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第二章 雨月

美術予備校

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 お祭り騒ぎのような京都のゴールデンウィークも終わり街は日常生活へと戻った。

 私は週四日のペースで美術予備校に通い始めた。平日は五時半から三時間。日曜日は九時半から夕方六時まで。
 クラス分けされ京都美大コースに入ったが、予想通りハイレベルなクラスだった。

 入試の実技課題「描写・色彩・立体」に向けた勉強が主で、デッサン、写生などの平面造形、物を作る立体造形などの実技。図学、色彩学講義など幅広いカリキュラムが組まれている。

 デッサンの授業では、短時間で作品を仕上げ、その場で講師ができ具合を判断し、順位をつける。私の順位は何時も後ろから数えた方が早い。これが今の私の実力。
 ギリシャ彫刻の石膏を前にして、時間を決められデッサンをする。時間配分を計算し、形をとり、影をつける。機械的に絵をかく。何枚も何枚も。

 あの後、どうやって自室に戻ったか覚えていない。朝まで眠れなかった事は覚えている。
 あの日から、先生のふれた頬が熱い。
 無機質な予備校の教室で、リノリウムの床を見ながら、鉛筆をナイフで削っていると、ひょろっと背の高い男性に声をかけられた。

「マーク模試の結果が帰ってきたよ」
 アルバイトの講師、森田先生だった。

 予備校に入ってすぐ、学科の模試を受けた事を思い出す。
「はい。京都美大、A判定出てるよ。よかったね」
 ありがとうございます。と固く言いつつ結果を受け取る。

 学科は取りあえず安心したが、京都美大の学科配点は四割だ。やはり実技に重点が置かれている。

「あれっ、せっかくA判定出てるのに喜ばないの?」
 無表情の私を見て森田先生は言った。

「私、実技が悪いんで喜べないです」
「何暗くなってるの? まだ通い出したばっかじゃん。ここのクラスの連中は、浪人生もいるし、予備校に二,三年通ってる奴ばっかなんだから。気にしない、気にしない」

 そう言われて、本当に気にしなくなるほど、私はおめでたくない。

「俺も、一浪して京美大入ったし、高三の時なんて君より描けなかったよ。予備校に通い出したばかりで、これだけ描けたら大丈夫。俺が保証するよ」
 と言って無神経に笑う。森田先生は現役の京都美大生だ。

「有賀さん、専攻はどこにするか考えてる?」
「日本画です」
 もうすぐデッサンの授業が始まる。他の人がちらちらこちらを、窺っていた。

「ファイン系か。就職難しいけど有賀さん関係ないよね」
 女学院の制服を見つつ森田先生は言った。

 ファイン系とは、絵画、彫刻などの作品をつくる学科。反対に紙面、空間、建築、映像などのデザインを扱う学科をデザイン系と言う。
 森田先生の言葉にはっとした。就職の事なんてなんにも考えてなかった。明確な卒業後のビジョンを見据えて、進路は考えないといけないという事か。

 ただ漠然と絵の仕事をしたいと思っていたけど、具体的にと言われると思い浮かばない。最近決めなくてはいけない事が増えたと思う。それも、将来にかかわる大事な選択。

 大人になるまでに、いくつ選択しないといけない事が出てくるんだろう。それを間違えずに選択できるだろうか、間違えてしまったらどうすればいいんだろう? 溜息が出た。
 その溜息を聞いてなのか、

「俺はデザイン系だから、就職の心配はないんだ」
 あっけらかんと言う。

「有賀さん日本画興味あるなら、今度文化美術館で浮世絵の展覧会あるの知ってる? チケットただでもらったから、いっしょに行こうよ」
 デッサンの先生が教室に入ってきたので、はっきりと断る時間がなくなった。

                  *

 土曜日、長屋門の部屋で、彼女を待っていた。来ない事をうすうす感じながら。
 自分の感情を、うまく隠せると思っていた。なのになんであんな事を してしまったのだろう?

 一、彼女の頬が汚れていたから、ふいてあげるつもりだった。
 二、頬に蚊がとまったから、とろうとした。
 三、月に照らされる姿を見て、彼女に対する気持ちが抑えられなかった。
 四、酒によって、しらふではなかった。

 明らかに、答えは三番だ。
 あの日どうかしていた。客間に通され、寝床に入っても、眠れなかった。

 りっぱなお屋敷、豪華な調度品。先祖代々の美術品の数々。京都の旧家の威厳が伝わってくる。
 俺もこんな家に生まれていたら、絵をあきらめなくてもよかったのかもしれない。
 そんなあさましい考えが浮かんだ。

 父は早くになくなったが、母が看護師として働き、不自由はなかった。でも、絵と言う物を続けていくには、それ相応の金がいる。大学を出てまで、親のすねをかじって、絵にしがみつくわけにはいかなかった。

 単純に彼女がうらやましかっただけだ。
 教師の立場を超えた好意。それプラス、彼女に対する身勝手な羨望。
 自分の卑しさが、心の澱となって沈んでいく。恥ずかしく、いたたまれなかった。

