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ローマ
花梨奈の祖父
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「ねぇ、どう思う? ちょっと手を入れてみてよ」
「カリナが入れればいいと思うよ」
「えー、ちょっと怖いもん」
私たちはトモに見送られたあと、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の内部にある『真実の口』の前に来ていた。
嘘や偽りの心をもつ人間が手を入れると、その手を噛み切られてしまうという伝説を持つ世界的にも有名な観光スポットだ。
この言い伝えを世界的に有名にしたのは、間違いなくあの映画だと思う。
よく見ると二本の角があって、うねるような髪と髭におおわれている大河の神オケアノスの顔……。元は古代ローマ時代のマンホールの蓋だったらしいけど、こんなのが足もとにあるなんて怖くて歩けない。やめてほしい……
「怖くないよ。どちらかと言えば、ずっと口を開けていて間抜けな顔に見えるけどな」
「え? そう?」
そうかな? 間抜けな顔には見えないけどな……。やっぱり怖い顔だもん。
じーっと真実の口を見つめる。口の中を覗き込んでみてもよく分からなかった。そんな私をシモーネがクスクスと笑いながら見ている。
「カリナはやましいことなんてしていないだろう? なら、手を入れても平気だよ」
「そ、それはそうだけど……」
……私だって分かってる。たとえ、嘘や偽りの心があったとしても、これは単なる元マンホールの蓋だ。噛まれるわけなんてない。でも、やっぱりドキドキしちゃうのよね。
第一、ここはそういうドキドキ感を楽しむ場でもあると思う。よし! 手を入れてみようと思ったところで、シモーネが私の肩を叩いた。
「時間かけちゃって、ごめんなさい。今、やっと手を入れる心の準備ができたから……」
「違うよ、カリナ。怖い顔をした人がカリナに用があるみたいだよ」
「え?」
怖い顔をした人? 真実の口以上に怖い顔をした人なんている?
そう思い振り返ると、予想もしていない人が立っていて唖然とする。
「お祖父様……」
そこには――黒いスーツを着た男の人を数人連れた母方の祖父が杖をついて立っていた。
確かに怖い顔ではあるが、この人は元々こういう顔なのだ。威厳のある風格と昔の偉い軍人さんのような立派な髭のせいで、恐ろしく見えるのだろう。
まあ実際、厳しい人だから子供の頃は会うのが怖かったけど……
心配しているシモーネに「祖父だから大丈夫よ」と耳打ちをすると、彼が「パパの次はノンノ!?」と驚いている。
そうね……。私もビックリよ。皆、急にどうしたの? なんで今さら会いにくるの? って問い詰めたい。
「……お久しぶりです。こんなところまで出てくるだなんて珍しいですね。まだ私のことを覚えていらしたのですね」
前に会ったのは……確か十年前だったかしら?
忙しい方なので、ぶっちゃけオリンピックよりも会える頻度が低い。そのせいか、いまいち祖父という実感が湧かない。
嫌味を混じえながらニコッと微笑むと、祖父は表情をピクリとも動かさず、片手をすっと上げて人払いを命じるような仕草をした。
シモーネを下がらせろということだと分かった私は彼に「ちょっと、お祖父様と二人きりにして」とお願いをして、近くのカフェで待っていてもらうことにする。
「さて。あちらに車を止めてあるから車の中で話すぞ」
「え……? 車ですか?」
車に乗ってしまったら、そのまま空港まで連れて行かれたりしないかしら……。そう思い、一歩後退ると、じろりと睨まれてしまった。
やっぱり怖いかも……
「日本に連れて帰るかはお前次第だ。とにかく来なさい」
「はい……」
不安に押し潰されそうになりながらも、祖父に続いて車の後部座席に乗り込んだ。
「どうやら、お前の婚約者が派手に嗅ぎ回っているようだな」
「え? トモ……いえ、知仁さんがですか?」
車に乗るなり、そんなことを言われて目を瞬かせる。
「婚約を成す前に相手のことを細かく調べるのは当然のことだが、それにしては少々派手だな」
「あ……えっと……」
違うんです。彼がしているのは婚約者の身上調査とかではなくて、ただのストーキングなんです。
っていうかバレているわ。バレているわよ、トモ。と、心の中で震えながら縮こまる。
「それだけではなく、政通や一城と共謀し、アレを追い落とそうとしているようだな」
「……そ、そんなことは」
「よい。隠さずとも分かっておる。お前たちがようやくアレを切る気になってくれて、こちらとしては嬉しい限りだ」
え……?
