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フィレンツェ

花梨奈の父①

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「それは大変だったね。もう体は大丈夫かい?」
「うん、もう元気よ」

 翌朝、迎えに来てくれたシモーネにホテルのロビーラウンジで、昨日ドゥオーモに行けなかったことを話す。

 結局昨日は体がいうことを聞いてくれなかったけど、今日は行きたいな。私がシモーネの言葉に頷くとトモが捕捉するように付け足した。

「花梨奈さんの体調のこともありましたが、やはり観光にはシモーネさんがいたほうがいいかなとも思いまして。色々ドゥオーモのことを教えてください」
「オッケー。じゃあ今から行こう」
「うん!」

 嬉しい!
 元気良く頷いた瞬間、トモのスマートフォンが着信を知らせた。


「あ……すみません。仕事の電話です。少しだけ待っていてください」
「大丈夫だよ。大切な電話なんだし、ゆっくりして来て」

 私が笑顔でそう言うと、トモは私の頭を撫でて少し離れたところへ行き、電話に出た。それを確認した私たちはロビーラウンジの端のほうに腰掛けて待つことにする。


「ねぇ、シモーネ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は何がオススメ?」
「そうだね……。あ、でも体調は本当に大丈夫なのかい? クーポラへ上がる階段もジョットの鐘楼の階段も長いんだ。病み上がりなら、しんどいかもしれないよ」
「大丈夫よ、たぶん」
「そうかい? でもつらい時は我慢せずに言うんだよ」
「うん! ありがとう」

 シモーネったら心配性なんだから。
 まあでも、体調不良の原因がトモとのエッチのやり過ぎとは言えないので、少し胸が痛んだが、素直に頷いた。

 フィレンツェは見どころが多くとても観光しやすい街だから、今日はほかにも色々と見てまわりたいな。



「花梨奈っ!!」

 えっ……!?

 シモーネと今日の観光について楽しく話しながらトモを待っていると、突然その空気を打ち壊すような怒号が聞こえて、私は飛び上がった。


 え? な、何……?
 今、私を呼ばなかった?

 その怒号におそるおそる振り返ると、そこには般若のような顔をした父が立っていた。


「え……? どうして、こんなところに……?」
「カリナ、どうしたの? 誰?」
「私の父よ」
「えっ?」

 私の言葉にシモーネがとても驚いた顔をした。だが、それは私も同じだ。イタリアに来て今年で九年目になるが、今まで偶然会うなんてことなかったのに……

 そ、それに、私あの日の電話からずっとブロックしたままなのよね。単純に解除し忘れていただけなんだけど、なんだか気まずい……

 怒っているわよね? 絶対あの顔は怒っているわよね?

 私はシモーネに「ちょっと待っていてね」と声をかけ、意を決して父に近づいた。

 今はトモは電話中なんだし、私がしっかりしなきゃ……

 トモのところまで逃げたい気持ちをぐっと抑え込み、父に向き合う。


「お父様……。お仕事でこちらに来られていたのですか? あ、あの……。電話に出なくて申し訳ございませんでした。でも、一体どうなさ……っ」

 その瞬間、バシンッという大きな音がホテルのロビーに響く。それと同時に自分の体がシモーネのほうまで飛んだ。頬を打たれたのだと自覚した時には、じんわりと口の中に血の味が広がる。


「……っ」
「カリナ! 大丈夫かい? 急に何をするんだっ!? カリナのパパかもしれないけど、暴力は許さないよ!」

 シモーネが声を荒げると父は彼を一瞥して、私へ視線を向ける。そして「みっともないから立ちなさい」と言った。その言葉にふらつきながら立とうとすると、シモーネが支えてくれる。


「一体どういうつもりだ? 婚約者ができたと言ってあっただろう? それなのに、このようなところで男とイチャつくなど、恥知らずもいいところだ!」

 イチャつく? 私がシモーネと?

