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日本

取締役会と父との決別

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「ふぅ……」

 日本についてまずは疲れた体を――ゆったりとしたバスタブの中に浸けてホッと息をつく。

「お湯……温かくて気持ちいいね」

 トモに背中を預けながら、ニコッと微笑みかけた。
 いつのまにか彼とお風呂に入ることが当たり前になっている。慣れって怖いわね。


「飛行機の中でずっと眠っていたので体が痛くなったでしょう? お風呂を出たらマッサージをしましょうか?」
「ううん、大丈夫。それはトモだって一緒でしょ。いくらファーストクラスって言っても長時間のフライトはやっぱり疲れるもん。だから今日は明日に備えて、ゆっくり過ごそうよ」

 正直なところ日本に着くと、いよいよだと思ってしまって、心がざわめいて落ち着かない。

 トモは私の胸の下で手を組み、私の肩に顎を乗せた。

「花梨奈さん、明日はすぐに終わらせましょう。そのあとは、京都のお母様のお見舞いに行って……。あ、政通さんたちとも食事がしたいですね。ほら、イタリアにいる時にできませんでしたし……」
「うん、そうだね……」
「楽しいことをいっぱいしましょう。日本での思い出が辛いことだけにならないように……」

 トモの優しい声音に振り返ると、ぎゅっと抱きしめてくれる。
 その腕の中に包まれると多幸感があふれてくる。彼がいれば大丈夫なんだという安心が私を包んだ。

 トモ、ありがとう。大好き……

「大丈夫。怖がらないでください。必ず守りますから」
「ありがとう。トモやお祖父様、それにお兄様たちがいてくれるから怖くなんてないわ。でもあんなのでも実の親だから、少し複雑な気持ちになってしまっただけ……」

 そう言って甘えるようにトモにすり寄り、キスをせがむと、彼が応えてくれる。舌を絡め合うと、互いの吐息が混ぜあって溶けていくようだった。

 この人についていけば、絶対に大丈夫。何も不安なことなんてないわ。

 素直にそう思える。


 ***


「うう、緊張する……」
「大丈夫だ。本当にすぐすむから。父には証拠を突きつけて解任を命じる。ただそれだけのことだ」

 そうは分かっていても、いざとなると緊張して落ち着かないのよね。

 翌日、父の会社へ向かった。トモと政通お兄様は取締役の方々と打ち合わせがあるので、私には一城お兄様がついてくれている。

「俺たちはすべてが終わってから乗り込もう。最中にいても邪魔になるだけだから」
「うん……」

 私たちは、重厚な雰囲気の会議室のような部屋で行われている取締役会を、隣室で見つつ待たせてもらっている。トモの配慮のおかげで、一部始終が映像で映し出されているから、状況がよく分かる……

 それに隣の部屋なので、父の怒鳴り声がよく聞こえる。

 まあ、自分がしてきたことを暴かれ糾弾されるなんて思ってもいなかったのだから、無理もないとは思うけど、すごくみっともない。

 自分のしたことなのに、受け止めて反省することもできないのね。


「そういえば、トモは自分は社長にはならないで信頼できる人を社長に任命して、サポートに徹すると言っていたけど……。誰が社長になるの? お兄様たちは今後この会社に関与しないのよね?」
「ああ、俺たちはお祖父様のところに行くからな。一応、専務が次の社長の予定だ」
「へぇ、そうなのね」

 専務さんには会ったことがないのだけど、トモと祖父が任せると判断したなら、大丈夫かしら。

 この会社はトモのところの子会社となって存続するらしい。なので、今後は変な問題は起きないだろう。

 兄の言葉に頷いたのと同時に、父が顔を真っ青にして愕然としている画面が目に入る。
 その表情を見て、そろそろ終わりだということが分かった。

「うう。いざ入っていくとなると緊張するわよね」
「大丈夫だよ。基本的に父様以外は皆味方だから」
「そ、そうよね。大丈夫よね……」

 映像を見ながら覚悟を決めていると、ノックが聞こえる。返事をすると、祖父が私たちのいる部屋へ入ってきた。

「花梨奈、覚悟はできているか?」
「お祖父様……」

 その祖父の問いかけに、二人で顔を見合わせたあとしっかりと頷いた。

「では、今までの恨みつらみをぶつけてやれ。何を言ってもよいから気にせずに言いたいことを言いなさい。これがアレに会う最後だ。悔いの残らないようにな」
「はい……」

 胸の前で両手を組んで息を呑むと、兄が私の肩をぽんと叩いた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。七條さんもちゃんと側にいてくれるから」
「そうね。頑張るわ」

 こくんと頷き、深呼吸をして部屋に入る。すると、父が政通お兄様に「なんとかしろ」と言っているところだった。そして部屋に入ってきた私たちに気がついたのか、次は一城お兄様に近寄ってきて肩を掴む。

「一城! 一体これはどういうことだ! 早く事態を収拾しろ!」

 どうやら、私のことは見えていないらしい。

 だけど、事態を受け入れられずに『なんとかしろ』と怒鳴り散らしてばかりの父を見ると、なんだか情けない気持ちになった。

 ずっとこんな人を怖いと思っていたのね……


「お父様……」
「花梨奈」

 一歩前に出て父に声をかけると、とても強い力で手首を掴まれてしまう。
 痛みに顔を顰めた瞬間、トモがその手を振り払った。

「花梨奈さんに触れることは許しません」

 そして、少し赤くなった私の手首を「大丈夫ですか? 見せてください」と心配してくれる。


「花梨奈! これはお前の差し金か? こんな男に騙され私を裏切るなど……。今まで育ててやった恩を忘れたのか?」
「……と仰られましても、そのこんな男を婚約者に選んだのはお父様のはずですが?」