父と祖父の仲が悪いのは知っていたが、私たちが父と決別するのを喜ぶほどだとは思わなかった。
……でもそうね、ほぼ絶縁状態な上に父を名で呼んでいるところをみたことがない。ということは、相当嫌いなのだろう。
そんなことを考えながら祖父の顔を覗き込むと、何かの封筒で頭を叩かれてしまった。
「お祖父様……」
「それを七條知仁にやろう。これをうまく使えば、お前との婚姻を認めてやると伝えておけ」
「え?」
何かしら? と思って封筒を開けようとしたら、「お前は見なくていい」と睨まれてしまう。
何よ、ケチ。私の結婚がかかっているなら、私も見る権利があるんじゃないの?
だが、そうは思っても言い返せないので、私は心の中で舌を出すだけにとどめておくことにした。
「お前との婚姻を画策したり、勤めている会社を買収までしたことは気に入らんが……。だからこそ、お前のためにどこまでできるかテストをしてみてもよいと思ってな」
「えっ!?」
祖父の言葉に飛び上がってしまう。
勤めている会社を買収……? あの人、そんなことまでしていたの?
でもトモだから仕方がないかと思える私はかなり慣らされているにだと思う。いや、毒されているのかしら?
順応って恐ろしいわね。
「……だが、すべては花梨奈。お前が望むならだ。お前がこの婚姻に乗り気ではなく、七條知仁から逃げたいと思っているなら結婚をする必要などない。今すぐ別れて日本に帰ればよい。あやつが世界中探しても一生見つけられないようにすることも可能だ」
その言葉に、トモのことを考えていた思考が戻ってきて、大きく目を見開いて硬直する。
トモから私を隠す……? 一生会えないように?
た、確かに、最初は乗り気じゃなかった。その時にこの提案を受けていたら飛びついていたかもしれない。
でも、今は、今は違う。トモとこれから先会えなくなるなんて嫌だ。絶対に嫌。
「お祖父様、私は私の意志で知仁さんに嫁ぎたいと考えています。彼とずっと一緒にいたいです! 彼となら、幸せになれる……本気でそう思えるんです!」
気がつくと、祖父の手をぎゅっと握って首を横に振っていた。「一生会えないなんて嫌です」と言うと、勝手に目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
すると、祖父が泣いている私の頭を撫でてくれる。その手に驚きすぎて、涙が引っ込んだ。
「お、お祖父様が頭を……頭を撫でた!」
「阿呆。そのような顔をするな。儂だとて、お前たち孫のことは大切に思うておる。ただ……世間一般の祖父のように、お前たちに接することができなかった。本当に必要としていた時に愛情を示してやれなかった。それは悪いと思っているのだ」
「お祖父様……」
祖父は後悔していると言った。母を実家に連れ戻した時、私たちも一緒に連れ出すべきだったと……
でも幼かった私が父を求めて泣いたから、無理矢理引き離せなかったのだと言うこの人の表情に、私は初めて『祖父』の顔を見た。
「だからといって放置をしていたわけではない。お前たちがやりたいことをやれるように援助を惜しまなかったし、困ったことがないか……ずっと人をやって見てきたのだ」
「お祖父様……」
「だからこそ、七條知仁がお前の周りを嗅ぎ回っとるのも分かったのだ」
……陰ながら見ているんじゃなくて、もっと早い段階で声をかけてくれればいいのに。
不器用な祖父に私は息を吐いた。
「それから、政通や一城に言っておけ。今回の件が片づけば、赤司の姓を捨てうちに来なさいと」
「え? でも……」
「赤司とは縁を切ったも同然だが、お前たちは違う。うちの大切な子供たちだ。よい機会だろう。儂の目の黒いうちに、あの二人には色々教え込まねばな」
目の黒いうちって、当分現役そうだけど……。そう思いながら、祖父を見つめていると鼻をぎゅっと摘まれてしまう。
「……! な、何をするんですか!?」
「ふん。言いたいことがすべて顔に出る癖を直せ」
「え……?」
「それから、花梨奈。お前のことも、うちから嫁に出す。結婚式はイタリアでもイギリスでも日本でも、好きなところで挙げればよいが、お前は儂の孫だ。アレと縁を切るなら、もう赤司の人間ではないと肝に銘じておけ」
