本日もよろしくお願いします」などと率先して伝える圧倒的信仰っぷりであった。
彼はそんな私を笑いながら転がし、日々後輩の育成も顧客のワガママも一切を笑顔でこなす、気持ちのいい青年だった。
そんな私の尊敬を一身に受けていたその先輩が、ある日突然壊れた。
大口顧客に対応するための圧倒的業務量、会社の命運がかかる日頃のやりとりの緊張感、常に社内で注目され、上層部に期待され続けるプレッシャー。
その全てが、完全なる「仕事ができる理想の男」である彼の精神を押しつぶした結果、彼は体調を崩し、突然の退職願を社内に召喚した。
私は驚いた。何に驚いたかというと、まさかの次なるリーダーが私になったことである。
彼の体調や精神を心配する一方、自分の未来も強烈な不安に包まれた。
上司とチームメンバーのいる会議で、次なるリーダーに指名された際、思わず上司に向かって「な……なんでなんだぜ(?)」とタメ語で返答したほどだった。
その日、いなくなった我が主、そして代行となった我が身、その二つを憂いながら私は帰路についた。
足取りは非常に重い。どうすればいいんだろう。
何が起きたんだ。
え、何が? ん? ……は? そんな心境である。
近くのスーパーで、ワンカップ日本酒を購入して、公園のベンチに座った。
サラリーマンがこうしている姿を漫画やドラマで見てきた。私も真似してみれば、それらの主人公のようにハッピーエンドに行き着くのではないか?
そんな一縷(いちる)の望みをかけたワンカップギャンブル。
しかし何も答えをくれないまま、ワンカップ日本酒は私の喉に消え、酔っ払いだけがその公園に残った。
次の日から、私のリーダー代行の日々が始まった。
衝撃、いや笑劇とも言えるほど、仕事の必要水準に能力が追い付いていない。
思考のスピード、作業の品質、そして納期の遵守意識。
その全てが圧倒的に足りていない。初日はもうフルボッコもいいところである。ひとりで関ケ原の戦いに乗り出してもここまでボコボコにはされないだろう、というぐらい社内でボコボコにされた。
何より、分からないことが多い。分からないままに、分からないことを進めて、分からないなりの結論を必死に出す。その全てが空振りだった。今や敵兵にも見える社内のチームメンバーから蔑視(べっし)が私に注がれる。
初めての戦場、初めての大一番、初めての関ケ原。
そのど真ん中で、私は確かに一人ぼっちだった。
数週間続いたそんな状況の最中で、私はあまりにも辛くなり、禁止カードを切った。
元リーダー、いや、我が主に連絡を取ったのだ。
短い呼び出し音のあと、聞き覚えのある元リーダー、現主(しゅ)、先輩の声が聞こえた。
私はまるで某国民的アニメのいじめられっ子が、国民的青いネコ型ロボットに悩みを打ち明けるようにひたすらに怒涛の泣き言をぶつけた。
我が主、いやむしろこの場ではネコ型ロボットである彼は、時折自分のせいだと私を慮(おもんぱか)る言葉を静かに投げかけながら、一言質問した。
主「ところで、どんな仕事しているの?」
僕「……いや、どんな仕事って、先輩の残した仕事ですよ」
主「それは分かってるよ。ちょっと説明してみてよ。どの仕事の何で悩んでいる?」
私は今さら何聞いてきてんだと、自身の信仰と尊敬の対象である主&ネコ型ロボットに、自身のやっている仕事を半ばヤケクソになりながら説明し始めた。
もちろん、知らないものや分からないこと、それらもそのまま伝えた。
しかし引き続き、その先輩は私の話を静かに聞いてくれた。
そして最後に私にアドバイスをくれた。
主「今の説明でさ、他人が仕事を引き継がれたら分かるかな」
僕「ハイ? 分からないでしょ。僕もできないし、分かってないところ多いんだから」
主「それだ。ソコだよ」
声色が変わった。病床に伏しているとはいえ、累積数十億の売り上げを作り出したネコ型ロボットは、鋭く私に切り返した。
主「できないのは、分からないところが多いからだ。分からないのは、知らないから。つまり、知らないままやるから、できない」
なんとまあ、当たり前のことを大発見めいたテンションで言うネコ型ロボットなんだ。未来に帰れ。気をつけて帰れ。
もはや、呼び名すらも主から閣下に格下げしてやろうかと思った私に、主&ネコ型ロボットは続けた。
「いいか? 対処すべき問題は、『できない仕事をどうするか』ではない。『知らないことはどうすれば知れるか』を考えるんだ。そうすれば、知らないことがなくなる。知らないことがなくなるから、知らないままやらなくなる。知ってることならデキる。だから、仕事に対して、今日から解像度を上げるんだ。知らないことをなくせ。知っていることなら人間は対処できる。見えないし知らないし、分からないからどうすればいいか分からないんだ。何度でも言う。解像度を上げろ」
ポカンとする私に対して、遺言とも言えるアドバイスを残し、先輩はその電話を切り上げた。
アホみたいにポカンとした私は、もはや思考もできず、ひたすら主の遺言をやってみることだけを決意し、毎夜のルーティンとなっているワンカップ日本酒を、公園のど真ん中で飲み干した。