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フィレンツェ

その後……(知仁視点)

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「ふぅ、さっぱりしましたね」

 その後は花梨奈さんと一緒にお風呂に入った。ゆっくりとお湯に浸かってからバスルームを出ると、まだ元気がないのか大人しく体を拭かせてくれている。

 拭き終わりバスローブを羽織らせ、自分も手早く拭きバスローブを羽織る。すると、花梨奈さんが僕に背を向け下着を手に取ったので、僕はその手をそっと止めた。そして白いレースの下着を彼女の手から奪い取ると、花梨奈さんの眉根が寄る。

「返して……」
「花梨奈さん。どうせ脱ぐんですしいらないと思いませんか?」
「~~~っ」

 そう言うと、彼女は耳まで真っ赤にして俯いた。

 はぁ、可愛いな。
 このまま、ここで抱きたい……。だが、ダメだ。セックスの前に彼女に何か食べさせないと……

 自分を律するように固く目を閉じ、深く息を吐く。すると、甘えるように花梨奈さんがすり寄ってきた。

「うん。私も今日はエッチしたいかも。嫌なこと全部忘れさせて?」
「……っ!」

 破壊力抜群の上目遣いでそう言われて、一瞬理性が飛んだ。僕はかぶりを振り、呼吸を整え、理性を呼び戻す。

「ダメですよ、花梨奈さん。その前に食事です。下着はちゃんとつけてください」

 先ほどとは正反対のことを言って膝をつく。そして、花梨奈さんにショーツを穿かせた。
 彼女は「変なトモ……」と言いながら、首を傾げている。


「花梨奈さん。体が冷えてはいけないので、部屋に行きましょうか?」

 そう言って微笑むと、花梨奈さんは小さく頷いて僕の首に手を回した。そのまま抱き上げベッドルームへ向かう途中で時刻を確認する。

 十九時過ぎか……
 シモーネさんが、何も食べずにずっと僕を待っていたと言っていたので、さすがにお腹が空いているだろう。

 そう考えを巡らせながら、ベッドルームへ入る。


「花梨奈さん。ルームサービスを頼んでくるので、ここで少し待っていてください」
「え……? いいお腹空いてないから」

 彼女をベッドにおろし、そう言うと彼女がとても不安げに僕を見つめる。

「ダメです。何か食べないと」

 はぁ、まいったな。
 そんな顔をされると離れられなくなるじゃないか……。こちらの部屋からフロントに電話をするか。

 その時に花梨奈さんの腫れた頬が目に入って手を伸ばす。が、触ると痛いだろうから、触れるギリギリで手を止めて、ぐっと拳を握り込んだ。

 この頬を見るたびに自分の中にどす黒いものが渦巻いてくる。花梨奈さんに手をあげるなど絶対に許さない。父親でなければ潰してやったものを……


「トモ……?」

 その時、彼女の不安そうな声で我にかえる。彼女は僕が怒っていると思ったのだろう。「ご、ごめん。行ってきていいよ」と、慌てて離れようとした。そんな彼女をぐっと抱き寄せる。

「すみません。違うんです。君の頰を見ていると赤司さんへの怒りが……」
「だ、だから、怖い顔していたの? も、もういいよ。お父様はああいう人だから、気にしないで。今に始まったことじゃないし」

 ……ということは、手をあげられるのは今回が初めてじゃないということでは? やはり消したほうがよくないか?

「トモ……」
「いえ、すみません。花梨奈さん、嫌なことは忘れて美味しいご飯を食べましょう」

 自分の中を支配しそうになる感情にかぶりを振る。

 今回、花梨奈さんを不安にさせてしまった原因は僕にもある。なんの連絡もいれずに、見送りに行ったままの僕が夕方まで帰らないとなると、不安になって当然だ……

 あとでたくさん謝らないと。


 その後、「食べたくない……」と駄々を捏ねる花梨奈さんを膝に乗せ、メニューを一緒に見ながらルームサービスを頼んだ。

 彼女も観念したのか「スープと小さなパンなら食べられるかも……」と言ってくれたので、ホッと胸を撫で下ろす。


「さて、来るまでの間……少し話をしましょうか?」
「話?」
「赤司さんが、勝手に退職の手続きを取ったことは聞いています。花梨奈さんはどうしたいですか?」

 僕の問いかけに彼女が顔を俯ける。そして消え入りそうな声でぽつぽつ話しはじめた。

「わ、私、天然物から新規の香気成分を発見したり、その成分の新しい分析技術の開発をするのが好きだったの」

 話しだすと彼女の目からボロボロと涙があふれてくる。慌てて目を擦る彼女の手を取り、ぎゅっと抱き締める。

 好きなものを取り上げられたのだ。つらくて当然だろう。
 ずっと陰ながら見守ってきたから、花梨奈さんがどれほど香料研究を頑張ってきたか知っている。それに仕事中の花梨奈さんはとてもいきいきとして輝いている。