「お祖父様……」
祖父の言葉に、なぜかは分からないが止まっていた涙がこぼれ出した。
その涙をハンカチで拭ってくれる祖父の手がとても温かく感じて、さらに涙があふれてくる。
「急にずるいです。今まで放置していたくせに……。ずっと陰から気にかけてくれていたとしても、私たちからすれば……お祖父様はとても遠い存在でした……。それなのに、急に出てきて……」
「すまん。お前たちが、アレを切るのを待っていたのだ。だが、そのようなことは言い訳にすぎぬな。これからはもう少しお前たちとの時間を持ちたいと思っている」
「お祖父様……」
祖父は泣いている私を抱き締め、幼な子をあやすように背中を撫でてくれた。
「許してくれとは言わん。これからはできる限り、お前たちに寄り添うと誓う」
その微笑みを見て、またもや驚きで涙が引っ込んでしまった。怖い顔しかできないと思っていた祖父が笑えたことが、とても驚きだ。
「お前たちの母のことも後悔しているのだ。なぜあのような男に嫁がせてしまったのかと、最近ベッドから動かないあの子を見るたびに、深く後悔する。だから、その償いをしていきたいのだ」
ベッドから動かない……
私たちと離れても、お母様は一向によくならないんだ……。悲しい……
伯父も兄も、私に母のことを隠しているけど、本当はすべて知っている。過去にこの人が、私も知らなければならないと言って教えてくれたのだ。
「お母様……体調がよろしくないんですね……」
「相変わらずだ」
「そうですか……」
母はなぜか……一言も喋らない。声を失ったわけではないのに、一言も発さないのだ。だけど、小さい時は会いにいくと頭を撫でてくれた。大きくなってからは頭を撫でてもらえなくなったけど、部屋に入ると僅かに微笑みかけてくれるのは変わらなかった。
でも会いに行くと決まってその夜に体調を崩すから、私のことが重荷になっているんだろうなと思い、段々とお見舞いに行けなくなったのだ。
愛してほしかった……。ちゃんと私を見てほしかった。ほかの子がしてもらっているように一度でいいから手を繋いで一緒に歩きたかった。抱き締めてほしかった。
幼い時は何度も母の愛を求めてしまったように思う。けれど、愛してほしいなんて到底言えなかった……
奥歯を噛み締め、両手でスカートを強く握ると、その手の上に祖父の手が重ねられる。
「お母様は……私たちを、私を生なければ……ここまで壊れてしまわなかったんでしょうか?」
「花梨奈……。絶対にそんなことはない。そんなことを言わないでくれ。あの子は、お前たちを愛しているのだ。決して間違えるな。あの子が心を病んだのはお前たちのせいではない。間違いなく、アレのせいだ」
その言葉に祖父の顔をジッと見つめる。
正直なところ、この人に愛されている自覚なんてなかった。むしろ、母を壊した元凶の私を憎んでいるのかとさえ思っていたほどだ。
だから現実を見ろという意味で――母に会わせてくれるんだと思っていた……
でも違ったんだ。この人はこの人なりに私たちに歩み寄ろうとしてくれていたんだ。そう思うと、心が軽くなって自然と頬が緩む。
「……お祖父様。私、今日は盆と正月が一緒に来たような気分です」
「バカなことを言うな」
「だって、ここ最近色々なことがありすぎて……」
トモと出会ったことで、急速に色々なことが変わってきている。
父と決別することができ、祖父の心を知ることができた。これも全部、トモのおかげだ……
「まあよい。七條知仁にそれを渡しておけ。ただのストーカーでないというところを見せてもらおうじゃないか」
「……お祖父様」
「お前がなぜ許しているのか理解できんが、お前がよいなら儂は何も言わん。但し、嫌だと思ったらすぐにでも帰ってきなさい。一ミリたりとも我慢は許さん」
「はい……」
母のように心を病んでしまうことは絶対に許さないと言う祖父に頷き、車をおりる。
「……」
去っていく車を見送りながら、祖父の愛情を知ることができた喜びと――トモがストーカーだということがバレている事実に、なんともいえない複雑な気持ちで眩暈がしそうだった。
「カリナが入れればいいと思うよ」
「えー、ちょっと怖いもん」