 そんな気分で月を眺めていたら、彼女がやってきたのだ。
 ひきょう者の俺は、今日もし彼女が来たら、四番の答えを言うつもりだ。姑息でもかまわない。

 そんな事をえんえん考えて絵の修理を始めると、思いもかけない物が、出てきた。これは、隠さないと。部屋の隅に寄せられた、大量の荷物の山をさぐる。

 段ボール箱の下敷きになって、一枚の写真が落ちていた。
 子供と彼女によく似た女性の写真。二人とも、着物を着て笑っている。裏をかえすと、美月六歳、七五三。と書かれていた。

 こういう写真は写真立てに入れて、かざっておくものじゃないんだろうか。何で、こんなところに、落ちているんだろう。

                 *

 私の気分とは裏腹な五月晴れした空を忌々しく眺めていた。
 午後一番の古典の授業は、最高に眠気を誘う。クラスの何人かは完全に机につっぷして寝ていた。

 みんな夜遅くまで受験勉強していたのかな。私も昨日遅くまで色彩学の勉強をしていた。でも、眠気には襲われなかった。決して古典の授業に集中しているわけではない。

 三年生の教室は西棟3階にあり、反対に東棟3階には、美術室がある。私の窓際の席から美術室の中がよく見えた。今美術室の中も授業中だ。真壁先生の姿が視界に入った。

 月夜の晩から、祖父の家に行っていない。土曜日、絵を見せてもらう約束をしていたが、結局行かなかった。クラブにも行っていない。

 あれから、先生に会うのが怖い。何が怖いのかわからないけど。
 教室の砂羽ちゃんに目をやる。古典の教科書に隠して、数学の問題集を見ていた。
 砂羽ちゃんには、何も話していない。

 チャイムが鳴り、睡魔との闘いの場古典の授業が終わった。みんなチャイムには気付いたようで、大きく伸びをして眠気を覚ましている。
 次は選択授業で、私は美術を選択している。

「いい授業やったわ。集中して勉強できた。あの先生声がいいねん」
 砂羽ちゃんが皮肉たっぷりに言った。

「砂羽ちゃん数学の勉強してたやん」
「あたりまえやん、私には古典関係ないもん」

 医大志望の砂羽ちゃんの入試には確かに関係ない。
「美月、次美術やろ。はよ移動したら? 私は帰って勉強するわ」
 砂羽ちゃんは本来なら書道の授業があるが、それをさぼって帰るつもりらしい。

 女学院は他大学への進学率が悪い。それをなんとか改善したい学校側は、外部進学クラスの生徒に期待している。入試に関係のない芸術系授業をさぼってもお咎めなし。その時間に予備校に行くなり、入試科目を勉強してもらった方がいいから。
 大人の事情はさておき、私は非難がましく言った。

「ずるい、私もサボって帰ろうかな」
「何言うてんの、さっき愛おしそうに美術室眺めてたやん」

「いっ愛おしそうになんか眺めてない」
 私がうろたえる姿を見てニヤニヤ笑っている。もうほんと、意地悪なんだから。

「ほな、久しぶりにいっしょに四条いこ」
「えっ勉強いいの?」
 私が驚いて聞くと、砂羽ちゃんは、カラリと笑って言った。

「こっちの方が大事」
 私はうれしくて砂羽ちゃんの腕に飛びついた。今日は予備校も休み。

 二人でかばんをかかえ、後ろめたい気分で職員室の前を通る。廊下の掲示板には雑多に、ポスターが貼られていた。
 ふと、一枚のポスターの前で、私の足がとまった。

「道成寺って能のポスター? こんなもん、ここにはったって、誰がいくねん」
 砂羽ちゃんが、ポスターを見て真っ当な意見をのべた。
 そのポスターは学校の近くにある能楽堂の宣伝ポスターだった。今度の演目が道成寺なのだろう。

「道成寺って元祖ストーカーの話やで。嫉妬に狂った清姫が、僧の安珍を呪い殺すねん」
「美月見た事あんの?」

「昔おばあちゃんにつれていってもらった。話はさっぱりわからへんかったけど、怖かった事だけ覚えてる」
 へーと砂羽ちゃんは一応あいづちを打つ。

「昔、うちの家に清姫がいてん」
 砂羽ちゃんが怪訝な顔をして、私に話しかけようとしたら、島田さんにばったり出くわした。

「えっ有賀さんさぼり? 珍しいな」
 私のかばんを見て言う。

「昨日メールしたけど、真壁先生に追加の志望校、提出した? クラブの時間にわざわざ私に伝言頼んできたんやで、先生」
 そう言えば、昨日島田さんからメッセージをもらっていたけど、返してなかった。

「ごめんね、予備校に行ってて。まだ提出してないけど、近いうちに出すから」
 最近クラブにいっていない事と、メールの返信を忘れた事をすまなく思い、頭を下げた。

「いいよ、気にせんといて。それに、先生に話かけられてうれしかったし。予備校で忙しいやろうけど、クラブたまには来てな。有賀さん来んと寂しいわ」
 先生に話しかけられた時の事を思い出したのか、ニマニマしながら行ってしまった

「島田さんええ人やな」
 砂羽ちゃんが島田さんの背中を見つつ、ぼそっと言った。
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