「経験は積んできた。会議でも発言できる。場の空気も読める。責任も役割も果たしているし、大体のことはわかる。毎日ちゃんと働いている――でもなぜかずっとしんどい」
「腹が立つはずのことに、何も感じなくなる。うれしいはずの評価にも、反応が薄くなる。休日に休んでも、回復した感じがしない。新しいことを考える余白もなくなる」――
このしんどさは、気のせいでも、年齢のせいでも、根性のせいでもない。本連載では、作業療法士としてのべ5万人の「働く人」と向き合ってきた著者が、「なぜかずっとしんどい」の正体に一つずつ名前をつけ、毎日の中で自分を取り戻していける小さな手がかりを提示する。答えは自分の中ではなく、働き方と身体の繋がり方の中にある。
自分の一日なのに、他人の用事でできている気がする日があります。
もちろん、全部が他人の用事というわけではありません。
仕事も、家のことも、親のことも、人間関係も、自分に関係のあることです。
だから放っておけない。
だから応える。
だから考える。
だから調整する。
でも、気づくと一日が「反応」で埋まっている。
頼まれたから動く。
気になったから確認する。
心配だから先回りする。
抜けそうだから覚えておく。
迷惑をかけたくないから整える。
ひとつひとつは悪いことではありません。
むしろ、ちゃんと生きている証拠のようにも見える。
それでも、どこかで自分が薄くなる。
役割には応えている。
でも、自分で選んでいる感じがない。
このしんどさは、予定が多いからだけではないのかもしれません。
いくつもの役割に呼ばれ続けるうちに、自分の生活の主導権が少しずつ後ろへ下がっていく。
今日は、その見えにくい重さについて考えてみます。
役割は、悪者ではありません。
働く人であること。
家族の一員であること。
親を気にかける子どもであること。
誰かを支える人であること。
場を整える人であること。
頼られる人であること。
そういう役割があるから、人は誰かとつながれます。
自分がここにいていい、と思えることもあります。
「あなたがいてくれて助かった」
「任せてよかった」
「気づいてくれてありがとう」
そんな言葉に、少し救われる日もある。
だから、役割そのものを悪く思う必要はありません。
問題は、役割が増えすぎたときです。
しかも、それが全部「呼ばれたら応えるもの」になっているときです。
働く人として呼ばれる。
家のことを回す人として呼ばれる。
親を気にかける人として呼ばれる。
人間関係を調整する人として呼ばれる。
先に気づく人として呼ばれる。
呼ばれるたびに、応える。
それを続けているうちに、一日は進みます。
予定も片づきます。
生活も、なんとか回ります。
でも、自分で生活を動かしている感じは薄くなる。
ここでは、この状態を「役割に呼ばれる疲れ」と呼んでみます。
やることが多いだけではありません。
いくつもの役割に反応し続けることで、生活の主語が少しずつ「自分」から「役割」へ移っていく。
その疲れです。