私たちはトモに見送られたあと、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の内部にある『真実の口』の前に来ていた。
嘘や偽りの心をもつ人間が手を入れると、その手を噛み切られてしまうという伝説を持つ世界的にも有名な観光スポットだ。
この言い伝えを世界的に有名にしたのは、間違いなくあの映画だと思う。
よく見ると二本の角があって、うねるような髪と髭におおわれている大河の神オケアノスの顔……。元は古代ローマ時代のマンホールの蓋だったらしいけど、こんなのが足もとにあるなんて怖くて歩けない。やめてほしい……
「怖くないよ。どちらかと言えば、ずっと口を開けていて間抜けな顔に見えるけどな」
「え? そう?」
そうかな? 間抜けな顔には見えないけどな……。やっぱり怖い顔だもん。
じーっと真実の口を見つめる。口の中を覗き込んでみてもよく分からなかった。そんな私をシモーネがクスクスと笑いながら見ている。
「カリナはやましいことなんてしていないだろう? なら、手を入れても平気だよ」
「そ、それはそうだけど……」
……私だって分かってる。たとえ、嘘や偽りの心があったとしても、これは単なる元マンホールの蓋だ。噛まれるわけなんてない。でも、やっぱりドキドキしちゃうのよね。
第一、ここはそういうドキドキ感を楽しむ場でもあると思う。よし! 手を入れてみようと思ったところで、シモーネが私の肩を叩いた。
「時間かけちゃって、ごめんなさい。今、やっと手を入れる心の準備ができたから……」
「違うよ、カリナ。怖い顔をした人がカリナに用があるみたいだよ」
「え?」
怖い顔をした人? 真実の口以上に怖い顔をした人なんている?
そう思い振り返ると、予想もしていない人が立っていて唖然とする。
「お祖父様……」
そこには――黒いスーツを着た男の人を数人連れた母方の祖父が杖をついて立っていた。
確かに怖い顔ではあるが、この人は元々こういう顔なのだ。威厳のある風格と昔の偉い軍人さんのような立派な髭のせいで、恐ろしく見えるのだろう。
まあ実際、厳しい人だから子供の頃は会うのが怖かったけど……
心配しているシモーネに「祖父だから大丈夫よ」と耳打ちをすると、彼が「パパの次はノンノ!?」と驚いている。
そうね……。私もビックリよ。皆、急にどうしたの? なんで今さら会いにくるの? って問い詰めたい。
「……お久しぶりです。こんなところまで出てくるだなんて珍しいですね。まだ私のことを覚えていらしたのですね」
前に会ったのは……確か十年前だったかしら?
忙しい方なので、ぶっちゃけオリンピックよりも会える頻度が低い。そのせいか、いまいち祖父という実感が湧かない。
嫌味を混じえながらニコッと微笑むと、祖父は表情をピクリとも動かさず、片手をすっと上げて人払いを命じるような仕草をした。
シモーネを下がらせろということだと分かった私は彼に「ちょっと、お祖父様と二人きりにして」とお願いをして、近くのカフェで待っていてもらうことにする。
「さて。あちらに車を止めてあるから車の中で話すぞ」
「え……? 車ですか?」
車に乗ってしまったら、そのまま空港まで連れて行かれたりしないかしら……。そう思い、一歩後退ると、じろりと睨まれてしまった。
やっぱり怖いかも……
「日本に連れて帰るかはお前次第だ。とにかく来なさい」
「はい……」
不安に押し潰されそうになりながらも、祖父に続いて車の後部座席に乗り込んだ。
「どうやら、お前の婚約者が派手に嗅ぎ回っているようだな」
「え? トモ……いえ、知仁さんがですか?」
車に乗るなり、そんなことを言われて目を瞬かせる。
「婚約を成す前に相手のことを細かく調べるのは当然のことだが、それにしては少々派手だな」
「あ……えっと……」
違うんです。彼がしているのは婚約者の身上調査とかではなくて、ただのストーキングなんです。
っていうかバレているわ。バレているわよ、トモ。と、心の中で震えながら縮こまる。
「それだけではなく、政通や一城と共謀し、アレを追い落とそうとしているようだな」
「……そ、そんなことは」
「よい。隠さずとも分かっておる。お前たちがようやくアレを切る気になってくれて、こちらとしては嬉しい限りだ」
え……?
