『青天を衝け』渋沢栄一の“同僚”一橋徳川家臣団の全貌…徳川慶喜に仕えた有能な男たち

 猪飼勝三郎正為(いかい・かつさぶろう・まさため)がいかなる家柄の出身かは不詳だが、中根長十郎と同様に一橋家臣の二世である可能性が高い。

 旗本の猪飼家は、家祖・猪飼半左衛門正利(いかい・はんざえもん・まさとし)が天正17(1589)年に家康にはじめて仕え、800石を領したが、安永4(1775)年に不祥事で改易された。その分家として300俵の五郎左衛門家、200俵の五郎兵衛家の2軒がある。

 五郎左衛門家の2代目・猪飼五郎左衛門正高(まさたか)の弟・久右衛門正表(きゅうえもん・まさあきら)、次男・茂左衛門正義(もざえもん・まさよし)、三男・三郎左衛門正倫(さぶろうざえもん・まさとも)がそれぞれ一橋家に仕えている。また、五郎兵衛家の6代目・猪飼五郎兵衛正胤(まさたね)ははじめ本家の四男として一橋家に仕え、五郎兵衛家を継いで一橋家家臣を辞している。かれらのいずれかが勝三郎の父である可能性が高い。

家臣団のなかでも身分が低かった渋沢栄一…それでも優秀なればこそ“経理部長”にまで出世

 そして、渋沢栄一のように武士身分ではなかったり、幕臣に連なる家系でない者たちである。

青天を衝け』第13回(5月9日放送)で、原市之進が水戸藩から派遣されてきたと描かれた。

 渋沢栄一を平岡円四郎のもとに案内する川村恵十郎は、もともと小仏(こぼとけ)関所という甲州街道の関所に勤めていたところを、円四郎にスカウトされたという(円四郎が甲府勤番に飛ばされた時に知り合ったのだろうか)。

 慶喜の役割が増すにつれ、家臣を増強する必要に駆られ、めぼしい者をスカウトしていったのだろう。円四郎らが本社で採用された職員ならば、栄一や川村は支店の現地採用組といったところだろうか。

 やはり、現地採用組は一橋家家臣のなかでは身分が低かったようだ。しかし、そんななかで栄一は勘定奉行の組頭筆頭(今風にいうなら、一橋支店経理部長といったところか)まで上り詰めている。それだけ渋沢栄一が優秀であり、また有能な人材を登用していこうとする時代の要請だったのだろう。

“忠実な執事”不在のため…御三卿(一橋、清水、田安徳川家)の明治維新後の不幸

 一橋徳川家は御三卿(ごさんきょう)のひとつであるが、同じく御三卿に清水徳川家、田安徳川家があった。これらの家系は、いずれも家臣が旗本の出向組という共通点がある。そのことが、明治維新後に不幸を招く結果となった。

 明治維新後、御三卿も大名として扱われ、家政を運営する家令・家扶(かれい・かふ)が置かれた。ドラマやマンガでよく出てくる執事のことである。執事といえば、主人に忠実で、時にはディナーのあとで事件を解決してしまうくらい有能というのがお決まりなのだが、現実はそうとは限らない。

 昭和2(1927)年頃の昭和金融恐慌で、華族資本で設立した十五(じゅうご)銀行が破綻し、多くの華族が経済的な苦境に陥った。

 田安徳川家の夫人は、「婚家では十五銀行の倒産以来経済的に逼迫して、没落に瀕しました。義父母はその自覚もなく執事任せの相変わらずの生活状態を崩さなかったので、とうとう三田の家を慶応義塾に売って、千駄ヶ谷の本家の別棟に住むようになりました。私の実家(美濃大垣藩・戸田家)と異なり、江戸城に住んで、天領という領地を地方に持っていただけで、藩主ではありませんでしたから、お家大切に殿様を真剣に護(も)り立てる忠実な家来がなく、ただの使用人である執事に経済を任せきりにしていたのも没落を早めた結果になりました」(徳川元子『遠いうた 徳川伯爵夫人の七十五年』文春文庫/カッコ内は引用者)とその頃のことを述懐している。