 父の言葉に揚げ足を取ると、カッとした父が手を振りあげた。が、その手は祖父により杖で叩かれてしまう。

 バシンッ! という大きな音が部屋の中に響く。祖父が容赦なく杖で叩いたのだということが分かった。
 父は、祖父が自分の前に姿を現したことで、すべては祖父の筋書きだったのだと気づいたのだろう。さっきまで私を見て怒りで真っ赤だった顔が、みるみるうちに真っ青になっていく。


「なぜ、貴方が? 私は貴方の娘のっ」

 夫だと言いたいのかもしれないが、言い終わる前に次は肩を杖で叩かれ、言葉を遮られる。

 母をあのようにし、愛人を作っているこの人に、母の夫を名乗る資格などない。それに離婚はとうの昔に成立しているのだし。


「私の人生唯一の汚点はお前を娘の夫に迎えたことだ。だが、それを否定してはこの子たちの存在をも否定してしまうので、論ずるつもりはない。この子たちとてお前を父親などと思っていないだろうからな」

 その言葉に父が私や兄たちを睨みつけ、絞り出すように言葉を発した。

「これが家族に対する仕打ちか?」

 家族?

 それを聞いた途端、涙があふれてくる。怒りからなのか失望からなのか分からないが、私は涙目で父をきつく睨み返した。


「ふざけないで! 貴方に家族なんて言われたくないです! 貴方は家や会社のためだけの道具としてしか、お母様のことも私たちのことも見ていなかったくせに! そう扱ってきたくせに! それなのに、よく家族だなんて言えますね! 烏滸がましいにも程があります!」

 元気だった頃の母を知る人は皆、「赤司夫人は気品高く大輪のバラのようなとても美しい方だった」と口々に言う。パーティに出るたびに聞いていた言葉が何度も頭の中を巡った。

 私は元気だった頃の母を知らない。
 でもそんなにも気品の高い――美しい人を、あのように壊した人に、たとえ心になくても『家族』などと言われたくなかった。


「貴方なんて家族じゃないです! 私は……私は……貴方なんて大嫌い!」

 感情のままに泣きながら父を詰ると、トモが私の背中をさすってくれる。背中をさすられたことで、息継ぎもせずに捲し立てていたことに気づいて、私は大きく息を吸って吐いた。

 泣きながらゼーハーと荒い呼吸を繰り返していると、トモが私の頭を撫でてくれる。

「大丈夫ですよ。頑張りましたね」
「トモ……」
「子供のように泣き喚いてみっともない」

 宥めてくれるトモと泣いている私を見て、父は吐き捨てるようにそう言った。


「花梨奈。お前はいつまでも子供のままだな。浅慮で愚かで……」
「赤司さん、花梨奈さんへの侮辱は許しません。それに、貴方が花梨奈さんや政通さん、一城さんに幼少期から行っている精神的、肉体的な暴力行為の数々についても絶対に許しません。刑事訴訟も視野に入れています」
「なっ!?」

 トモの地を這うような低い声に、父は瞠目して言葉を失ったようだった。

 そして畳み掛けるように、祖父と政通お兄様が改めて社長を解任する旨と、会社のお金の使い込みの件、母への不義や暴力の件もあわせて訴訟する準備ができていることを突きつけた。

 呆気ない……本当に呆気ない最後だった。
 これで終わりなのね……

 祖父の指示で待機していた刑事に連れて行かれる父をぼんやりと眺めた。


「花梨奈、あとは任せておけ。これから先、アレが生きる希望を持つことがないと約束しよう」
「お祖父様……」
「あと、そうだな。日本にいる間に京都に一度帰って来なさい。お前の母様に報告してやれ」
「はい」

 私が頷くと、祖父が役員たちを連れて部屋を出て行った。そして、兄二人が私の肩をポンと叩く。


「お兄様……」
「花梨奈、俺たちも事態の収束をはかったら京都に行こうと思う。そこで約束だった食事をしよう」
「花梨、笑え。清々したと、自業自得だと笑ってやれ」
「一城お兄様……」

 父は、あの人は、今までなんでも自分の思い通りにしてきた。それが通らなくなり、その上犯罪者になってしまったのだ。きっと今頃どん底だろう。絶望しているだろう。

 だから、それでいい。


「はい、笑います」

 そう言って顔を上げると、「それでいい」と言って私の髪をくしゃっと撫でて部屋を出ていった。しんと静まり返った部屋の中で、トモが抱き締めてくれる。
 

「トモ、ありがとう。貴方がいてくれたから、私……お父様に自分の気持ちをぶつけられたのよ。本当にありがとう」

 やっと心の奥底の――諦めて閉じ込めた『父親』を求める心から、完全に解放された気がする。

 もう大丈夫。私は大丈夫。だって、貴方が側にいてくれるから……


 そのあとは、トモや兄たちはとても忙しかった。取締役会を再度開いて、新しい社長の任命や今まで父がやらかしてきたことへの後処理や尻拭いなどで、気がつくと感傷に浸る暇もなく二週間が過ぎていた。
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