 自信に満ちあふれ研究発表をしていた彼女の姿を思い出し、目を瞑る。


「花梨奈さん。退職を取り消すことは可能です。僕に任せてくださいませんか?」

 花梨奈さんが働いている香料メーカーは現在うちの子会社だ。退職の手続きを無効にすることくらい容易い。

 念のために買収しておいたのが役に立って良かったと安堵の息をつくと、彼女が僕の腕の中で小さく首を横に振った。


「嬉しい、ありがとう。でも取り消す必要はないわ。だってトモの拠点はイギリスなんでしょう? だったら結局は結婚を理由に辞めなくちゃダメだから取り消さなくていいよ。ヴェネツィアとロンドンを飛行機で通うのは看過できないし」
「ですが、花梨奈さん……」
「私ね、自分の意志で決められなかったことが悔しかったの。続けるのも辞めるのも、ちゃんと自分で決めたかったから……」

 花梨奈さん。
 とても痛々しい顔で笑う彼女の涙を拭う。シャワーも浴び、たくさん泣いたせいか、ガーゼが湿っていた。

 取り替えたほうがいいかもしれないな。

「では、それに関しては僕に預けてもらえませんか? 決して悪いようにはしないので」
「うん……、分かったわ」

 素直にこくんと頷く彼女の頭を撫で、頬のガーゼを貼り替えるために、ベッド脇にあるナイトテーブルに置いてある救急セットに手を伸ばす。
 すると、僕のしたいことを察したのか、花梨奈さんが自らガーゼを外した。


「……っ!」

 その頬を見た瞬間、息が詰まる。
 手加減をせずに感情のままに彼女を殴ったのだと分かる跡に、怒りが込み上げてきて抑えられない。

「僕は……赤司さんを決して許せません。なので、今の地位から退いていただきます」
「えっ? で、でも、何も失敗をしていないのにそんなこと……」

 何も失敗をしていない?
 花梨奈さんに手をあげ、暴言を吐いた時点で、僕としては何度殺しても足りないくらいだ。社長職の解任を求めるだけでは生易しい……

 困った顔をしている花梨奈さんの頭を撫で、こつんと額を合わせる。

 花梨奈さんは兄二人とは仲が良いらしいから、そちらに任せたほうが余程ストレスなく、今度の付き合いを考えてもよいだろう。


「調べてみたんですが、君のお兄様方はとても優秀でした。二人とも、赤司さんよりできる男です。なら、さっさと交代させたほうが、会社にとってもいいと思うので」
「そうなの? お兄様たちってすごいのね」
「花梨奈さん、お願いします。僕に任せてください。お兄様方と連携をとって赤司さんの解任について進めていきます。花梨奈さんは今後、赤司さんに会う必要はありませんから、もう彼のことは忘れてください」

 僕の言葉に花梨奈さんが、あからさまにホッとする。

 その表情に、赤司さんのことが彼女の心の傷になっているのが窺い知れる。今回だけじゃなく幼い頃からあの調子なら……心に傷を残しても仕方ないだろう。

 だから、彼女は帰国や家族に会うことに対して頑なだったのだ。

 彼女の心の傷の深さが慮られて、胸が痛い。彼女の頬に新しいガーゼを貼りながら、歯噛みする。


「ねぇ。もしかして、ローマで会わなければならない人ってお兄様たち?」
「はい、そうです。ローマは日本からの直行便が出ているので、今日のことを連絡をしたらすぐに来ると言ってくださいました。なので、会って今後のことを決めていこうと思います」

 僕がそう言いながら笑うと花梨奈さんの表情がパアッと明るくなる。

「私も会いたい! ねぇ、絶対にお仕事の邪魔をしないから私も会っていい?」
「それはもちろんです。話が終われば夕食を皆で摂りましょう。それまではシモーネさんと観光でもして楽しんできてください」
「え? 観光? ずっと側にいちゃいけないの?」
「すみません。仕事の話をしたいので……」

 正直なところ、聞かせたくない話のほうが多くなる。
 花梨奈さんは優しい。自分に冷たい親でも排除する相談など、できれば聞かせたくない。

 それに、自分のそういうところを見せるのも嫌だ。彼女には汚いことを平気でする自分を見せたくはない。


 花梨奈さんは「そっか……」と小さく呟くと、笑顔で顔を上げた。どうやら、聞き分けてくれたようだ。

「じゃあ、皆でローマの美味しいものを食べようね。シモーネのことも紹介しないと!」
「ええ、もちろんです」

 僕が頷くと「嬉しい」と笑ってくれる。そして、すりすりとすり寄ってくる。

「私、トモの香り好き。鮮烈なスパイスを効かせたしびれるような甘い香り――このフレグランス、カルティエの『デクラレーション』よね」
「今はつけていないんですが、残ってますか?」
「ふふっ、少しね。このフレグランス、すごくトモらしい。似合ってるよ」

 香りの話をしているからだろうか、とてもきらきらとしたよい表情をする。そんな彼女に目を奪われた。

 告白という意味をもつこの香水は――男性から女性に対するただの告白ではなく、女性に断ることのできない条件を突きつけて得る男性の『勝利の宣言』を香りとして表している。

 その香水の意味を初めて知った時、花梨奈さんを絶対に手に入れたいと願う自分を後押ししてくれる気がして、藁にもすがる思いで手に取ったのだ。

 この香りを好きだと言ってくれて、その心が報われた気がした。
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