少し前の時代には、役割がもっと固定されていました。
男性は外で働く。
女性は家を守る。
父は稼ぐ人。
母は支える人。
そういう分け方が、当たり前のように置かれていた時代があります。
もちろん、それは決して美しい話だけではありません。
性別だけで生き方を決められる。
得意なことより、期待された役割を優先させられる。
「こうあるべき」に、自分の人生を合わせなければならない。
その中で、自分らしい選択を奪われた人は多かったはずです。
一方で、現代は少しずつ変わってきました。
男女ともに働く。
男女ともに家庭に関わる。
結婚していても、していなくても、子どもがいても、いなくても、自分の生活を自分で組み立てる。
これは本来、良い変化です。
選択肢が増えた。
性別だけで人生を決められにくくなった。
しかし。
役割の固定がゆるんだあと、役割の分け直しまで十分に進んだとは限りません。
仕事もする。
家のこともする。
親のことも気にかける。
人間関係も調整する。
自分の健康も、お金も、将来も考える。
昔は、役割が固定されることで苦しかった。
今は、役割が重なりすぎることで苦しくなることがあります。
自由になったはずなのに、なぜか楽にならない。
その背景には、選択肢が増えた一方で、背負う役割も増えたという現実があるのです。
生活の中には、いろいろな行為があります。
やらなければならないこと。
自分で選んでいること。
誰かとつながること。
体を休めること。
自分らしさを感じること。
本当は、そのバランスで一日はできています。
でも、役割が増えると、どうしても「やらなければならないこと」が生活を埋めていきます。
親だから。
子だから。
働く人だから。
支える人だから。
家を回す人だから。
気づく人だから。
どの理由も、間違ってはいません。
間違っていないからこそ、断りにくい。
後回しにしにくい。
「まあ、仕方ないか」と引き受けてしまう。
その結果、一日は確かにちゃんと進みます。
仕事は終わる。
家のことも回る。
誰かへの返信も済む。
必要な段取りもこなされる。
でも、自分で選んでいる感覚は薄くなる。
自分が今日何をしたかったのか。
どこまで引き受けたかったのか。
何を大切にしたかったのか。
どこで休みたかったのか。
そういう問いが、少しずつ後ろへ下がっていく。
ここが、「役割に呼ばれる疲れ」の厄介なところです。
生活は止まっていない。
でも、自分で動かしている感じがない。
役割があることがしんどいのではありません。
義務としての役割ばかりが増えて、自分の選ぶ余白が消えていくこと。
そこに、見えにくい重さがあります。