 言われた言葉の意味が分からず硬直する。
 混乱する頭で父の言葉を反芻すると、徐々に理解してきた。
 おそらくこの人は私がトモといるのを知らないのだろう。だから、私がシモーネと不貞行為を働いていると勘違いしたのだ。

 そうに違いないと思い、私はゆっくりと首を横に振った。顔を動かすと、叩かれた頬がズキンと痛む。


「お父様、違います。この方は……」
「まったく……。イタリアに留学させ就職させたのは、海外で学ばせれば経歴に箔がつくと思ったからだ。断じて男と遊ばせるつもりではない。お前は少しでもその身の価値を上げて、よい家に嫁ぐ努力をせねばならんのに、このようなところで……。どれほど学ばせても愚かなのは変わらんな。いつも言っているだろう。品位を損なうなと」

 父の言葉に大きく目を見開く。
 それと同時に今までの楽しかった気持ちが瓦解していくのを感じた。足もとから闇に呑まれていくような感覚に、ぎゅっと唇を噛み目を瞑り呼吸を整える。

 ……分かっていたことじゃない。お父様はこういう人だ。何年経とうが変わらない。

 会社や家の利益のためなら平気で子を売り飛ばせる人。妻や血を分けた子への愛情の欠片すら持てない人。
 でも私は、この人に売り飛ばされるんじゃない。自分の意志でトモと結婚するの。

 逃げ出したくなった気持ちを抑え込み、ぐっと拳を握りしめ、父を睨む。


「なんだ? その目は……。お前はイタリアに長くいすぎて、何かを勘違いしているようだな。はぁっ、お前の兄たちあの二人がしつこく言うから箔付けのために留学を許したが、このような生意気な態度を身につけるのだったら、やはりさせなければ良かったな」

 そう言って重い溜息をつく父にシモーネが睨みつける。日本語が分からなくとも、父が言っていることが悪いことだというのは分かるのだろう。

 はぁ、それにしても本当に頭が固い。溜息をつきたいのは私よ。女は心のない道具などではないのよ。


「お父様。私、七條知仁さんに嫁ぎます。それにより出る利益は彼と話し合ってください。ですが、私は日本に戻るつもりはありません。彼とロンドンで暮らします」
「……知仁くんの拠点はイギリスだ。そんなもの当たり前だろう。そんなことより、お前の勤務先には退職の手続きをしておいたぞ。結婚が決まっていながら、いつまでも働いている必要などないからな」
「は? そんな勝手な……!」
「何が勝手だ! 勝手なことをしているのはお前だろう! この愚か者!」

 その言葉にカッとなって言い返すと、父がまた手を振り上げた。
 殴られると思い覚悟を決めて目を瞑った瞬間、またもやバシーンと大きな音が響く。

 ……あれ? 痛くない……!

 おそるおそる目を開くと、そこには私を庇うように立ったトモがいた。

「トモ!?」

 え? どうしてここに? 電話をしていたんじゃ……

 目を瞬かせていると、私の代わりに父に殴られた彼が、ぐるっと私のほうへ体を向け抱き締めてくれた。

「トモ……大丈夫? どうして? どうして間に入ってくるのよ!」

 赤くなってしまった彼の頬に震える手を伸ばすと、彼も私の腫れた頬を痛ましそうに見た。そして忌々しげに父に視線を移す。


「話はあとです。花梨奈さんはシモーネさんのところで待っていてください。僕は話をしてくるので」
「で、でも……」
「花梨奈さん、いい子ですから。待っていてください」
「知仁くん。君は……」
「赤司さん、僕はたとえ父親でも花梨奈さんに暴力を振るった貴方を許せません。さあ、あちらで話をしましょうか?」

 普段の穏やかなトモの声とは思えないくらい低い声にただならぬものを感じて、私は頷いて一歩下がった。すると、シモーネが「カリナ、手当てをしよう。頰が腫れてきてるよ」と私の手を引いてくれる。


 トモ……
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