父と祖父の仲が悪いのは知っていたが、私たちが父と決別するのを喜ぶほどだとは思わなかった。
……でもそうね、ほぼ絶縁状態な上に父を名で呼んでいるところをみたことがない。ということは、相当嫌いなのだろう。
そんなことを考えながら祖父の顔を覗き込むと、何かの封筒で頭を叩かれてしまった。
「お祖父様……」
「それを七條知仁にやろう。これをうまく使えば、お前との婚姻を認めてやると伝えておけ」
「え?」
何かしら? と思って封筒を開けようとしたら、「お前は見なくていい」と睨まれてしまう。
何よ、ケチ。私の結婚がかかっているなら、私も見る権利があるんじゃないの?
だが、そうは思っても言い返せないので、私は心の中で舌を出すだけにとどめておくことにした。
「お前との婚姻を画策したり、勤めている会社を買収までしたことは気に入らんが……。だからこそ、お前のためにどこまでできるかテストをしてみてもよいと思ってな」
「えっ!?」
祖父の言葉に飛び上がってしまう。
勤めている会社を買収……? あの人、そんなことまでしていたの?
でもトモだから仕方がないかと思える私はかなり慣らされているにだと思う。いや、毒されているのかしら?
順応って恐ろしいわね。
「……だが、すべては花梨奈。お前が望むならだ。お前がこの婚姻に乗り気ではなく、七條知仁から逃げたいと思っているなら結婚をする必要などない。今すぐ別れて日本に帰ればよい。あやつが世界中探しても一生見つけられないようにすることも可能だ」
その言葉に、トモのことを考えていた思考が戻ってきて、大きく目を見開いて硬直する。
トモから私を隠す……? 一生会えないように?
た、確かに、最初は乗り気じゃなかった。その時にこの提案を受けていたら飛びついていたかもしれない。
でも、今は、今は違う。トモとこれから先会えなくなるなんて嫌だ。絶対に嫌。
「お祖父様、私は私の意志で知仁さんに嫁ぎたいと考えています。彼とずっと一緒にいたいです! 彼となら、幸せになれる……本気でそう思えるんです!」
気がつくと、祖父の手をぎゅっと握って首を横に振っていた。「一生会えないなんて嫌です」と言うと、勝手に目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
すると、祖父が泣いている私の頭を撫でてくれる。その手に驚きすぎて、涙が引っ込んだ。
「お、お祖父様が頭を……頭を撫でた!」
「阿呆。そのような顔をするな。儂だとて、お前たち孫のことは大切に思うておる。ただ……世間一般の祖父のように、お前たちに接することができなかった。本当に必要としていた時に愛情を示してやれなかった。それは悪いと思っているのだ」
「お祖父様……」
祖父は後悔していると言った。母を実家に連れ戻した時、私たちも一緒に連れ出すべきだったと……
でも幼かった私が父を求めて泣いたから、無理矢理引き離せなかったのだと言うこの人の表情に、私は初めて『祖父』の顔を見た。
「だからといって放置をしていたわけではない。お前たちがやりたいことをやれるように援助を惜しまなかったし、困ったことがないか……ずっと人をやって見てきたのだ」
「お祖父様……」
「だからこそ、七條知仁がお前の周りを嗅ぎ回っとるのも分かったのだ」
……陰ながら見ているんじゃなくて、もっと早い段階で声をかけてくれればいいのに。
不器用な祖父に私は息を吐いた。
「それから、政通や一城に言っておけ。今回の件が片づけば、赤司の姓を捨てうちに来なさいと」
「え? でも……」
「赤司とは縁を切ったも同然だが、お前たちは違う。うちの大切な子供たちだ。よい機会だろう。儂の目の黒いうちに、あの二人には色々教え込まねばな」
目の黒いうちって、当分現役そうだけど……。そう思いながら、祖父を見つめていると鼻をぎゅっと摘まれてしまう。
「……! な、何をするんですか!?」
「ふん。言いたいことがすべて顔に出る癖を直せ」
「え……?」
「それから、花梨奈。お前のことも、うちから嫁に出す。結婚式はイタリアでもイギリスでも日本でも、好きなところで挙げればよいが、お前は儂の孫だ。アレと縁を切るなら、もう赤司の人間ではないと肝に銘じておけ」
「お祖父様……」
祖父の言葉に、なぜかは分からないが止まっていた涙がこぼれ出した。
その涙をハンカチで拭ってくれる祖父の手がとても温かく感じて、さらに涙があふれてくる。
「急にずるいです。今まで放置していたくせに……。ずっと陰から気にかけてくれていたとしても、私たちからすれば……お祖父様はとても遠い存在でした……。それなのに、急に出てきて……」
「すまん。お前たちが、アレを切るのを待っていたのだ。だが、そのようなことは言い訳にすぎぬな。これからはもう少しお前たちとの時間を持ちたいと思っている」
「お祖父様……」
祖父は泣いている私を抱き締め、幼な子をあやすように背中を撫でてくれた。
「許してくれとは言わん。これからはできる限り、お前たちに寄り添うと誓う」
その微笑みを見て、またもや驚きで涙が引っ込んでしまった。怖い顔しかできないと思っていた祖父が笑えたことが、とても驚きだ。
「お前たちの母のことも後悔しているのだ。なぜあのような男に嫁がせてしまったのかと、最近ベッドから動かないあの子を見るたびに、深く後悔する。だから、その償いをしていきたいのだ」
ベッドから動かない……
私たちと離れても、お母様は一向によくならないんだ……。悲しい……
伯父も兄も、私に母のことを隠しているけど、本当はすべて知っている。過去にこの人が、私も知らなければならないと言って教えてくれたのだ。
「お母様……体調がよろしくないんですね……」
「相変わらずだ」
「そうですか……」
母はなぜか……一言も喋らない。声を失ったわけではないのに、一言も発さないのだ。だけど、小さい時は会いにいくと頭を撫でてくれた。大きくなってからは頭を撫でてもらえなくなったけど、部屋に入ると僅かに微笑みかけてくれるのは変わらなかった。
でも会いに行くと決まってその夜に体調を崩すから、私のことが重荷になっているんだろうなと思い、段々とお見舞いに行けなくなったのだ。
愛してほしかった……。ちゃんと私を見てほしかった。ほかの子がしてもらっているように一度でいいから手を繋いで一緒に歩きたかった。抱き締めてほしかった。
幼い時は何度も母の愛を求めてしまったように思う。けれど、愛してほしいなんて到底言えなかった……
奥歯を噛み締め、両手でスカートを強く握ると、その手の上に祖父の手が重ねられる。
「お母様は……私たちを、私を生なければ……ここまで壊れてしまわなかったんでしょうか?」
「花梨奈……。絶対にそんなことはない。そんなことを言わないでくれ。あの子は、お前たちを愛しているのだ。決して間違えるな。あの子が心を病んだのはお前たちのせいではない。間違いなく、アレのせいだ」
その言葉に祖父の顔をジッと見つめる。
正直なところ、この人に愛されている自覚なんてなかった。むしろ、母を壊した元凶の私を憎んでいるのかとさえ思っていたほどだ。
だから現実を見ろという意味で――母に会わせてくれるんだと思っていた……
でも違ったんだ。この人はこの人なりに私たちに歩み寄ろうとしてくれていたんだ。そう思うと、心が軽くなって自然と頬が緩む。
「……お祖父様。私、今日は盆と正月が一緒に来たような気分です」
「バカなことを言うな」
「だって、ここ最近色々なことがありすぎて……」
トモと出会ったことで、急速に色々なことが変わってきている。
父と決別することができ、祖父の心を知ることができた。これも全部、トモのおかげだ……
「まあよい。七條知仁にそれを渡しておけ。ただのストーカーでないというところを見せてもらおうじゃないか」
「……お祖父様」
「お前がなぜ許しているのか理解できんが、お前がよいなら儂は何も言わん。但し、嫌だと思ったらすぐにでも帰ってきなさい。一ミリたりとも我慢は許さん」
「はい……」
母のように心を病んでしまうことは絶対に許さないと言う祖父に頷き、車をおりる。
「……」
去っていく車を見送りながら、祖父の愛情を知ることができた喜びと――トモがストーカーだということがバレている事実に、なんともいえない複雑な気持ちで眩暈がしそうだった。
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